1998年1月発行のG・アルマーニ特集号(中央公論社)

ジョルジオ・アルマーニが亡くなりました。かねてから体調不良のうわさもあり、また6月のメンズコレクションショー、7月のパリでのオートクチュールのショーでも姿を見せなかったため、心配されていましたが、4日ブランド側が公式に発表しました。

アルマーニのファッション業界における功績はあまりにも大きく、またその影響力も強力でした。この場でそれを一つ一つ書くつもりはありません。私が実際に出会った彼とのエピソードを綴りたいと思います。

1998年『marie claire』誌面で彼の特集を組んだ時、最初は12ページで考えていたのですが、とても収まらず最終的には32ページの大特集になってしまったことがあります。あまりにも紹介したいことが多くあったためです。表紙もアルマーニ本人に登場してほしいとお願いしてみました。非常にシャイな方なので、「一人ではいやだ」とのこと、そこでアルマーニ自身が提案してきたのは「今、ミラノにナジャがいるのでナジャ(・アウアマン)と一緒に表紙に出る」とのこと。スーパーモデルのナジャに払うギャラの用意がないというと、「僕が交渉してあげる」と。結果普通のモデルのギャラよりも安い額で出てくれたのです。撮影はアルマーニの自宅。大勢のアルマーニ側の社員も呼ばれ、見守る中で撮影されたのです。

32ページに増えた特集とアルマーニとナジャの表紙の号の校了は、その後アルマーニが来日した際、編集部を訪れたアルマーニ自身が校了のサインを入れてくれました。

多分アルマーニが雑誌の編集部を訪れたというのはこれが最初で最後だったのではないでしょうか。15分の約束が1時間以上も滞在して、当時の会長だった嶋中雅子さんの立てたお茶を、おいしそうに飲んでいました。

その後も仏版『marie claire』からデザイナーとして贈賞された時はパリで、また東京でも日本ファッション・エディターズクラブでデザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞した際にもお会いし、お話しさせていただきました。いつも感じたのは、とてもストイックでクールな完璧主義者ということです。常に着用していた濃紺のシャツとパンツが、その印象をさらに深めているような気がします。

最後に彼の姿を見ることができたのは昨年10月のニューヨークでのコレクションでした。

ファッション界は大きな宝を失いました。アルマーニにはまだまだ元気で活躍してもらい、ファッション界のこれからの指針を示してもらいたかったと思うのは私だけではないと思います。

2025年9月5日
marie claire編集長
田居克人

・「マリ・クレール」日本上陸40年。女性誌のプロトタイプを作り続けて

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