呉座 勇一

    国際日本文化研究センター研究部准教授

    武田信玄の軍師として知られる山本勘助の実像とは何か。国際日本文化研究センター准教授の呉座勇一さんは「『甲陽軍鑑』には勘助が『軍師』であると書かれた箇所はない。武田晴信書状の山本菅助と『甲陽軍鑑』に記された山本勘助を簡単に結びつけるべきではない」という――。


    ※本稿は、呉座勇一『軍師の日本史』(角川新書)の一部を再編集したものです。


    山本勘助
    勝川春亭「山本勘助」(画像=MORIMIYA ART GALLERY/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)



    『軍鑑』が描く山本勘助の実像

    「市河家文書」の武田晴信書状などの発見により、山本勘助は『軍鑑』によって創作された架空の人物ではなく、武田家に実在した家臣であったことが確定した。では、山本勘助は「軍師」、あるいは軍師的存在だったのだろうか。『軍鑑』には、勘助が他国者でありながら、武田信玄に才能を認められ、「足軽大将」に登用された人物であるという記述は見えるが(巻九下・品二十八)、「軍師」であると書かれた箇所はない。


    信玄が勘助をしばしば召し出して軍略や築城について尋ねていることや、勘助が合戦の際に妙策を進言して武田軍の危機を救ったことが『軍鑑』に見える。その点を重視すれば、勘助を軍師的存在と評価することはできるかもしれない。


    ただし『軍鑑』には、勘助ほど頻繁ではないものの、信玄が他の家臣を呼び寄せて意見を尋ねている事例が見られる。『軍鑑』においても、勘助は信玄の唯一の相談役という位置づけではない。


    武田氏研究者の笹本正治ささもとしょうじ氏は「『甲陽軍鑑』に記された山本勘助なる人物については、様々な点で問題がある。少なくとも、ここに記されたままの人物が存在したと考えるのには無理がある。もし存在したとしても、そこには様々な脚色が加えられており、実態とは異なる。


    とりわけ、『甲陽軍鑑』の筆者、編者によって意図が加えられている可能性が高い。少なくとも、我々の考える歴史の本と『甲陽軍鑑』とは全く異なることを肝に銘じなくてはならない。武田晴信書状の山本菅助と『甲陽軍鑑』に記された山本勘助を簡単に結びつけるべきではない」と注意を喚起している。


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