これが本当に、2020年代を生きる若者たちの姿なのか?

    映画『2045 FILMS vol.1』として上映された『よもすがら』(吉村美雲監督)、『For My Grief』(⿓村仁美監督)、『24フレームの戯言』(秋葉恋監督)(以上、上映順)の3本の短編映画を観ながら、そう思った。

    『2045 FILMS』の趣旨は以下のとおり。

    2025年3月、20代のクリエイターを中心に、若手が挑戦できる場として新レーベル「2045」を発足。「2045」というレーベル名は、AIが人間の知能を超えるとされるシンギュラリティ(技術的特異点)が到来するとされる年に由来し、人間としてクリエイティブに挑戦する思いが込められている。

    本企画では、オーディションで選抜された役者と「2045」所属の若⼿監督がタッグを組み、本企画から生まれた30分の短編映画3作品を、劇場公開作品として一挙同時上映する。

    テアトル新宿サイト紹介文(抜粋)

    映画の中の彼/彼女たちというのが、何というか……1970(昭和45)年生まれでバリバリの昭和教育を受け、これらの映画に登場する若者たちと同じ年齢の頃を20世紀末(1990年代)で過ごした只のオッサンからすると、(これらの物語がある程度現実を反映しているとしたら)かなり「しんどい」生き方をしているんだな、と苦しくなってしまった。

    都会の雑踏の中で、⾃分を⾒失いかけている颯⽃(永⽥崇⼈)。
    念願の企画開発部に配属され、「好きなことを仕事にできた」はずだった。しかし理想と現実のずれは、静かに彼を追い詰めていく。そんな夜、ふと迷い込んだ不思議な喫茶店。無愛想なマスター(⾼⽊勝也)と、ジェンガを囲む客たち。積み上げたブロックが揺れるたび、均衡を保っていた⼼も軋んでいく。流れに押し流されていた⾃分の声に、少しずつ触れていく。夜から明け⽅へ。
    ⽌まらない時間の中で、颯⽃は本来の⾃分を取り戻そうとする。――静かな⼀夜のヒューマンドラマ。

    『よもすがら』

    それぞれのかたちで愛し合い、それぞれの理由で別れを選ぶ四組の恋⼈たち。
    夢を追い街を離れるミナ(⼩林由依)と、その背中を⾒送るマユ(⽔野響⼼)。⾃分の未熟さと現実の狭間で愛を抱えきれないユウ(伊原卓哉)と、寄り添い続けるもすれ違ってしまうミライ(園凜)。静かに離婚を決めたマコト(⿑藤友暁)とナオコ(根⽮涼⾹)。そして、恋⼈のコウ(海⾕遠⾳)を亡くしたナギ(栗林藍希)。個⼈の超私的な恋愛の記憶と、誰もが抱える喪失の感情が交差するとき、残されたものは何なのか。
    失った⼈と共に流れていた時間を抱きしめながら、それでも流れる⽇常へ歩き出す⼈々を描く、静かな群像劇。

    『For My Grief』

    商業デビュー作の⻑編映画『愛の残像』の制作が決まった映画監督の中島悟(若林拓也)。
    中島は、⽅向性を⾒失い脚本の執筆に難航していた。初めて経験する商業映画でプロデューサーの菅野朱莉(藤井美菜)に求められているものと⾃分のやりたい事、そして旧友の映画監督、⼭岸が売れていく姿に⼼の奥にあった想い複雑な想いが⼀気にあふれる。そんな中、中島が初めて映画祭で賞を貰った映画のヒロインである美琴(橋⼝果林)が突如姿を表す。中島は美琴と共に、デビュー作を放置し、映画制作を初めてしまう。
    美琴は何故、中島の前に姿を現したのか︖その⽬的とは―――
    中島は⾃分⾃⾝の過去や今と向き合い⾃⾝のデビュー作となる⻑編映画の脚本を完成させることができるのか。
    創作者と表現者への愛を詰めたファンタジーラブストーリー。

    『24フレームの戯言』

    個人的に、現代の若者たちが「しんどい」生き方をしているんだな、と思ったのは『よもすがら』と『For My Grief』だがそれは、前者において『理想と現実のずれ』によって主人公が心折れてしまうからでも、後者において出てくるカップル(同性も含め)がことごとく破局してしまうからでも、決してない。「それが必然である」ことが「しんどい」。

    この2作、1編30分という制約の中で物語を動かそうとしたからなのか、とにかく登場人物たちが喋る、喋る。
    が、その割に全くと言っていいほど「会話」になっていない。登場人物たちの言葉は「モノローグ」であり、それはつまり唯々俳優が喋る「セリフ」でしかない。
    上で『喋る、喋る』と書いたが、もっと言えば「心情吐露合戦」だ。
    自分自身のことももちろんだが、相手を慮って言っているであろう『あなたが好き』『あなたが心配』『あなたには幸せになってほしい』などのセリフのことごとくが、わかりやすく「私」を主語としている。

    こういうのを俳優の身体を使って表現するのが「演技」であり「映画」じゃないのかと個人的には思うのだが、だから劇中の若者たちがやっていることは現代風に云えば「言語化」で、それは「描写」(客観)ではなく「心情吐露」(主観=「私をわかって!」)だ。
    だから、いくら相手を慮ったようなセリフを吐いても、主語が「私」である以上、相手には響かないから相手が去っていく(「私をわかって!」と一方的に気持ちを押しつけられても困る)。
    「言語化」すればするほど、人は孤独になってゆく。
    孤独になりたくないから「言葉にする」のに、それによってますます孤独になってゆく矛盾。
    何と「しんどい」生き方だろうかと思うが、だからこそ関係性が全くない人物が口にする言葉-『よもすがら』であればマスターのありふれた説教話、『For~』であればタクシー運転手のラーメン屋話-に救われてしまう。

    この2作を立て続けに観て、若者たちの「しんどさ」に面倒くささを感じていた(良し悪し別にして、そのくらいの年齢を生きたのが1990年代だった)私は、最後の『24フレームの戯言』を観て少し安心した。

    この作品が3作品中唯一言葉少なで、だからこそ言葉がちゃんと他者に向けられていた。
    驚いたのは、キャメラ越し(或いはフレーム越し)ではあるが、美琴(の幻影?)が悟と対峙して彼に問い質すシーンが新鮮に観えたことで、それはつまり、前2作の登場人物が誰一人他者と対峙しなかったことを詳らかにしてしまったということでもある(『24フレーム~』は、ちゃんと人と人との葛藤が描かれているが、前2作で登場人物がしていることは、たとえばユウとミライの言い合い?に代表されるように「既に決着がついたことの再確認」でしかなく葛藤は起こり得ない)。
    とはいえ、『24フレーム~』でも結局言葉でオチをつけてしまったような気がするが、これは個人の好みの問題かもしれないけれど、何にも説明しないで放り投げても良かったとも思う。
    『監督は俳優部の疑問に言葉で答えなければいけない』と散々言われ続けた悟を、最後まで抵抗させふんばり続けさせただけに、個人的には残念に思った。

    ところで。
    数日前の拙稿で、街ですれ違った若い女性たちが、恐らく何かのゲームのことだろうが『無限に死ねる』みたいな話をしていたことを書いた。
    今回の3作は偶然なのか「死」を重々しく見せているが、その本質が『無限に死ねる』に通じる軽さというか、実感のなさ(過ぎ)があるように思える。
    『よもすがら』は心折れてから死を示唆するまでが短絡的過ぎたり(内的葛藤への想像力が元々欠如している、というか自分の内面を見たくないから死を選ぶ的な軽さ)、『For~』であれば既に結論が出ている言い争いのあとに出てゆくユウにミライが『死なないで』と叫ぶシーンの異様な唐突さだったり(さらに言えば最終盤の「絵」は『無限に死ねる』的な軽さがある)、『24フレーム~』であれば失踪した美琴が死んでいると明かしたり……

    何だか申し訳ないことに、全体的に批判のような感想文になってしまった。
    このプログラムが始まる前に、同じ映画館で「田辺・弁慶映画祭セレクション」が上映されていて、そのノリで観に来たのだが……
    恐らく両者の作品の監督たちは同年代とくくっても良さそうだと思うのだけれど、一体、何が違ったのだろう?個人的な好みの違いなのだろうか?

    メモ

    映画『2045 FILMS vol.1』(『よもすがら』『For My Grief』『24フレームの戯言』)
    2026年6月1日。@テアトル新宿(舞台挨拶あり)

    連日の舞台挨拶。この日は『よもすがら』チーム。
    ジェンガに勤しむ客たち(左から、山口まゆさん、森ふた葉さん、横須賀一巧さん、左から5番目・西岡星汰さん)。横須さんと西岡さんの間に吉村監督、右端がマスター役の⾼⽊勝也さん。

    若林拓也さん出演作品

    園凜さん出演作品

    根矢涼香さん出演作品

    森ふた葉さん出演作品

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