ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2026.08.10 11:07

    韓国ボーイズグループのBTS(防弾少年団)が来年のグラミー賞をボイコットしたのは、ありふれた芸能界のゴシップではない。大げさに聞こえるかもしれないが、一つの文化史的意味を持つ事件だ。

    発端は今年6月、グラミー賞が「ベスト・アジアン・ポップ・ミュージック・パフォーマンス」部門を新設し、来年から授賞すると発表したことだ。ファンの間では「BTSに本賞を与えないための小細工」「K-POPを別に囲い込む柵を作った」との不満が出た。先月末、BTSは「地域や言語で区分されるより、音楽そのものとして聴かれ、愛されることを望む」とし、来年のグラミー賞に出品しないと電撃発表した。

    するとグラミー賞を主催する米レコーディング・アカデミーのハービー・メイソン・ジュニアCEOが釈明に乗り出した。アジアン・ポップ部門に出品しても「年間最優秀アルバム・楽曲・レコード」のような主要賞に同時に挑戦できるため、「隔離」ではないということだ。しかし本質は別にある。「アジアン・ポップ」とは一体何であり、米レコーディング・アカデミーはそれをどう定義するのか。グラミー賞がいう、ただの「ポップ」は、実際には英米圏の音楽産業のポップだ。それでも「英米ポップ」ではなく、ただの「ポップ」として普遍性を獲得する。一方、K-POPは「地域のポップ」となる。

    ◇アジアを他者化した「アジアン・ポップ」

    グラミー賞の規定はアジアン・ポップを「アジア市場で始まった、または広く知られ、アジアの言語を意味ある形で使用した」音楽とし、K-POP・J-POP・C-POPを例に挙げている。メイソンCEOは、これらが「音楽・パフォーマンス・ビジュアルを包括する明確な音楽的アイデンティティーを持っている」と述べた。しかし歴史・産業・美学が異なる韓国・日本・中国のポップが、果たして一つの音楽的アイデンティティーを共有しているのだろうか。アジア内部の違いを消し、西洋から見て「アジア的」な異国の他者を作ったことになる。

    ここには、米国という「地域」の賞でありながら「世界普遍」の賞のように君臨してきたグラミー賞の矛盾もある。グラミー賞は米国で商業的に発売・流通した音楽だけを審査する米国市場の賞だ。それでも「音楽界最高の栄誉」を自任してきたし、私たちも韓国人がグラミー賞を受賞するかどうかに神経をとがらせてきた。私たちは英米圏の「世界的普遍性」をあまりにも無批判に受け入れてきたのではないか。BTSのボイコットは、その権威に亀裂を入れる。

    この構図に先に痛快な一撃を加えた韓国人は、ポン・ジュノ監督だった。2019年、米国の記者が「韓国映画が世界に影響を及ぼしたにもかかわらず、オスカー(アカデミー賞)の候補に挙がれない理由は何でしょうか」と尋ねると、ポン監督はこう答えた。「少し変ですが、大したことではありません。オスカーは国際映画祭ではないからです。とてもローカル(very local)でしょう」。数カ月後、『パラサイト 半地下の家族』が非英語圏映画として初めて作品賞を受賞すると、「ついにオスカーが地域映画祭から抜け出したのか」という冗談が飛び交った。

    西洋、特に英米圏が自らを中心に置き、恩恵として施す多様性は、最近ヒットしているクリストファー・ノーラン監督の映画『オデュッセイア』にも表れている。公開前、アフリカ系女優ルピタ・ニョンゴがヘレネ役を務めるというニュースにイーロン・マスクまで加わり、文化戦争が起きた。しかし映画が公開されると論争は沈静化した。映画の完成度によるところもあるが、ニョンゴがヘレネとその双子役の1人2役を演じながら、合わせても5分しか登場しないためだ。

    記者はそれゆえにきまり悪い思いをした。女優は「反PC(反ポリコレ)」陣営の攻撃の的になったのに、肝心の映画の中では周縁にとどまる。韓国系のウィル・ユン・リーなど多様な人種の俳優が登場するが、大半は助演かエキストラだ。実際、古代史としてのもっともらしさを問うなら、アフリカ系より東アジア人がギリシャ戦士として登場するほうがさらに荒唐無稽だ。肝心のギリシャ系俳優は少ない。時代考証を無視して多様性を選んだが、物語の中心を担う力までは分け与えなかったのだ。

    【コラム】BTSのグラミー賞ボイコットと映画『オデュッセイア』の恩着せがましい多様性(2)


    Share.

    Comments are closed.