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    ブルース・リーと友情を育み、香港映画でジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポー(現:サモ・ハン)、ジェット・リーら名だたる人気スターと数多くの作品で共演し、俳優生活60周年を迎えた“和製ドラゴン”倉田保昭さん。映画「帰って来たドラゴン」(ウー・シーユエン監督)、「Gメン‘75」(TBS系)、映画「マンハント」(ジョン・ウー監督)などに出演。自ら企画・製作総指揮を務め、スタントマンなしでアクションシーンを披露している主演映画「夢物語 The Living Dragon」(坂本浩一監督・下村勇二監督・谷垣健治監督)が全国順次公開中の倉田保昭さんにインタビュー。(この記事は全3回の前編)

    ■友だちに勧められて俳優研修所へ

    愛犬”いちご”ちゃんと

          愛犬”いちご”ちゃんと

    茨城県で生まれ育った倉田さんは、小さい頃は痩せていてきかんぼうだったという。

    「ケンカばかりしていました。でも、子どもってみんなそうですよね。父親が昔、昭和の初期に大学で空手をやっていたものですから、その影響で小学校2、3年頃から(一緒に)軽く練習していたんですけど、10歳ぐらいになった時、父親が僕の顔に正拳を入れたんです。

    『(稽古では)実の親が自分の息子を実際に殴るんだ』と思って、それから10何歳だったかな?僕が今度は蹴りで父親のあばら骨にちょっとヒビを入れちゃって。それで、それからは父子で対戦することはやめました」

    ――小学校4年生の時に埼玉県にお引越しをされて

    「はい。家は代々続いた織物業で従業員が300人ぐらいいたかな、住み込みで。それが、僕が小学校4年生の時に突然倒産しちゃって、埼玉の大宮に引っ越して狭いところに家族4人で住むような生活になったので、最初はおやじのせいでこんなことになったと思っていましたよね。

    でも、おやじは、当時リヤカーを引いて、野菜を家庭に売り歩くみたいな慣れないことをやったり、そういう頑張りを見て、これはおやじを責めるわけにはいかないなって思いました。

    それで、今じゃ多分雇ってくれないと思いますけど、僕は小学校6年生ぐらいから夕刊の新聞配達をやっていました。家計を助けるために。家族一丸となって、何とかそれで高校を卒業して」

    小学生の時に始めた空手に続き、高校では柔道部で活躍。高校卒業後、1年間の浪人生活を経て日本大学芸術学部演劇学科に入学。中学、高校空手、柔道に続く新しい試みとして、大学では合気道を始めたという。

    「おやじの影響というか、指示というか。高校に行ったら柔道、大学に行ったら合気道をやれみたいなのがあってね。それで、経済学部とか商学部に進んで外国の商社みたいなところに入ってほしいという気持ちはあったと思います。

    僕も高校の時はそう思っていましたが、全部落ちてしまって浪人生活1年間のうちに考えが変わったというか。サラリーマンも向いてないし、何をやるか迷って。何のために大学に行くのかもわからない。ただ大学に行って運動部で楽しくやっているだけじゃしょうがないしなって」

    ――俳優になるという考えは?

    「全くなかったというか、素質ないだろうと思っていたけど、芸術学部の同級生に『お前、東映のヤクザ映画に向いているよ』って言われたんですよ。それで、東映撮影所の中にできた研修所の試験を受けたら合格したんですよね。

    当時は、大学で運動部もやっていたので、研修所に通ってはいたけど、あまりレッスンも熱心にやっていないし、何かガラだけでちょい役に選ばれた感じはありましたよね」

    ――研修所に入ってすぐにデビューされたのですね

    「20歳の時に大学に行きながら『丸出だめ夫』(日本テレビ系)にちょい役で出たんですけど、演技のこともカメラ、現場のルールも知らない状態で。まさに“だめ夫”でしたね(笑)。

    それで、夜撮影が終わって終電の時間を気にしながら大泉学園駅に向かって歩いていると、背後から大スターが乗ったジャガーとかベンツが通りすぎていくわけですよ。当時は本当に夢の世界という感じで。同じ撮影所にいても全く違うんだみたいなところありましたね。

    いつかあちら側へ行ってみたいと思って『映画をやる!』と決めました。でも、そう決めても自分に来るのは小さい役ばかりで。後ろの方でやっているのに監督に怒られたり…そういう仕事ばかりだったんですよね」

    ■日本ではちょい役ばかりで香港へ

    1970年、香港映画界の最大勢力だった「ショウ・ブラザーズ」のオーディションが、(日本の)帝国ホテルで開催され、合格した倉田さんは、ブームになっていたカンフー映画へと転身。香港映画デビューすることに。

    「当時、日本の監督とかスタッフを『ショウ・ブラザーズ』に送っていたんです。それまで俳優はいなかったんですけど、今度オーディションがあるから受けないかと言われて。

    大学の友だちには、『お前ね、香港で映画なんか作っているわけねえじゃねえか。映画なんか作ってないよ、騙(だま)されるだけだから』って言われたんだけど、日本にいてもちょい役しかないし、どうせ長く続くわけじゃないからオーディションを受けてみようと思って友だちに背広を借りて。

    何かやらされるだろうと思って勢い込んで行ったのに、ショウ・ブラザーズの社長はニコニコして見ているだけなんですね。それで、決めるのは監督なんです。その監督というのが、『東洋の黒澤明』とも言われた張徹(チャン・チェ)監督。スター作りの名人で、張徹監督が手がけた作品は必ず当たると言われるほどの監督だったんです。

    僕はたまたま選ばれて2週間という予定で行ったんです。確か3万円以上は海外に持ち出しできないみたいな時代でしたから、親に3万円借りて。大学まで行って何をしているんだと怒られて。でも、しょうがない。立て替えてもらって行くしかないみたいな。

    それで、香港に着いたら、そんなに重要な役じゃないと思っていたけど、監督が有名だから記者会見があって。撮影が始まって最初のアクションシーンのラッシュを見た『ショウ・ブラザーズ』の制作部長に呼ばれて『ラッシュ見たんだけど、お前すごくいいから、うちの会社と年間契約を結ばないか?』って言われたんですよ。

    でも、急に言われても今の女房と付き合っていて、彼女は日本にいたし、僕も2週間の撮影が終わったら帰るつもりでいたから、いきなり長期契約というのは…という感じで。

    その頃、『ショウ・ブラザーズ』のライバルの『ゴールデン・ハーベスト』とか、外の会社からも出演依頼みたいな話があったんですね。

    でも、僕は通訳しかいないし、マネジャーもいないから警戒していたら、張徹監督が、自分が投資している会社があるから、その会社を窓口にしてやればいいんじゃないかと。それで、昼間は自分の監督作品の撮影をして、夜はほかの作品の撮影をやらないかって言うので、そういうことを半年以上やっていました。2週間の予定で行ったはずが、延長延長で(笑)。

    1年が過ぎた頃、母親が日本の新聞に、香港で悪役をやっている日本人が今評判になっているという僕の記事が出ているのを見つけて送ってきて、心配しているよって。自分では悪役はやっているけど楽しくて、しょうがない、みたいな(笑)」

    ――言葉はわりとすぐに話せるようになったのですか

    「仕事の時だけは通訳さんがつくんですけど、プライベートはつかない。ですから、スタントマンとか、スタッフがいるところに寄って行って、みんなが笑っていたら僕も笑う。真剣な顔をしていたら僕も真剣な顔をする。だから、もしかしてこいつ言葉分かっているんじゃないのって(笑)。そんなことがあって、ひとつずつ覚えていきました。

    でも、スタントマンとか、みんな悪い言葉しか話さないんですよ。僕は、悪い言葉なのか、いい言葉なのか、最初はわからないじゃないですか。だからよく悪い言葉を覚えましたね(笑)」

    ■強烈な輝きを放っていたブルース・リー

    ブルース・リーとの出会いは、1972年、主演第2作「ドラゴン怒りの鉄拳」(ロー・ウェイ監督)の撮影が行われていた『ゴールデン・ハーベスト』を訪ねた時だったという。

    「半年ぐらい経った時に、ブルース・リーの幼友だちでロバート・チェンと仲良くなって、毎日彼と一緒にいたので、彼の言葉だけは分かるようになりました。それで、彼にブルース・リーを紹介されたんですけど、すでにスターとして強烈な輝きを放っていました。

    ブルース・リーは、ヌンチャクはできますけど、本物のヌンチャクは持ってなかったんです。

    それで、僕が日本から本物のヌンチャクを持って来ているよって話したら、それ見たいって言うから、多分欲しいんだろうなと思ってプレゼントしたら、ブルースが腰に巻いてガードするサポーターみたいなのをくれたんです。

    それで、日本に帰って来て『闘え!ドラゴン』(東京12チャンネル 現:テレビ東京系)とかでも使っていたんですけど、撮影中にどこかでなくなっちゃったんですよね。

    ブルースは『ゴールデン・ハーベスト』で、僕は『ショウ・ブラザーズ』、映画会社がライバルというか、裁判を起こしている関係ですから共演した作品はないんですよね。撮影が終わった夜中でもいいから、ちょっと来て出てくれないかっていうのが2本ぐらいあったんですけど、僕は監督の顔もあるしトラブルになるのがわかっていたから出ませんでした。

    共演はできませんでしたが、ブルースとは意気投合して、幾度となく顔を合わせるようになって。夕方になってランニングをしていると、道路を挟んだ反対側をブルースも走っていて僕を見つけると手を振ってくれるんです。それで僕も手を振り返す。今でもよく思い出します」

    1973年7月20日、ブルース・リーが32歳という若さで亡くなった。「燃えよドラゴン」(ロバート・クローズ監督)が世界中で大ヒットしたことを知らないままこの世を去った。

    1974年、「帰って来たドラゴン」が日本で公開され、非情な殺人空手の使い手ブラック・ジャガーを演じた倉田さんは「和製ドラゴン」として話題に。

    「ブルース・リーの『燃えよドラゴン』が日本でも大ヒットして、次に『帰って来たドラゴン』を上映するというので、宣伝のために日本に帰ってきて。

    配給会社としては、『日本の生んだスーパースター』って、僕の宣伝をしたんですけど、この記者会見が偶然にも帝国ホテルで。その時に何十人も新聞や雑誌の記者さんが来て、写真もバチバチ撮られて、夢を見ているんじゃないのかなって思いました。これは現実じゃない

    のではないかって」

    ――4年でスターになって凱旋されて

    「向こうでは20本くらい映画に出ましたけど、日本では誰も知らないですからね、まだ」

    ――日本ではきちんと製本された台本ですが、向こうは違うそうですね

    「そうです。台本はあっても渡さないです。1枚1枚その日の分をプリントして渡されるんです。でも、ほとんどアクションで、芝居の部分は少なかった。毎日行けばアクションでしたね。

    アクション、空手、武道はできましたけど、日本でアクションをやっていると、相手の主役の俳優さんにちょっとでも当たったりすると怒られる。それで自信がなくて、アクションになると怒られるし…みたいな感じで。

    それが香港に行ったら、何でもやっていい、当ててもいいからみたいなことを言われて、『これなんだよね、僕がやりたかったのは!』って思って、伸び伸びしてやっていましたね」

    ――カンフー映画などのアクションシーンは、確かに迫力ありますね

    「サモ・ハン、ジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、ユン・ワー、ラム・チェンイン…多くの若きスタントマンたちがいましたしね。ケンカ慣れした現役の黒社会の人もいたから、とにかく早いんですよ。動きも速いし、転がって起きるのも速いし…みたいな(笑)。

    ただ、ブルース・リーが亡くなり、ジャッキー・チェンがまだ売れる前ですから、やっぱり下火ですよね。アクション物も少なくなってくるし。そういう時にたまたま僕が宣伝も兼ねて日本へ帰ってきたという感じですね」

    1974年、「闘え!ドラゴン」(テレビ東京系)に主演。倉田さん演じる主人公・不知火竜馬は、戦争で両親を亡くし香港で戦災孤児として育つ。やがて風吹流空手創始者・風吹海山と出会い修行を経て帰国して孤児院の運営を始めるが、恩師を殺害され、謎の暗殺組織シャドウと戦うことに…という展開。生身による本格アクションドラマとして人気を博した。

    同年、映画「女必殺拳 危機一発」(山口和彦監督)、映画「帰って来た女必殺拳」(山口和彦監督)、「バーディー大作戦」(TBS系)などに出演。

    1975年、「Gメン‘75」にレギュラー出演することに。「Gメン」とは、FBI捜査官を指す俗語。指揮官・黒木警視役の丹波哲郎さんを筆頭に、原田大二郎さん、岡本富士太さん、藤田美保子(現・三保子)さん、藤木悠さん、夏木陽介さん、倉田保昭さんが初期メンバーとして活躍。

    重厚な物語に加え、国内外で敢行した大規模なロケや本格アクション、深作欣二監督、佐藤純彌監督など劇場映画に匹敵する迫力の演出で話題に。

    ――オープニングの全員が滑走路を歩いてくるシーンからカッコ良かったですね

    「そうですね。香港でも放送されていたんですけど、すごい人気で。香港で活躍している俳優や監督の中には、Gメンに影響されてこの世界に入った人も結構いるそうです。ツイ・ハークさんやジョン・ウーさんもファンだったと言っていました」

    ジョン・ウーさんは、僕が最初に香港で出た映画の助監督だったんです。とても優秀で、

    その頃からすごい監督になるだろうなと思っていました。彼らはみんな日本の作品をたくさん見ているんですよ。カット割りまで勉強してね。日本映画から受けた影響はすごく大きいって言っています。だから彼らは、僕によく日本の監督や俳優のことを聞いていました」

    「Gメン‘75」に4年間レギュラー出演し、映画ファン以外にも広く知られることになった倉田さんだが、1979年に降板後は苦戦を強いられることに。次回は、再び香港映画に出演することになった経緯、サモ・ハン、ジャッキー・チェンと共演した香港映画復帰作「七福星」(サモ・ハン・キンポー監督)の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)

    ※倉田保昭(くらた・やすあき)プロフィル

    1946年3月20日生まれ。茨城県出身。空手7段、柔道3段、合気道2段。1966年、「丸出だめ夫」で俳優デビュー。1972年、「続・拳撃 悪客」(チャン・チェ監督)で香港映画デビュー。「ショウ・ブラザーズ」作品を始め、100本以上の香港映画に出演し「和製ドラゴン」として知られる。「Gメン‘75」、映画「黄龍イエロードラゴン」(鹿島勤監督)、映画「マンハント」、映画「戦神(せんじん)ゴッド・オブ・ウォー」(ゴードン・チャン監督)などに出演。製作・主演映画「夢物語 The Living Dragon」が全国順次公開中。

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