乙羽信子, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=363472 / CC BY SA 3.0

#日本の女優
#日本の舞台女優
#NHK紅白歌合戦出演者
#宝塚歌劇団卒業生
#宝塚歌劇団27期生
#宝塚歌劇団殿堂表彰者
#娘役
#大映の俳優
#近代映画協会の人物
#連続テレビ小説主演俳優
乙羽 信子(おとわ のぶこ、本名・新藤信子(旧姓・加治)、1924年(大正13年)10月1日 – 1994年(平成6年)12月22日)は、日本の女優。
愛称は「オカジ」(旧姓より)。
鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)西倉吉町に生まれる。
父の家に引き取られ、大阪で育つ。
間もなく、饅頭屋の養女となり、神戸市に移る。
小学校のときから日本舞踊を習い、また、養父の姉に連れられて宝塚歌劇を見に行くうち、憧れるようになる。
1937年(昭和12年)、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)に入学。
宝塚歌劇団27期生。
同期生に越路吹雪、月丘夢路、東郷晴子、大路三千緒、浦島千歌子、瑠璃豊美らがいる。
この芸名は養母が信仰する新興宗教の教師が命名した。
宝塚入団時の成績は93人中49位。
1939年(昭和14年)の公演『宝塚花物語』で同期生達と共に初舞台を踏む。
なお、この時代は同期でも初舞台演目はそれぞれ異なった。
戦後、再開された公演でトップ娘役(主に雪組公演出演)を務める。
淡島千景と人気を二分し、戦後の宝塚歌劇団第一期黄金時代を支えた。
1950年(昭和25年)、娘役に限界を感じ始め、松竹入りした淡島に倣うように『雨月物語/キュウバ/人魚姫』を最後に宝塚歌劇団を退団。
退団後、大映に入社する。
大映は、宝塚時代から人気のあったえくぼに「百萬弗のゑくぼ」というキャッチフレーズをつけて、純情型のスターとして売り出す。
デビュー作は同年の新藤兼人脚本、木村恵吾監督の『處女峰』で、上原謙と共演した。
その後、何作かに出演した後、1951年(昭和26年)の新藤兼人の第1回監督作品『愛妻物語』で、夫を陰で支える妻を演じ、映画界でもスターの地位を手に入れる。
『原爆の子』での乙羽 1952年(昭和27年)、「近代映画協会」を設立していた新藤の第1回自主制作映画『原爆の子』に大映の反対を押し切って出演する。
これを機に大映を退社し、近代映画協会の同人となる。
以後、近代映画協会が製作する映画に立て続けに出演する中で、それまでの「宝塚歌劇団出身」「お嬢様女優」「百萬弗のゑくぼ」「清純派」のイメージから180度転換し強烈なリアリズムあふれた演技を見せ、日本映画史にその名を残すこととなる。
それを象徴する作品で、代表作となったのが、1960年(昭和35年)の『裸の島』である。
せりふが一切なく、登場人物も狭い島で働く夫婦(乙羽と殿山泰司が演じた)だけという実験的な映画であったが、そのリアリティーあふれる画面は大好評となり、第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、世界的に高い評価を受ける。
1971年(昭和46年)放送の『肝っ玉かあさん』第3シリーズでは当時47歳で白無垢姿を披露している。
以降、石井ふく子プロデュース作品の常連となる。
1978年(昭和53年)、新藤と結婚。
結婚後、最初の作品となった『絞殺』で、1979年(昭和54年)、ヴェネツィア国際映画祭イタリア映画ジャーナリスト選出最優秀女優賞を受賞する。
1983年(昭和58年)、驚異的な視聴率を記録したNHKの連続テレビ小説『おしん』に出演。
主人公・おしんの晩年期を演じ、主演もこなせる女優であることを改めて知らしめ、国内外において新たなファンを獲得した。
また1987年(昭和62年)から1992年(平成4年)にかけて、日本テレビ放送網の火曜サスペンス劇場で、水谷豊主演の浅見光彦ミステリーとその続編である、朝比奈周平ミステリーで、水谷の母親役を演じた。
1994年(平成6年)12月22日午前、肝臓癌による肝硬変で死去。
享年70。
墓は京都市にあるが、遺骨の半分は代表作『裸の島』を撮影した広島県三原市の宿祢島に散骨された。
没後、2014年、古巣・宝塚歌劇団創立100周年記念で創設された「宝塚歌劇の殿堂」の最初の100人のひとりとして殿堂入りを果たした。
愛称は「オカジ」で、これは本名の「加治(旧姓)」をもじったもの。
1950年に東宝で『佐々木小次郎』の映画化が決定したとき、「兎禰」は山根寿子、「那美」は高峰秀子と決まったが、「まん」の配役がどうしても決まらなかった。
監督の稲垣浩は宝塚乙女の中から宮城野由美子と乙羽の二人を候補に挙げたが、両者とも宝塚で重要なスタアであったため、東宝がいくら宝塚歌劇団と関連会…

Leave A Reply