彦坐王の夫人と子たちに感じる、ほのかな違和感。

そして息長水依比売と袁祁都比売、二人の婦人の共通性は何を表しているのでしょう?

土地の神と融和し、やがて神として崇拝されてゆく、日子坐王の秘密に迫ります。

<関連動画>

古代豪族~chapter-01~

古代豪族~chapter-02~ 「 蠅王 」

古代豪族~chapter-03~ 「 崇神の時代 」

古代豪族~chapter-04~ 「 崇神の時代 ~後編~」

古代豪族~chapter-05~ 「 彦坐王」

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#古墳時代
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21 Comments

  1. 嵐の王たる渡来の海神は、多くの属性を持っています。破壊神、豊穣神、軍神、君神、雷神、疫神、山王、天王、牛馬の王、地を揺する者、永遠に循環する聖王。
    蠱毒の末の柱でもあり、いずれに語られようとも、力あることを強調された存在であることに変わりはありません。
    彼も、そうだったということなのでしょうか。

    私は神や悪魔でしかモノを語れない単純な頭の人間なので、
    複雑な日本の歴史を手解ける結城屋様を、尊敬いたしております。

  2. さすが【深掘解説】、興味深いです🤗
    確かに日子坐王は素戔嗚尊を彷彿とさせます。記紀の編者は、日子坐王をモデルにして素戔嗚尊の神話を創作したのかもしれませんね。

    オケツヒメ―お名前が嫌過ぎて💦
    ええ、辞書引きましたとも!😤(笑)

    私の持ってる漢和辞典では、“祁”の音読みは“キ”になってました。
    オキツヒメ―漢字を表音文字として使用してるとして、現代語訳するなら「沖の姫」?
    息長水依比売と袁祁都比売も同一人物の可能性があると推察しました。
    地域で方言がある様に、この時代の漢字の使い方も全国で統一されていなかったのかも。
    三上氏も息長氏も和に(漢字変換できなかった😭)氏も元を辿れば海人族だったんでしょうか?やっぱり皆、親戚ですねぇ👀

  3. 【彦坐大王】
    大和王国の都合、10代目の大王です。
    父は開化大王(天皇)、
    祖父は孝元大王(天皇)
    この孝元さまが所謂、ヤタガラスで、大田田根子。
    本名は登美(登美副王家の河内の分家)の大田多祢彦。

    大挙して侵攻してきた物部らに内応、手引きして
    三代磯城津彦タマテミ大王の権力失墜に端を発した大和の大王家と豪族たちが入り乱れて延々と繰り広げられた覇権争いの内乱に嫌気をさして

    物部を利用して孝霊朝の大王家や大彦(太子に同じ。所謂、ナガスネ彦)たちほか豪族たちを大和(奈良盆地の内外)から一掃。
    物部軍はそれらに追撃を加えている隙を衝いて
    漁夫の利を得たwww
    登美の大田多祢彦は三輪山方面に進出して大王に即位した。
    【三輪大王】と呼ばれた由。
    前後関係から、孝元大王(天皇)かと。

    ここで易姓革命が成されて、
    渡来人(徐福の子孫)の海(アマ)大王家から
    元々、先に大和入りして開発に当たっていたクシヒカタ命子孫/
    出雲神族/出雲王国分家の登美家(大王家)に転換しました。

    三輪大王/登美の大田多祢彦(孝元天皇)の実の姉が
    【モモソ姫命】
    荒ぶる物部らと在所の出雲族との間が険悪化~宗教戦争に発展した
    危機的状況を憂慮した
    新たに三輪山の【幸の神信仰の神々】の媛巫女/大日霎貴命に就任したモモソ姫命が
    様々に思慮を深く巡らして、
    双方が納得する形の斬新な祭祀方法を提示、実行すると
    争乱は止み、双方の人々がモモソ姫命の下に仲良く祭礼に参加する様になり
    平和が再来しました。
    この平和を【モモソ姫命の平和】と人々は賛美したらしい。

    ↑から
    モモソ姫命=大日霎貴命/媛巫女。(=天照大神荒魂)=瀬織津姫命

    瀬織とは↑の様に激しく対立して相争う勢力(瀬)の間に入り、
    双方が納得する和議/和平案を提示して
    争乱を納め平和をもたらすこと(織/折り合いを付ける)

    大変困難な瀬織を見事に成した偉大な媛巫女さま。
    =瀬織津姫命=モモソ姫命です

    三輪大王の後継者は
    大御食主大王、所謂、開化天皇。

    母親は大和王国で初めての物部の姫様。
    物部(徐福と宗像の市杵島姫命の子孫)と初めての混血の大王だった。

  4. こうしてみると彦坐王も名前というよりは「ここに居りますのは正しく日の御子」といった意味合いの称号に思えますね。
    なぜか記述が少ないというのは詳細が分からないからというより、
    彦坐王の詳細を書くと都合が悪い勢力がいたのかな?と思ったりして、
    じゃあそれは誰だ?と考えるのも歴史の面白いところですね。

  5. 後編では、日子坐王と表記を変えておられ興味津々、視聴致しました。
    不可思議で妖しい輝きを放つ記紀の神々の世界が一層鮮やかに甦り、心地よい脳内刺激を
    受ける20分間でした。  日輪と水の王、農業王だったのでしょうか。
    淡海、三野を治めたと思われる日子坐王。若狭から越へ、西へは出雲、筑紫への日本海水運を
    抑え、豊かな水利活用で開墾殖産を勧めれば南大和を凌ぐ実勢を誇った事でしょう。
    ふと、お祀りされている地域は、淡海三野の分水地帯ではと思いました。

  6. 乎!動画有難う御座います。
    今週、丹波一宮・出雲大神宮に行ってきましたよ。

    江戸時代に島根が名乗る前まで、出雲は丹波一宮だったそうですよ。

    713年と言えば、瑞祥地名を全国に発布した年ですね。その時に別けたんですね。古事記ストーリー対応?ですかね。

    10代様の母は、イカガシコメ皇后ですから、湖北息長氏?なのかも?

    10代様の皇后の母が岐阜一宮の南宮大社の金山姫。

    すなわち、大彦命の奥さんの金山姫ですね。

    南宮大社と関係があるのかな?

    大彦命の弟が少名彦で9代様の兄2人。

    安土の沙沙貴神社と伊賀の敢國神社に仲良く祀られてますが、敢國神社は金山姫。沙沙貴神社はに16代様が3座になりますね。乃木大将の先祖、佐々木氏になります。
    大海人皇子の進軍ルートの長浜が息長氏になるようですね。

    となると、日子坐王は、大彦命の奥さんの実家に入り婿したのか?
    南宮大社は、初代様のお爺さんの火折命・彦火火出見命がまつられてますから、火折命の系列に入り婿?ですかね。

    9代様は、湖南の九帝宮に鎮座したようですが、8代様が健在の時にイカガシコメ妃にホニャララしたのか?ヤマトトト姫と10代様は、案外幼馴染み?
    2人がラブ💘してたら、ヤマトトト姫は、ホニャララですよね(笑)
    和王耳。神八井耳系の隠語では?
    伊勢神宮・多賀大社・沙沙貴神社・島根・出雲は、花菱紋・多氏紋をデザインに織り込んでますから。
    丹波は、出雲大神宮の國譲りや足利尊氏の旗揚げ・明智光秀の愛宕神社で有名ですが、清和天皇の陵もあるし、古代の製鉄の時に出るカスが出土した古墳もあり、何かと栄えてたんでしょうね(笑)

    相変わらず、挿絵がエ〇イですね。好みです👍

  7. 日子坐王の領域と前方後方墳のエリアが重なる気がするのですが。前方後方墳は山中に作られることも多く、日子坐王は山の民を統べていたのかとも思ったりします。

  8. 私の勉強不足もあるのでしょうが、他の歴史系、都市伝説系の動画よりもめちゃくちゃしっくりきます!!
    これからも、応援させていただきます^ ^

  9. 名前の類似&やたら長いは、古代神話域の謎・というか特性ですね。 
    「~タラシ:ヒコ/ヒメ」が夫婦ということも近々でてきそうですし・

  10. 諷歌(ソヘウタ)倒語という言葉はご存知ですか? 私も全然わからないのですが(笑)、事実(史実)を知っている人にしかわからないように暗号化しているらしく、言葉の意味を誤訳させたり、登場人物の時系列の順番を入れ替えたり、架空の人物を作って一人二役三役もさせていたりと、基本的には内容を秘密にしたかった技法のようです。昔の人は正しく伝える気がなかったように思いました。
    いつも探偵のような推理に感銘を受けています。 応援しています!

  11. この流れは、天智天皇と天武天皇の関係性にも影響が有ったりしそうな??
    (素人の妄想です。。)

  12. オケツヒメとタニハのオオゲツヒメのキャラが被るんですが、関係あるんですかね。
    オオゲツヒメと外宮の豊受大神もつながり面白いですね。

  13. 日子坐王と須佐之男命を重ね合わせるとは凄いですね。確かに日子坐王は不思議な人物です。古事記には系譜が多く書かれているようですが国書である日本書記には余り詳しい事は書いていないと記憶しています。もしかしたら本流たる大王家と勢力争いでもあったのかも?私は美真木入日子を実在した大王(部族国家の域を出ていないと思いますが・・)と思っていますので日子坐王も実在していたと思うと古代史は本当に面白い!また拝聴、勉強させていただきますね。

  14. 崇神天皇が現在の天皇家に通じる畿内に王権を建てた最初の大王でしょう。
    日子坐王はその有力な配下だったのでしょうね。
    開化天皇の子となっているが、そもそも開化天皇は実在しないと考えられている
    日子坐王が和爾氏の姫の子となっているとこみれば、和爾氏の生まれだったのでしょう
    当時は母系社会だから、父系はあまり注目されなかった。
    父親の名前の残ってない人達も多い。
    それを利用して、日子坐王は支配下に入った一族の王の父親ってことに記紀にしたとすれば、彼の子供が広い範囲に存在し
    沙穂や丹波それに息長など有力な氏族の人間であることも説明がつく

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