〈「早稲田を卒業」「現在の仕事は⋯」あの高畑勲監督から“天才だな”と言われたことも【36歳・元天才子役のその後】〉から続く
大学卒業後は通訳として活躍するも、30歳を前にして謎の猛烈な蕁麻疹に襲われ、ベッドから起き上がれなくなった宇野なおみさん(36歳)。
【画像】あの高畑勲監督から“天才だな”と言われたことも…子役時代の宇野なおみさん
仕事も日常も失い、絶望の淵に立たされた彼女を救ったのは、13歳の時に恩師・橋田壽賀子先生からかけられた“ある言葉”だった。インタビュー後編では、元天才子役が病を乗り越え、エッセイストとして再生するまでを追う。(全2回の2回目/最初から読む)
◆◆◆

かつて天才子役と呼ばれた宇野なおみさん。大人になった彼女を襲った試練とは ©榎本麻美/文藝春秋
「渡鬼」シリーズが終わって⋯
――大学を卒業する頃に、『渡鬼』が最終回を迎えました。ファンの間では、「眞と加津が結婚するのでは」という予想もありましたね。
宇野なおみ(以下、宇野) 加津の立場からすると兄妹のように育った眞と結婚するのは、ちょっと健全ではない気がします(笑)。橋田先生は、加津を「自立した女の子」として描かれていたので、眞と結婚することはないと思っていました。
――『渡鬼』シリーズが終わったときは、どんな気持ちでしたか?
宇野 私にチャンスをくれた、たくさんのことを教えてくれた場所が一旦幕を下ろす。母校が閉校するような感慨がありました。
平成元年生まれの私が、森光子さん、赤木春恵さん、池内淳子さんという昭和の偉大な方々とご一緒できたのは、今ではもう不可能なことです。私の人生にとって、本当に大きな財産でした。
不安というよりは、少し気が楽になったような気もしました。ただ、その後の道のりは思い描いていたものとは、全く違ったものになったんです。
身体中が「豚肉」のように腫れ上がった
――「渡鬼」を卒業してから、どんな苦労があったのでしょうか。
宇野 30歳頃に全身が酷い蕁麻疹で真っ赤に腫れ上がり、アイスノンを敷き詰めたベッドの上から起き上がれなくなってしまったんです。仕事どころか、日常生活もままならなくなりました。
――それまでは、どんな活動をしていたのですか?
宇野 大学卒業後は留学を経て、得意な英語を活かし、通訳や翻訳の仕事をしていました。お芝居も続けながら、イベントのMCや接客のアルバイトもしていました。
通訳の仕事では、街で外国人にインタビューをするテレビ番組も多かったです。「撮れ高」がないときは、「このままでは帰れない」というスタッフさんの気持ちが分かるので、撮影が延びても終わるまで残っていました。すると、「あんなに撮影に付き合ってくれる通訳さんは初めてです」と言ってもらえたそうで(笑)。
でも29歳から30歳に差し掛かるくらいの頃、仕事帰りに、お腹のあたりに赤みがあることに気づいたんです。子役の頃から、ストレスや疲れで蕁麻疹が出ることがあったので、最初はあまり気にしていませんでした。
――悪化していると気づいたきっかけはありましたか?
宇野 薬を飲んでも全く治らなかったんです。それどころか、真っ赤な腫れが足の方まで広がり「まるで豚肉みたい」と感じました。通訳をするときは、ストッキングを穿いていたので、赤みが見えてしまうのが辛かったですね。日を追うごとに酷くなり、顔にまで蕁麻疹が広がった時には、仕事に行くことができなくなってしまいました。
厄介なのは、ものすごく痒いし辛いけど、熱もなく体は元気なことです。それなのに仕事に行けない。頭の中が自分を責める言葉でいっぱいになっていきました。
今振り返ると、10歳から子役として走り続けてきた私にとって、早めに訪れた「ミドルエイジクライシス」だったのかもしれません。
絶望の中でよみがえった、「橋田先生の言葉」
――蕁麻疹が悪化してからは、どう過ごしていたのでしょうか。
宇野 2018年頃から蕁麻疹が酷くなり、2019年の春には仕事は全てキャンセルして、体を冷やしながら横になることしかできなくなりました。療養しているうちにコロナ禍に入り、通訳の仕事が一切なくなってしまったんです。
実家暮らしのため飢える心配はありませんでしたが、蕁麻疹を抱えている以上、「自宅でできる仕事を持たなければ生きていけない」と感じました。
そんな時に思い出したのが、橋田壽賀子先生から言われた「あなたは、いつか書くわよ」という言葉だったんです。
――その言葉をかけられたのはいつだったのでしょうか。
「芸能界1本で生きていくのは無理だ」
宇野 30歳になった私は、「芸能界1本で生きていくのは無理だ」とうっすら悟っていました。さらに、頑張っていた通訳の仕事も、蕁麻疹で失ってしまった。そんな状況でも、先生の言葉を思い出して、「昔から文章を書くのは好きだったな」と考えたんです。
「ライターなら自宅でもできるかもしれない」と思い、さっそくウェブサイトのライターに応募しました。自分で企画を出して、取材をして、という感じでやっていました。
数年経って、ある時、女性向けのメディアに書きたくて、プロフィールを送ったんです。そうしたら、編集者の方から連絡がきて、「エッセイを書きませんか?」と思わぬオファーをいただいて。昔からエッセイストに憧れはありましたが、「私なんかに需要あるの?」と半信半疑でした。ありがたいことに反響があって。最近は、俳優さんのインタビューや、歌舞伎の取材など、元々のキャリアが役立つお仕事が増えてきています。
――ライターとして、ご自身の経験が生かされていると感じることはありますか?
宇野 俳優さんにインタビューをするときは、何が嫌がられて、どんなことを聞いてほしいのか本能的に分かる部分はあると思います。
歌舞伎を観るようになったのは20代半ばくらいから。歌舞伎座の知人に毎回、舞台の感想を送っていたので、その経験が生かされているのかもしれません。プロの視点に寄りすぎず、初心者の方にも分かりやすく書けることが、私の強みだと思っています。
――子供時代から華やかな世界に身を置きながら、堅実に働く道を選んだのはなぜだったのでしょうか。
「子役は道を誤りやすい」と言うけれど⋯
宇野 昔から「子役は道を誤りやすい」と言われてきました。そうならなかったのは、「こう生きたら、道を外れてしまうのか」という実例を子供の頃から間近で見てきたからかもしれません。顔見知りの方が、ある日突然逮捕されてしまったこともありました。
でも1番大きいのは、「『渡鬼』に出ている子」として見られる責任感だったかもしれません。もし私が何かやってしまったら、『渡鬼』が放送できなくなってしまう。あれだけの長編シリーズなのに、不祥事がないのは本当にすごいことだと思います。これからも、早死にと、警察に捕まることだけはしたくないですね(笑)。
――子役の経験は、宇野さんの人生にどんな影響を与えたのでしょうか。
宇野 「元天才子役」という肩書きを使っていますが、「自分は天才じゃない」と重々わかっているんです。たまたま運とタイミングが重なり、そう呼ばれるようになりました。それでも、高畑監督、橋田先生、石井先生が私を選んでくださった事実は消えないので、「それに恥じない人間でいたい」という意識はあるかもしれません。
ただ、最近は自分の心身と向き合ってきたことで「できないことはできないなりに、できることは私なりにやろう」と思えるようになった気がします。あまり肩肘張らずに、生きていきたいです。
――今後の展望はありますか?
橋田先生も売れたのは「意外と遅め」
宇野 いつか、「週刊文春」でコラムを連載したい(笑)。もっとエッセイや記事が書きたいし、いつか本を書きたいと思っています。でも、芝居もまた急にやり出すかもしれない。今の私は、まだまだ道半ばです。
橋田先生が『おしん』を執筆されたのは50代、『渡る世間は鬼ばかり』は60代と、意外にも遅めなんです。石井先生は現役最高齢(2026年9月で100歳)の演出家として活躍されています。
だったら私も、60代になってからヒットを出すかもしれないですよね。未来に対してワクワクできるのは、『渡鬼』からもらった最高の財産だと思っています。
(都田 ミツコ)
【最後まで読む】「早稲田大学を卒業」「現在の仕事は⋯」あの高畑勲監督から“天才だな”と言われたことも【36歳・元天才子役のその後】
【画像】あの高畑勲監督から“天才だな”と言われたことも…子役時代の宇野なおみさん
「内定ゼロで卒業」「面接官5人中4人が不採用」それでも“女子アナ”になれた44歳芸人の就活すべらない話【その後、社内恋愛で失敗して…】
