両親の人生は壮大なエンターテインメントだった 前後編 内田也哉子さんロングインタビュー        ・・記憶と記録2024

内田彩子さんロングインタビュー前編後編 も続く両親の人生は壮大な エンターテインメントだったとさえ思い ます内田子1976年東京と生まれエセ 執筆を中心に翻訳作詞音楽ユニット細胞と ナレーションなど言葉と音の世界に携わる 3時の母機関誌週刊文春ウーマンにて エッセブランクページ月刊誌家庭画法にて 季節連載衣田より前中Eテレノーアート ノーライフ毎週日8時55分からでは語り を担当そっくりな母娘母を見て育つ 2018年9月母であるきききりんさんを 見取りその半年後に父内田ゆさんを見送っ た母のざしを受け継ぐ内田彩子さんは イノセントなイメージはそのままに健やか な身体と精神の持ち主だった1976年 生まれ3の母でもある17年風切りの映画 東京タワーオと僕と時々おとを見てきまし たお母さんの若い頃を演じておられてお 2人はそっくりです出演したのは20代の 終わりです今は46歳なので15年以上 経っていますがあれを見た人には似てない と言われますよ私はお芝居ができないから 母の自然な感じと私の身のこなしとかが あまりにも違いすぎてでも小さい時から似 てると言われていたのでは母を見て育って きたんですから兄弟もいませんし父という 存在はいたけれど不在だったので家には母 しかいなかった自分の子供を見ていても 思うんですが子供って本当に見たものを そのまま吸収する大竹誠さんのラジオに 出演した時に菅たちが似てると思ってた けどそれだけではなくて精神が似てるんだ ねと言われました生まれた時からお母さん と2人家族平均から外れていることが当然 だったんですよね子供って最初から親が 1人しかいないとこれが自分の家庭の スタンダードだって思うから何も寂しくは なかったんですむしろ友達の親とかに可い そうね寂しいでしょうと声をかけられてえ なんでだろうそういう自覚の仕方でした しかも育った家は西部にあるコンクリート の打ち放しで床が現象石の真っ黒な家よく こんな環境で幼い子供が育ったなという ような危険をはんだ家でした角だらけで 手すりが片方しかなくてすぐ落ちてしまう 階段友達が遊びに来るとここち怖いと言っ てそそくさと帰って行きました笑い後に母 は自宅1階の裏側に事務所を構えたので マネージャーさんがいて所属タレントの岸 兵徳さんや大く千代さん吹純さんだが 出入りしていました母が仕事でいなくても 大人の気配があって困った時は飛び込め ましたけど面倒は見てくれませんご飯も 1人で食べていました私が生まれたことを

きっかけに母は葉巻きをふかす一方で マクロビオティック的な生活を始めたん ですが日の蓋の鉄の歯で玄米を炊いておい てくれて1品ぐらいおかが置いてあって ぬか漬けは切って冷蔵庫に入れてありお 味噌汁は自分で作りなさい小学校の122 年生で味噌汁を作ってましたねキリンさん は愛情をけにしないで生きてきたという胸 を話していますが妊娠してから現前職に するとは十分な愛情です母がよく言ってた のは子育てにかっこたるポリシーもなかっ たけど軸に置いたのは食べ物なるべく で手作りだけどあまり手を加えすぎてない 昔ながらの製法で作ったものを食べさせる ことそこは徹底してましたね自分が子育て してみて毎日ご飯を作ることが本当に大変 なことだって分かりましたしかも母はフル タイムで仕事をしながら会社も運営して そばにいない夫を食べさせながら笑い内田 やや子さんロングインタビュー両親の人生 は壮大なエンターテインメントだったと さえ思います最信号からちょっと見せの 画像1海外ケに同伴服は全部もらい物 やや子さんがせまれたのは勇地と名乗って いる母が聞ききりんになった頃だ高子長率 ドラマ時間ですよや寺内貫太郎一家でお 茶の間の人気者だった俳優がロック ローラー内田ゆうやけして3年目妻は妊娠 中に夫を追い出していたお母さんが泊まり でロケに出かけることもあったでしょう そういう時は親戚の誰かが泊まりに来て くれたりはしていました海外ロケの時は 学校を休ませて私を連れていくんです当時 はバブル気だったこともあっていっぱい 海外ロケがあったんですよ面倒見る人がい ないこともあるけれども学校行くよりも 海外の文化や人々に出会えた方がいい だろうとの大胆な考えで笑いなかなか行け ないようなところに連れてってもらいまし たしょっちゅうんでたから成績もすごい 悪かったです撮影中やや子さんはどうして たんですかなんとなく現場をちょろちょろ していたり知り合いがいる年ではその人 たちと町を歩いたり確かチェコスロバキア の現場で私が寝ちゃったんです母は来てい た毛皮に私を来るんで公園のベンチに置い たまま撮影に入って終わって戻ってきたら 長い時間なのにまだ寝ていたとか母の ショルダーバッグの中に赤ん坊だっった私 が入ってる写真が残っています母親が職場 に子供を連れて行く是非を問うアグネス ロソが起こったのは87年ですその10年 も前にキリンさんは職場に子供を連れて 行ったことになる貧貧を買っていたもしれ ないけれ人に迷惑かけるのが嫌いな母だっ

たのでスタッフさんに頼んだりしないで ここで遊んでいられるわねと言われてただ から私孤独でしたよね中学に上がるまで 洋服を買ってもらったこともなかったし ベビー服はそれも全部知り合いのお風呂を もらっていたそうおしめももらうかさらし を塗ったと言ってました徹底してたんです そこは人がプレゼントとしてくださっても いらないと返すんです服もおもちゃも全部 お年玉でさえ100円玉とか50000円 玉の効果でなければ返してきなさいと言わ れてどれだけ辛かったか学校の制服が途中 で切り替わった時新しいモデルを買って 欲しいと頼んだら切れるのに必要なのって みんなと同じじゃないからと言うとへえ あなたはみんなと同じになりたいんだと すごく軽蔑されて笑いお年玉を貯めて買い なさいと言われました洋服はどうしてたん ですか全部人からもらったものでし 藤谷さんとか麻子さんとか岸本かこさんと かみんな小柄できっとシーズンごとに 買い替えるから何年か前の片落ちのものを もらっていました子供にしてはいいもの だったかもしれないけど大人のだから 肩揚げしたり縫い縮めてきて大きくなっ たらほいてきてたお友達がなかなかでき なかったんですが雰囲気からしていよだ からでしょうねずっとうちは貧しい家なの かものすごいケチなのか分からなかったん です後に母は父をめいろんな友人知人に ものすごい単位でお金を援助していたこと を知りました母が亡くなった後に感謝の 手紙が来てびっくりしたんですききさんは 買えるのに買わないのも辛いんですと書い ておられます笑い戦後のものがない時に 生まれた母は後に実家が物だらけになるの を見て物が溢れたところに幸せはないと 思ったようです自分の子供が生まれたら物 の明利が果てるまで使い尽くして欲しいと 考えたいろんな道具を揃えるのではなく1 つのの道具をアレンジして使うことを学ん で欲しいということでしたテレビは母の 部屋にしかなかったし鍋も最小限のもの だけ包丁も万能包丁1つに詳細包丁が1つ 靴下や肌着もボロボロになったら雑巾に するのは当たり前のことでしたやや子さん がたんな頃はちょうどバブル機で日本中に ものが溢れていた時代です友達のお家に 行けばおもちゃが溢れていて家に帰って くると何もないあるものは数殺の絵本と母 の書物だけ人形もないから鍋を使ってお まごしたり傘を広げてテントを作ったりお 人形が欲しかったあの時の気持ちは忘れ られません泣き落としは聞かなかった昔の お父さんみたいな人だから全く聞かない

小さい時にりんごの向き方を教わった時も 1回だけ見せてくれてはいやってごらんと 言って言っちゃうんですよね私が指を切っ てもうたえない小学校高学年の時に自分の 部屋を作ってもらったんですが朝起きたら 布団をたしてパジャマを畳むと一通り 教わってからは一切何も言われませんでし た要するに後は自分で覚えなさいだから 小言もなし押し付けるような発言は1度も ないしこうしなさいもこうして欲しいも 全くない肝が座っていますね保育園から小 学校6年の途中までインターナショナル スクールに通ったのはお母さんの方針です か母は近所の日本の保育園に入れようとし たのですが離婚調定中だったので ものすごい数の報道人が集まって私たちが 動く旅についてきたので入園を断られたん ですたまたま知り合いがオープンした ばかりのインターナショナルスクールが あってそこなら外国人が多いから過保護に もならず後期の目で見られることもなく 普通に素で育つだろうと考えたんですねだ から塞教育とかでは全くありません破天候 で不在でも母には父が必要内田ゆさんを おさんと認識したのはいつ頃ですか父と 会うのは年に1回か2回で父のやってる ニューイヤーロックフェスティバルに父が 母に買ってきたヴィンテージものワン ピースを肩揚げして着せられて会いに行っ てきなさいと言われて親戚のお姉さんに手 を引かれていくんです下からステージを 見上げて終わったら楽屋に連れて行かれる んですがその道すがら怖いメイクをした ロックンローラーがいっぱいいてその中を 通っていくと今忙しいんだとか言われて ずっと待たされてお入れあ大きくなったな どうだとか言われても何にも会話は弾まず じゃあ俺もまだ次があるから帰れと言われ て帰るという感じですね笑いだから父と いう認識は最後までなかったですは笑い やや子ってお父さんの名前を撮ってるのに ゆうやけなんですねよく2番目だと間違え られるんですが母にゆうやけすって言い なさいと言われました母はものすごい父を 立てるんですよね ゆうやけられても私が小さな頃は母も私が 取られないように守ろうとしたようですが 早くにさらされることに腹をくったんです マスコミは逃げれば逃げるほど追いかけて くることが分かったので母は麺と向かって きた人にはこうなんですよ私はこう思うん ですというようになったんです父は離婚 届けを勝手に提出していなくなったとか 不倫だけではなく逮捕されたりいろんな ことしてきましたからゆうやけの不倫は

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責任は全て自分に日本のロックを牽引した 父もだが共に暮らす母はとにかく企画外れ の人だった娘は小学校6年の時自ら希望し て転校した日本の学校で自分の異質ぶりを 実感することになる転校先ではいじめられ たインターナショナルスクールはいろんな 国の子がいるからそんなに異質感はなかっ ただけど日本の学校今よりもはかに男の子 の格好は女の子の格好がはっきりしていた ランドセルも赤か黒かで私は誰かから もらった黒いランドセルで通ったのでなん で黒なんだよと石を投げられました見なり もだけど女のこらしさもなかっただろうし それに何を習ってるのかしばらく分から なかったですから読み書きが全然できて なくて何から何までカルチャーショック でしたさすがにキリさんもやめてもいいよ とおっしゃったとかそんなに辛いんだっ たらやめたらぐらいの言い方 決定権は私にあるんですよ日本の学校行っ てみたいと言ったのも私だしあと半年で 卒業だったのでここをやめても責任を取る のは自分だから我慢しようと思っていき ましたね母の支配はない代わりに責任は 自分で取らなければならない文言もないし 小さい時から全て責任は私に与えられてた から本当に自由でしたでも自由という言葉 から連想されるのは窮屈でしかなかった他 の子供たちがお母さんからいつに帰ってき なさいこういうとこは行っちゃだめですと 制約を受けるのが羨ましくて仕方なかった それが愛に見えたんですよね私には誰も 言ってくれる人がいなくて自分で決める しかなかった私が育った80年代終わり から90年代は親たちが競争するようにふ 刻みで習い事を入れる時代でした中学に 上がってみんなが受験勉強を始めた時 ひどく焦ってしまって私も行った方がいい かなと母に聞いたら学校行ってんだから 行く必要ない笑い高校選びもこういう私立 もあるらしいよと自分なりに調べて プレゼンするんだけど税金払ってるんだ から近所の効率に行きなさい頼み込んで 受験前の1ヶ月だけ塾に行かせてもらって 近くの都立高校に入りましたしかしすぐに スイスに留学することになります当時 チーマーやパーティーが流行ってましたが いわゆるティーンエージャーが楽しむよう なちょっと危険なことに私自身はあまり ときめかなかった私には元々規制がなかっ たからそれを壊したいというよりもっと 自分の中に眠る何かを解き放ちたいでも 学校や友達を含めこの環境では見つけ づらいと思ってしまったんですそんな壁に ぶち当たった時フランス映画が好きだった

ので自分でいくつか大使感を巡って フランス語を学べる海外の学校の資料を 集めてここに行きたいと母にプレゼンした んですとても高い学費だから絶対無理だと 思ったけど分かった振り込み先だけ教え といてとあっさり笑い学校を見に行くこと もなかったやや子さんの初めての海外留学 は9歳の時海の向こうで暮らすことは父と 母からの周囲の視線からの逃走でもあった 最初のホームステー先はニューヨークでし たっけインターナショナルスクールの アメリカ人の校長先生の進めで東洋人が 1人もいないニューヨークの地方都市に1 年間行きました雪は母に送ってもらったん ですが家の子供たちと1時間ぐらい遊びに 出かけて帰ってきたら母はもういなかった 自分の意で行くとは言ったんだけれども この置いて行かれ方はもしかして捨てられ たのかもしれないと笑い母らしいですけど 自分が子供を持ってみてこんなひどいこと はできないと思いましたさよならを言うの が辛かったんでしょう後に母の友人にあの 時はすごく心配してたよという話は聞いた ただ電話は1本もなかったし手紙も1回も なくてコミュニケーション手段が全部立た れました1度私が耐熱を出した時に向こう の家族が心配してお母さんの相聞期待 でしょと国際電話をかけてくれたんですよ 私が完全に日本語を忘れていてあああと 言ってるうちに何どうしたのもう切るわよ 国際電話高いんだからとガチャって切られ た笑いその後も毎年夏休みの2ヶ月半 ぐらいは必ずどこかの国にホームステーさ せられていましたみんな普通の家だったの でお誕生日やクリスマスにいっぱい プレゼントもらって初めての経験を いっぱいしました結果的にあのまま私が 東京で両親の影響化で育ってるだけだっ たら私ならではの人生はなかったと思うん です両親があんなめちゃくちゃでよくぐれ なかったねと言われますだけどグレルって その子が息苦しいから自分でもがいて転ん だりすりえたりしながら大人になっていく ことだと思うんですね私は外国の暮らしや 学校でのコミュニティなど環境の変化が 当たり前だったしいろんな場があったから こそそれなりに葛藤がありつつも反抗する 必要はなかったそれは親が意図してなかっ たとしてもとてもありがたかった幼い頃は 両親が芸能人だとは言えなかったんです ものねずっとサラリーマンと主婦と嘘を ついてました私はあの2人とは別に生きて ますと思ってましたからそれもあって16 歳の時に完全にスイスに行ってしまいたい と思ったのかもしれない潜在意識の中では

もっと真っさらな場所に行って自分を探し てみたかったんでしょうね19歳で結婚 21歳で母になる父と映画で共演した10 歳年上のスター元木正さんと出会ったのは 15歳だった95年19歳で結婚97年に 長男を99年に長上2010年に次男を 出産2012年からはイギリスで暮らし 子育てをしながらエッセーを書き絵本など の翻訳を手がけてきた内田やや子さん ロングインタビュー夫は常に俯瞰してもの を捉える全頭な価値観の人後編結婚後は お母さんと2世帯住宅で暮らした時期も あります当初は別のところで夫婦で暮らし てたんですが子供ができた時に母が2世帯 住宅はどうかと言ってきたんです最初は私 も夫も巨としたんですが完全に書体を 分けるというか階段でもつなげずれこの家 が2つ上下に乗っかっている感じだったの でいいかなってご飯も基本は別々でした ダッシュダッシュダッシュ21歳の お母さんですから大変だったのでは私が 一生懸命子育てをしている姿を見て母は私 は母性が足りなかったわこうやって育てる のねというだけで何も教えてくれない夫の ご両親も遠かったし夫も忙しかったから 最初は孤独な子育てでちょっとこじらせ ました長男は乳製品アレルギーで赤ちゃん の頃に全身人魔シになって救急病院に走る という経験をしてからは常に怖くて怖くて でも夫は父親というよりは世話好きな お母さん気質なんですよねだからいつから かお母さんが2人いると子供たちが 息苦しいからと役割をバトンタッチしたと いうかお母さんは夫でお父さんは私笑い 12歳の長男がスイスに留学する時は母が ついて行ってくれたんですけど長女の留学 の時は夫が量に行ってクローゼットの サイズ測って仕切りを入れてとかいうのを 全部やったりそういうのが得意でしたね それはいいですねお子さんは3人とも留学 していますがご自身の体験を踏まえてです か私は過剰なんです自分がしてもらえ なかったことを自分の寂しさを埋めるため にやってしまっているという俯瞰の目も ある自己件をしながらも言いすぎちゃっ たりやりすぎちゃったりします長男が小 学校高学年の頃に母が通りすがりに そろそろ親の手を話した方がいいよと アドバイスをしてくれたんですイギリス 暮らしの目的は娘がイギリスの学校に入る 時学校が始まる夏に家族で向こうへ行って 1ヶ月ぐらいホテルアパートメントに 泊まってたんですそのうちまだ仕事は 伸ばせるとそれが2ヶ月3ヶ月になって ある時同気がしのアパートを見つけた夫が

日本で仕事をして戻ってきてというのを やってるうちに長男がいるスイスからも 近いしなんだか住むことになって5年い ました次男は2歳から7歳までいて向こう の生活が基盤だったので日本の文化や言葉 を学ばせたくて今は日本で暮らしています お子さんの洋服とかどうしてますか買う 買わない買いますねでもね私は食品の 買い物はしますけど未だに物を買うことへ の罪悪感が拭えません夫は買い物好き特に 洋服が好きですから最初から子供たちの 洋服とか必要なものは夫の役割でした キリンさんは娘家族が楽しく買い物をして いる姿に対してはどんな反応でしたかいや 過剰だわと呟いてました笑いやめなさいと いう言葉は絶対言わないし忠告もないんだ けど私にはできないわと言って去っていく 感じだから今でも葛藤してますよ笑い母は いないけれどもその母の目が私のにある ものだからブレーキを踏みすぎて夫と揉め たりします夫にしてみれば自分で稼いで 欲しいものを手に入れることを止められる のは辛いだろうし私としても夫と母の中間 くらいの感覚でいられたらと思うのですが キリンさんと元木さんは揉めませんでした 揉めました同じ役者っていうこともあるし 互いにすっごく気を使っていたんですでも 母には元木さんが容姿に来てくれたことに 対する感謝があったけれど気を使いすぎて 言いたいことも言わない母でははないので 思ったことはズバズバ元木さんに言い元木 さんもそれをサンドバックのように 受け止めながら抱えきれなくなったらでも キリンさんって爆発する笑いだから なかなか印象に残る大きな喧嘩をしてまし たね私は最初両方共に見方したいからうお していたら今は黙っててと言われてし夫は 自分の感情だけを押し付ける人ではなく常 に俯瞰してものを捉える全頭な価値観を 持っているので家族で議論した時も最初に 彼がしたことが結果ベストなんです最後に 母がやっぱり元木さんの考え浜友だわ元木 さんの言うことを素直に聞いてれば間違い ないわと笑って言い争いが終わることが 多かったですね母からのギフト授けられた 生き方やや子さんは初恋の人と結婚した わけですがそれまで男のロールモデルだっ たゆやど雲仙新湯 [音楽] 数少ない父との記憶を集めると実はすごく 柔らかい人なんですよね元木さんも 柔らかい感性の持ち主で俺について来いと いう人なら私はダメだったかもしれない むしろ内面の女性性の強いところは2人に 共通しているんです多分表現者という共通

点があるからかもしれないですねご家族3 代の素敵な写真が公表されてます滅多に 合わないから会った時は母が全員を写真館 に連れて行くんですよ会ったことの証拠を 残すって笑い父も真ん中にどんとずっと 父親でしたみたいな感じで座っている孫も みんながいる時父がぼそっと俺たち別れ なくて良かったよなと言ったんです自分の ブラックホールを埋めるためであったとし ても母が軸となっていてくれたことで家族 が増えて夢にも思わなかった団欒の一時を 持てたその時の言葉は私にとってはとても 救いでしたキリンさんが余名宣告されて イギリスから帰国最後の時間を一緒に 過ごされたんですね入団を発病した時も 再発した時も母は1人で全てを決めて手術 して治療して本当に長く病気と付き合って きたんです私たちは自分たちがイギリスに いたから見落としたんじゃないかとか罪悪 感もあったけれども母は至って淡々とそれ にしても長生きしたわよお釣りが来る人生 よという感じでした父は母が亡くなった時 あんなにしょんぼりするのかというぐらい しょんぼりしていた母の泣きと対面した時 母の本名を呼んでなあ子綺麗だよなと 私たちに言うんです母がよく言ってた お父さんにはほんのでよ001%順なもの があるという言葉を思い出した父のあんな 姿を見ることができたのは私にとっては ギフトでした不登校の子供たちに何が できるかを考える9月1日母からのバトン を出版されたのもキリンさんからのギフト に思えます亡くなる2週間ほど前の9月1 日に母が病室で死なないでと言って涙軍で いたんです夏休み明けに学校に行けず心が 病んでしまう日本の子供たちが自殺して しまうことをうれいたんですねその少し前 から40歳を過ぎたら子育てはほどほどに してこの世に生まれてきたんだから1人で も2人でも誰かの杖になりなさいと言われ ていました母は虚無感を抱えながらこの 世の中をなんとか生き延びてきたんですよ ね追い詰められた子供たちが死ぬしかない となった際にあと1mm絶対に何か面白い ものや生きていて良いことがあるはずと いう母の経験を伝えたくて本を出しました みんな状況が違うから同じようにはなら ないけれども両親が残していってくれた 生きる術みたいなものをわずかでもシェア できればと思っています世界のヒプの差を どうやって解決していくかを分かりやすく 示したイタリアのドッツという絵本を翻訳 したばかりですこうした仕事が集まって くるのもきっと母が残してくれたギフト でしょうね有名人の両親と夫に囲まれて

埋没することがないやや子さんがご両親 から受け継いだものはとても大きいです 何かにぶち当たった時に人生を投げ出さ ない術を言葉ではなく体感として授けて もらったと思っています内田やや子さん ロングインタビュー夫は常に俯瞰してもの を捉える全頭な価値観の人後編9月1日母 からのバトンきききりん内田やチポプラシ 16502018年9月1日きききりん さんが呟いた死なないで死なないで今日は 大勢の子供が自殺してしまう日なのという 言葉それを受けて内田さんが考えまとめた 1冊インタビュー島崎 子

前後編 内田也哉子さんロングインタビュー。両親の人生は壮大なエンターテインメントだったとさえ思います…
内田也哉子さんロングインタビュー 【前編】後編も続く

両親の人生は壮大なエンターテインメントだったとさえ思います

うちだややこ/1976年東京都生まれ エッセイ執筆を中心に、翻訳、作詞、音楽ユニットsighboat、ナレーションなど、言葉と音の世界に携わる三児の母季刊誌「週刊文春WOMAN」にてエッセイ「BLANK PAGE」、月刊誌「家庭画報」にて季節連載「衣だより」を連載中Eテレ「no art, no life」(毎週日 8:55〜)では語りを担当

そっくりな母娘

母を見て育つ

2018年9月、母である樹木希林さんを看取り、その半年後に父、内田裕也さんを見送った母の面差しを受け継ぐ内田也哉子さんは、イノセントなイメージはそのままに、健やかな身体と精神の持ち主だった1976年生まれ、3児の母でもある

――2017年封切りの映画『東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜』を観てきましたお母さんの若い頃を演じておられて、お2人はそっくりです

出演したのは20代の終わりです今は46歳なので15年以上たっていますが、あれを観た人には「似てない」と言われますよ私はお芝居ができないから、母の自然な感じと、私の身のこなしとかがあまりにも違いすぎて

――でも、小さいときから「似てる」と言われていたのでは

母を見て育ってきたんですからきょうだいもいませんし、父という存在はいたけれど不在だったので、家には母しかいなかった自分の子どもを見ていても思うんですが、子どもって本当に見たものをそのまま吸収する大竹まことさんのラジオに出演したときに、「姿形が似てると思ってたけど、それだけではなくて、精神が似てるんだね」と言われました

――生まれたときからお母さんと2人家族平均から外れていることが、当然だったんですよね

子どもって最初っから親が一人しかいないと、これが自分の家庭のスタンダードだって思うから、何も淋しくはなかったんですむしろ友達の親とかに、「可哀想ねえ、淋しいでしょう?」と声をかけられて、「え、なんでだろう?」そういう自覚の仕方でした

しかも育った家は、西麻布にあるコンクリートの打ち放しで、床が玄昌石の真っ黒な家よくこんな環境で幼い子どもが育ったなというような危険をはらんだ家でした角だらけで、手すりが片方しかなくてすぐ落ちてしまう階段友達が遊びに来ると、「ここんち怖〜い」と言ってそそくさと帰っていきました(笑)

のちに母は自宅一階の裏側に事務所を構えたので、マネージャーさんがいて、所属タレントの岸部一徳さんや大楠道代さん、風吹ジュンさんらが出入りしていました母が仕事でいなくても大人の気配があって、困ったときは飛び込めましたけど、面倒はみてくれませんごはんも一人で食べていました私が生まれたことをきっかけに、母は葉巻をふかす一方で、マクロビオティック的な食生活を始めたんですが、木の蓋の鉄の羽釜で玄米を炊いておいてくれて、一品ぐらいおかずが置いてあって、ぬか漬けは切って冷蔵庫に入れてあり、「お味噌汁は自分で作りなさい」小学校の1、2年生で味噌汁を作ってましたね

――希林さんは「愛情を公にしないで生きてきた」という旨を話していますが、妊娠してから玄米食にするとは十分な愛情です

母がよく言ってたのは、「子育てに確固たるポリシーもなかったけど、軸に置いたのは食べ物なるべく低農薬で、手づくりだけどあまり手を加え過ぎてない、昔ながらの製法で作ったものを食べさせること」そこは徹底してましたね自分が子育てしてみて、毎日ごはんを作ることが本当に大変なことだってわかりましたしかも母はフルタイムで仕事をしながら、会社も運営して、そばにいない夫を食べさせながら(笑)

内田也哉子さんロングインタビュー両親の人生は壮大なエンターテインメントだったとさえ思います【最新号からちょっと見せ】の画像1

海外ロケに同伴
服は全部貰い物
也哉子さんが生まれたのは、悠木千帆と名乗っている母が樹木希林になった頃だ高視聴率ドラマ「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」でお茶の間の人気者だった俳優が、ロックンローラー内田裕也と結婚して3年目妻は妊娠中に夫を追い出していた

――お母さんが泊まりでロケに出かけることもあったでしょう

そういうときは、親戚の誰かが泊まりに来てくれたりはしていました海外ロケのときは、学校を休ませて私を連れて行くんです当時はバブル期だったこともあっていっぱい海外ロケがあったんですよ面倒みる人がいないこともあるけれども、「学校行くよりも海外の文化や人々に出合えた方がいいだろう」との大胆な考えで(笑)なかなか行けないようなところに連れてってもらいましたしょっちゅう休んでたから、成績もすごい悪かったです

――撮影中、也哉子さんはどうしてたんですか

なんとなく現場をちょろちょろしていたり、知り合いがいる都市ではその人たちと街を歩いたり確かチェコスロバキアの現場で、私が寝ちゃったんです母は着ていた毛皮に私をくるんで、公園のベンチに置いたまま撮影に入って、終わって戻ってきたら長い時間なのにまだ寝ていたとか母のショルダーバッグの中に、赤ん坊だった私が入ってる写真が残っています

――母親が職場に子どもを連れて行く是非を問うアグネス論争が起こったのは、87年ですその10年も前に、希林さんは職場に子どもを連れて行ったことになる

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――ベビー服は?

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――洋服はどうしてたんですか

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――樹木さんは、「買えるのに買わないのも辛いんです」と書いておられます(笑)

戦後の物がないときに生まれた母は、後に実家が物だらけになるのを見て、物が溢れたところに幸せはないと思ったようです自分の子どもが生まれたら、物の冥利が果てるまで使い尽くしてほしいと考えたいろんな道具を揃えるのではなく、一つの道具をアレンジして使うことを学んでほしいということでしたテレビは母の部屋にしかなかったし、鍋も最小限の物だけ、包丁も万能包丁一つに小さい包丁が一つ靴下や肌着もボロボロになったら雑巾にするのは、当たり前のことでした

――也哉子さんが多感な頃はちょうどバブル期で、日本中に物が溢れていた時代です

友達のおうちに行けばおもちゃが溢れていて、家に帰ってくると何もないある物は数冊の絵本と、母の書物だけ人形もないから、鍋を使っておままごとしたり、傘を広げてテントを作ったりお人形が欲しかったあのときの気持ちは、忘れられません

――泣き落としは効かなかった?

昔のお父さんみたいな人だからまったく効かない小さいときにりんごのむき方を教わったときも、一回だけ見せてくれて、「はいやってご覧」と言って、行っちゃうんですよね私が指を切ってもうろたえない小学校高学年のときに自分の部屋を作ってもらったんですが、朝起きたら布団を正して、パジャマを畳むと一通り教わってからは、一切何も言われませんでした要するに、「あとは自分で覚えなさい」だから小言もなし押しつけるような発言は一度もないし、「こうしなさい」も、「こうしてほしい」も、まったくない

――肝が据わっていますね保育園から小学校6年の途中まで、インターナショナルスクールに通ったのは、お母さんの方針ですか

母は近所の日本の保育園に入れようとしたのですが、離婚調停中だったので、ものすごい数の報道陣が集まって、私たちが動くたびについてきたので、入園を断られたんですたまたま知り合いがオープンしたばかりのインターナショナルスクールがあって、そこなら外国人が多いから、過保護にもならず好奇の目で見られることもなく、普通に素で育つだろうと考えたんですねだから、英才教育とかではまったくありません

破天荒で不在でも

母には父が必要

――内田裕也さんをお父さんと認識したのは、いつ頃ですか

父と会うのは年に1回か2回で、父のやってる「ニューイヤーロックフェスティバル」に、父が母に買ってきたビンテージ物のワンピースを肩上げして着せられて、「会いに行ってきなさい」と言われて、親戚のお姉さんに手を引かれて行くんです下からステージを見上げて、終わったら楽屋に連れて行かれるんですが、その道すがら怖いメイクをしたロックンローラーがいっぱいいてその中を通って行くと、「今忙しいんだ」とか言われてずうっと待たされて「おお、入れ」「ああ、大きくなったなあどうだ?」とか言われても、なんにも会話ははずまず「じゃあ、俺もまだ次があるから帰れ」と言われて、帰るという感じですね(笑)だから

ペットロス症候群新老人
2011.03.11~東日本津波原発事故大震災 
復興10年・20年・・30年 俺は逝く
2021コロナ禍は続く…
2022~2024・・ウクライナ戦争
2024 能登半島地震~未来を信じて!
2025 ・・・
…記憶と記録

【311/東日本大震災/東電/原発事故/放射能汚染/避難~復興】
311以降変わらないようで毎日変化するふるさと福島地元を記憶・記録する愛犬二匹は老衰死ペットロスは続くGGのライフワークのようにその時までの暇つぶしのように...
2021世はコロナウイルスの猛威が続く…2023各地で戦争が
20241/1 またも大震災 能登半島地震 祈る

記憶と記録

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