不安な時代だからこそ、救ってくれる本と記憶がある。奈倉有里さんの最新エッセイ集『背表紙の学校』の刊行を記念して、連載時に感じていたことやタイトルに込めた思いをめぐってご寄稿いただいたエッセイ「本屋さん消えないで」(『群像』2026年5月号掲載)を特別にお届けします。

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本屋さんが消えていく。地方のちいさな町からも、大きな街の中心部からも、都心の学生街からさえも、本屋さんがなくなっていく。

すでにたくさんの読書家たちが、消えていく本屋さんを惜しみ、どうしたらいいのか頭をひねり、できるだけネット書店ではなく近くの本屋さんを利用したり、カードや電子マネーよりも現金を利用することで少しでも書店の利益が増えるようにしたりしてきたけれど、本屋さんはどんどんなくなっていく。

身のまわりだけでも、都内の小規模でこだわりの選書のあった書店がなくなったり、それなりに大きかった書店でいつのまにか本のスペースが縮小されてほかのサービスが併設されたりするのを目にしてきた。その大きな流れを目の当たりにすると、もはやもの書きにも本好きにも、できることなどほとんどないような気がして滅入ってしまう。

そんな未来をまったく想像しない時代があった。表題作の「背表紙の学校」は、子供のころ、ごく普通のちいさな町の本屋さんで、延々と背表紙を眺めていたころの思い出を綴っている。店先には漫画雑誌が並び、店内には料理雑誌や懸賞雑誌が置かれ、片隅に海外文学の文庫本がある。多くの本好きが、そんな本屋さんの記憶を抱えているのだと思う。

これまで自分を育ててくれた、大事なことを教えてくれたものは、なんといっても本だ。ゲーテの言葉は学校の教科書の内容の百倍くらい鮮明に暗記していたし、いまでもふとしたときに頭に浮かぶ。そしてトルストイを知り、夢中になって、いきなりロシアに飛んでしまったのだから、進路にも思いきり直接影響している。それらの本が並んでいた本屋さんは、自分にとってはほんとうの学校のようなものだ。

しかし私がこの「学校」の模範的な生徒だったかといえば、かなり怪しいところがある。

たとえば中学生のころ、読書の最中に衝撃的なことが起きた──文庫でトーマス・マンの『ヴェニスに死す』を読み、不思議な感じのする展開に思わずドキドキしながらページをめくり、そしてとうとう最後に主人公が死んでしまったとき、「えっ、死んじゃうの?」とびっくりしたのだ。だが本を閉じ、題名に「死す」と書いてあるのを見て、それが目に入っていなかった自分にさらにびっくりした。よく考えたら死ぬに決まってるじゃないか。死す、って書いてあるんだから。

どうやら、私はこの「題名から内容を推測する」ことがたいへん苦手だ。苦手というよりは、あえて想像せずに読むのが好きなのかもしれない。背表紙を眺めているときの印象はあくまでもぼんやりとしたもので、「きっとこういう話だろう」と具体的に話の展開を想像するわけではない。表紙や裏表紙の紹介文も、帯に書かれている文言も、なるべく読まない。いわゆる「ネタバレを避ける」というのとは似て非なるもので、なんというか、作者の書いた文章の企みになるべく体当たりで呑み込まれたい欲求とでもいおうか。

あるいは、異質な文章を頭に入れた状態から作者の言葉に進むというプロセスへの抵抗といってもいいかもしれない。実際、読み終わってから裏表紙などの紹介文を見ると、やはりそこに「作者ならこうは書かないだろうな」という異質さを感じることも多い。

とはいえ題名は(翻訳文学の場合は邦題が原題と異なることもあるけれど)基本的には作者がつけたわけで、題名から内容が想像されるのも作者の想定内のはずなのだが、『ヴェニスに死す』と書かれていても主人公が死ぬのを予測できなかった私は、なんのために背表紙を眺めて、なにを得ていたのか。あの時間はなんだったのか。

結論からいってしまえばそれは、本の中身への憧れを募らせる時間だったのだと思う。

本を読みたい。だけど一気にぜんぶ読むことはできないし、子供の私はそうそういくつもの本を買うことはできない。だから背表紙を眺めていた。ときどき手にとって、なかをめくって、そっと戻して、また背表紙を眺めた。

そうやっているうちに、頭のなかに背表紙の集合体のようなものができていった。本は何冊も読んでいくと、印象に残っている部分と残っていない部分がもやもやと溶けていって、残像のようになる。そんな残像になっている読んだ本のほかに、まだ題名しか知らない本がある。それらをまとめて形に留めておいてくれるいちばんシンプルな形が、背表紙だ。手がかりは数文字の題名と作者名と、厚み。たったそれだけの向こうに豊富な文字の連なりが広がっているという確信がもたらす、充足の予感のようなもの。

そんな気持ちを思いださせてくれたのは、2年前に移住した新潟県の柏崎市にあるちいさな本屋さんだった。女性の店主さんと歳をとったお母さんがいる、ごく普通の本屋さん。店主さんは近くの海の絶景の穴場を教えてくれたり、私がカフェでイベントをやったときに本を発注して届けてくれたりした。現地に住む人は、「私が子供のころ、店主さん(いまの店主さんのお母さん)は、いくら立ち読みしてもなんにも言わないでにこにこしてくれていたから、本はぜったいあの店で買うことにしてるの」と語っていた。

ところが若いほうの店主さんが急逝し、その本屋さんは突然なくなってしまった。私が通えたのはあの本屋さんの長い歴史の、ほんの最後の数ヵ月でしかなかったことになる。あまりに悲しすぎて、その章はこの本のなかのほかの章よりも少し短い。言葉が続かなかったのだ。

せめて「背表紙の学校」を表題作とすることで、これまで私の「学校」になってくれていた、かつて存在した本屋さんへの感謝と、いまでもがんばっている本屋さんへの応援を形にしておこうと思う。

表紙の絵はドイツ在住のMirjam Wilkeさん。ウェブ上でこの絵に似たイラストを発見し、連絡をとり、ロシア語をドイツ語に翻訳しながら本の内容を説明したところ、本文にも出てくるトルストイやヘッセ、そしてそれらの背表紙に挟まれて建つ本屋さんを描いてくれた。ドイツ語圏のかたなので日本の文庫本のような形にはなっていないし、作者名もドイツ語表記(英語と微妙に違う)になっているが、海外文学に憧れて境界を越えていくことを夢み続けるこの本に合っていて、とても嬉しい。ちなみに、裏表紙には猫がいるので見つけてね。

奈倉有里の本奈倉有里『背表紙の学校』奈倉有里『背表紙の学校』

奈倉有里『背表紙の学校』
学校には存在しない教科を、町の本屋さんが教えてくれた。

「私たちは家で、列車で、道端で、詩を読んだり聴いたり思い返したりしながら、ひそかに世界の声に共鳴し続ける。どこかからきた声は一瞬にして私のものになり、いつまでも残りながら、同時にほかのすべての人のもとに戻っていく。また誰かが、この不安なときを越えられるように。」(本書より)

不安な時代だからこそ、救ってくれる本と記憶がある。明日がきっと大丈夫になる、心の明かりを灯してくれるエッセイ集。

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奈倉有里『文化の脱走兵』
本を片手に、戦う勇気ではなく逃げる勇気を。「国でいちばんの脱走兵」になった100年前のロシアの詩人、ゲーム内チャットで心通わせる戦火のなかの人々、悪い人間たちを化かす狸のような祖父母たち──あたたかい記憶と非暴力への希求を、文学がつないでゆく。言葉を愛する仲間たちに贈るエッセイ集。  

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