
橋本淳さん
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【悼む】電話で2回話した程度で「巨匠」を語ろうとするせんえつさを、まず橋本先生に許してもらいたい。
♪森とんかつ、泉にんにく…と子供の時に替え歌を歌っていましたと打ち明けると、「へえ、君もか」と電話口で笑ってくれた。6年前に「弟分」の作曲家・筒美京平さんが亡くなられた時、最も筒美さんを知る人間ということで作詞家・橋本淳さんと初めて話した。冒頭の「ブルー・シャトウ」をはじめ「モナリザの微笑」「バラ色の雲」と、今でも日本のシニア世代全員が歌えるGS(グループサウンズ)の大ヒット曲の数々を書いた巨匠。極端に言えば、今に至る日本のバンドの日本語詞の礎をつくった傑物だ。にもかかわらず、電話口の向こうの橋本さんは極めて普通の面白いおじさんだった。偉ぶることもなく、1歳年下の筒美さんがいかに天才だったかを、小学生にも分かる言葉で教えてくれた。
昨年、いしだあゆみさんが急逝した時に2度目の電話取材。冒頭から「彼女、歌が下手だったから下手だって言ったら、泣きながらレコーディングしてさ。下手が絵になっている珍しい人だったよ」とコメント。故人だろうが、まったく忖度(そんたく)なしに自分が思ったまま、感じたままを語る自然体は不変だった。当時の情景が浮かぶように「ブルー・ライト・ヨコハマ」制作秘話を明かしてくれた。その際、「最近、YouTubeで“ブルー・ライト…”をうまく歌っている韓国の女の子を発見してさ、今度日本に呼んでレコーディングさせようかと思ってるんだ」と想定外のネタまで明かした。結局、諸事情で残念ながら実現しなかったが、当時85歳のヒットメーカーが、まだ熱く燃え盛る制作意欲を見せていたことに驚かされた。
日本ポップスが輝き始めた時のまさにトップランナー。だからこそ知る秘話をもっと伺いたいと願っていただけに残念でならない。続きはまたどこかで教えてください。 (元尾 哲也)
