
派手好きだった母・ノリ子と
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20歳で私を生んだ母ノリ子は、決して歌が上手だったことはありません。でもその母親、私の祖母ヤスノは歌が上手で、外見も私はそっくりだったそうです。祖先には村の歌舞伎役者もいたそうで、芸能好きなDNAが脈々と受け継がれていたのでしょう。歌うのは苦手な母でしたが、流行歌は大好きでした。やっとしゃべれるようになった幼い私に流行歌を教えたほどです。最初に覚えた歌が♪富士の高嶺(たかね)に降る雪も…という「お座敷小唄」だったそうです。3歳のころです。面白がって、母は私に常に10曲ほど覚えさせて、いろんな場所で歌わせていたようです。ちなみに母は森進一さんと五木ひろしさんが大好きで、父親は川中美幸さんの熱烈ファンでした。
小学校1年生の時、母は突然「お店をやりたい」と言い出して、精肉店の隣にバーを開店しました。両親とも酒を飲めないのに、まだ27歳と若かった母は、じっとしていられなかったのでしょう。食堂をたたみ、フランス語で「貴婦人」を意味する「ラドンナ」というバーを始めたのです。東京の秋葉原でシャンデリアを購入し、豪華なビロード仕立ての椅子も入れました。わざわざバーテンダーを雇い、接客用に若くてきれいな女性を何人か集め、空いていたアパートの部屋に住み込みで働いてもらいました。
お笑い芸人並みに頭の回転が速かった母は、お客との会話も上手でした。何よりも、お客全員の顔と名前、電話番号まで覚えるという、特異才能がありました。100人以上の常連が母の頭の中にインプットされていたようです。昔の母の写真を見ると、笑ってしまうほど派手でした。着物やドレス姿はまさにファッションショーのよう。時にミニスカートをはいて、今のギャルのような格好もしていました。町の名士も訪れるなど相当、繁盛していました。でも、娘の私は、母が授業参観で学校に来るのは恥ずかしくて嫌でした。最も思い出すのは卒業式です。ほかの親御さんは黒のシックな装いでしたが、母はなんとオレンジの着物に真っ赤な羽織姿。3階の教室の窓から、校門から堂々と入って来る母の姿を見て悪い汗が出てきました。「こんな母みたいにだけは、絶対になりたくない」とずっと思っていましたが、年齢を経るに従い、だんだん母に似てきた自分が怖いです。
「お嬢様」でしたから、大好きな山口百恵さんの新曲はすべて町のレコード店で買いました。発売前日に店から連絡が来て、買えたのです。その夜何度も聴いて覚えて、翌日に学校でみんなの前でこの日発売の新曲を披露するのが自慢でした。4歳年下の弟とは毎晩、家で歌合戦をしていました。両親は仕事で不在でしたが、午後9時就寝が決まりでした。でも、互いの部屋のドアを開けておき、隣の部屋で歌い合い、もう一人が審査員になって講評し合っていました。桜田淳子さんが秋田から出たこともあり「スター誕生、秋田に来ないかな」と、いつも待ち望んでいました。
◇藤 あや子(ふじ・あやこ)1961年(昭36)5月10日生まれ、秋田県角館町(現・仙北市)出身の64歳。民謡歌手として活動後、87年に村勢真奈美の芸名で「ふたり川」でデビュー。89年、藤あや子に芸名を変え「おんな」で再デビュー。92年「こころ酒」で日本有線大賞を受賞、第43回NHK紅白歌合戦に初出場、21回出場している。新曲「想い出づくり」など「小野彩(このさい)」のペンネームで作詞・作曲も行う。
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