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自閉スペクトラム症の特性をもつサンデーは白いものしか口にしない。他人のかかわりは暗記したマナーブックの指南通り。自分のルールを守りながら、娘のドリーと二人ひっそりと暮らしている。しかし、ある夏の日、唐突に現れた自由奔放で謎の魅力をもつ隣人によって、これまでの日常が侵されていく。
主人公と似た特性をもつ著者のブッカー賞ノミネート作『鳥の心臓の夏』の第1章から一部抜粋して、「AERA Books」で限定公開します。(第2回/全4回)
【担当編集のことば】母と娘の物語です。娘の成長に伴う母と娘の関係に生じる葛藤や、ヤングケアラーとしての娘、きっと子どもを望んだであろう女性など、非常に繊細に、独特の表現で描かれていて、私にとっては衝撃的で、ものの見方すら変えてくれた作品でした。
* * *
( #1 からつづく)
わたしにとってかけがえのない存在になるヴィータが、陽光の中、トムの別荘の庭の緑の縞模様の芝生の上で周りの果樹に埋もれるようにして静かに横たわっていた。去年の夏は暖かい春と穏やかな秋に挟まれたこともあって、ひどく長く暑く感じられた。暑さのピーク時は灼熱の中で風がまったく吹かず、いつも怒ってばかりいる父親に室内に閉じ込められてしまったかのようだった。
だが、ヴィータが現れた年は太陽の見本市として始まり、現実の暑さを伴わない視覚的な夏のショーとして幕を開けた。その年の初夏の日々は記憶に残るほど明るかったし、靄がかかったような陽の光はこれから暖かさをもたらすと思わせたが、実際はそうはならなかった。今思えば、その年の初夏の日々は、次の年に訪れる酷暑の予告編だったかもしれない。靄がかかったようなこの町を、灼熱の暑さが突然爆発して腕を広げ、うすら笑いを浮かべながら行ったり来たりする予告編だった。
ヴィータは腕を水平に広げて、手のひらを上に向けて、まるで贈り物を受け取ろうとしているかのようだった。美しくまとめられた髪と、インクで染めたような濃い色合いのきちんとした服にまず警戒した。そんなきっちりした外見が、意図せずに崩壊や暴力的なものを映し出していると思えたのだ。階下に駆け下りて庭に出てフレンチドアを大きな音を立てて閉めてから、物置の扉をぎしぎしと開けてあの人の反応をうかがった。
女の人はこっちに顔を向けて、目を開き、その瞬間、わたしたちは低い木柵を挟んで見つめあう形になった。あの人が目を覚ました瞬間に目があったことで、ふたりのあいだに親密さのようなものが生まれた。でも女の人は美しい顔を崩すことなく、まるで自分はひとりでわたしなんか目にしなかったかのように、何も意識していない様子で立ち上がり、自分の家に入っていった。
それから玄関のチャイムが鳴った。あの女の人がそこにいた。玄関で眠そうに瞬きしながら、両腕を組んで体の後ろで伸ばしている。明るく輝いているが、まだ冷たさの残る陽の光を浴びながら、背中の後ろで指を絡ませている。
「んー……」と女の人はかすかに鼻歌を歌いながら、わたしを見て笑い声を上げた。「まだ、目が覚めてないの!(アイ・アム・ノット・イェット・クワイテ・アウェイク)」
クワイテ。アウェイク!
わたしは心の中で静かに繰り返した。クワイテ、アウェイク!わたしはよく人の発音をまねして、できるだけ自分の内にとどめるようにしている。人の発音を聞いて音節を区切り、リズムを取りながら強調音ややわらかな響きをまねるのが好きなのだ。ヴィータは母音をはっきり発音した。これは完璧なアクセントを身につける教育を受けた外国人の発音だ。わたしは会話にじっと耳を傾ける。子どもの頃からのことで、これによって相手の目を見ずにあいさつや会話を交わせた。わたしは普通、相手の表情から言われている以上のことを読み取れない。話し方によって、つまりトーンや、何かためらっている感じや、強調されることによって、わたしの対話は成り立つ。
「こんにちは! あたし、ヴィータです」とわたしの家の玄関で香水の香りを漂わせる小柄な女性が言った。
ダダ! ドゥー、ディーディー。
心の中で静かにまねをしながら、この人の発音のパターンから出身地や社会的地位を推測した。人の言葉を聞く時は指揮者のように指を動かしたいが、これをすると相手を混乱させたり不安にさせたりする。初対面だとあくまでまずはあいさつが大事で、名前はあとから付け足されるのが普通だけど、ヴィータは「あたし」と意図的に表現したことで、まるで待ち望まれた有名人が出てきたような印象を生み出した。「あのヴィータがついにお出ましです!」とでも言うかのように。
夫だった人のお父さんは地元で少し有名な役者さんと長年の親交があり、そのことが時々話に出る。お父さんの家でその役者さんに何度か会ったことがあるが、その方はいつもわたしに初めて会うかのように決まったあいさつをした。頭を少し下げてから控えめに顔を上げて、どこか歪んだ笑みを浮かべて自分の名前を告げるのだ。それは形式的なあいさつで、みんな僕のことを知っているから、名前など告げる必要はない、と言わんばかりだった。
でも、ヴィータはそんなふうに自分に酔いしれているわけではなかった。興奮して自己紹介したのは、わたしとのあいだに何か共通するものを見出したからのようにも感じられた。あの人の「あたし」(Ⅰ)のアクセントは、このわたしも含んでいるように響いた。まるでわたしがヴィータが来るのを予想していたか、少なくともわたしはヴィータのことを知っていて、ふたりが親しみのようなものを共有していると伝えているかのようだった。
すでにそこで生活している者は、常に新参者に友好的に接するべきである。一方で新参者はそこで生活している隣人からの招待がない限り、通りすがりのやり取りにおいてはあくまで形式的な礼節を遵守し、個人的な情報を求めたり、自らそれを提供したりするようなことがあってはならない。
この問題に関しては、十代の頃に入手した、よく参照される本を参考にした。一九五九年に刊行されたイーディス・オギルヴィの『淑女の礼儀作法 社会活動のガイド』は、まさにわたしが日々直面していた社会的な問題に解決をもたらすために書かれたような本だった。
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著者のオギルヴィは高齢になってもロマンス小説を精力的に執筆した人で、昼間からダイヤモンドとサクランボ色のシフォンを身に着けていたことでも知られる。イーディスは社会的な礼節は重んじたが、社会に受け入れられる奇抜さも持ち合わせていた。この微妙なバランスを今もわたしは目指している。レディ・オギルヴィはすでに他界しているが、二度結婚し、どちらの夫からも貴族の称号と華やかな生活を与えられた。この幸運な境遇は書き残した文章や添えられた写真によってうかがい知ることができる。そのような恵まれた状況にあったから、イーディス・オギルヴィの関心事は、使用人の管理や来訪する要人に対する適切な対応など、おのずと上品な話題に限定されることになった。
でも、イーディスの社会生活におけるアドバイスは概して有益だった。『淑女の礼儀作法 社会活動のガイド』は、近隣住民や新しい知り合いとの付き合い方について一章を割いて論じている。だがその本にも、見知らぬ人の寝顔を見つめたところ、その人が招待もなく玄関に現れた時にはどうしたらよいかを助言する文章は見られなかった。
「あなたを見かけて居ても立ってもいられず、自己紹介しに来てしまいました。どうしてもお会いしたかったの。あたしがあまりにせっかちに友達を作ろうとするから、夫には、きみは僕らが誰かに招待してもらう前にみんなと知り合いになってる、と言われるの!」とヴィータは声を上げて笑いながら言った。この人は大きな声で遠慮なく笑い声を上げた。ほかの人がするように手で口を覆ったり、笑いを抑えたりせず、口を大きく開けて小さくて光る歯を見せて笑った。
落ち着いて、落ち着きなさい。静かに、静かに、静かにしなさい。
子どもの頃に少しでも騒ぐといつも注意された。
もっと大きな声で話しなさい。繰り返しなさい。もう一度言いなさい。
思春期に入ると、いつもそう言われた。でも、ここでヴィータは礼節よりも熱意を優先すると認めてくれたようなものだから、「あいさつ」「名前を名乗る」の順ではなく「名前を名乗る」「あいさつ」の〝順番がひっくりかえった自己紹介〞についてわたしが責められることはないとわかり、安心した。ヴィータのアクセントには、テニスのレッスン、家庭教師、海外で夏を過ごすといった裕福な生活によってもたらされる洗練された精密さが感じ取れた。トーンは自信に満ちていて、落ち着いていた。経験の浅いバーテンダーに飲み物を注文する上客のようだ。
ヴィータの英語は外国人離れしていて、わたしが今まで耳にしたいちばんイギリスらしい英語のアクセントと遜色なかった。発音は非常に歯切れがよく、完璧で、発音のミスや誤りを見つけるのを習慣としているわたしにも、たとえ誤りらしきものがあったとしても、この人は意図的に慎重に綿密に計算してそうしているんだ、あえてパロディを演じているんだ、と最初は思えた。ところが、あの人にはそんな計算などなく、美しく、自然に声がその口から発せられた。
「どうしてトムの家にいるの? トムのお友達?」とわたしはたずねた。
ヴィータはほっそりと上品な体つきをしていたから遠くから見ると若く見えたけど、近くで見るとわたしよりかなり年上であるとわかった。顔にゆるやかに刻まれた皺からすると、年齢はおそらく50代の半ばから後半と思われたし、目つきは鋭くて、定期的に陽の光を浴びているが、日焼け止めを塗って十分に注意しなければ維持できない肌をしていた。
この町では八月を過ぎればその色を保つことはできないわ。それにここではみんな大体コートやスカーフを着てるから、日焼けを見せびらかす機会はあんまりないと思う。
わたしは自分の母の声で自分に言い聞かせたけど、そうやってヴィータを静かに叱りながらも、この人は一年中日焼けしているし、日焼けした肌が引き立つ服を着る機会もたくさんあるんだ、と思った。ヴィータの体にはほかの人の体には見たことがないまぶしいきらめきがあった。こんな人、見たことない。この人は人間の形をした宝石で、発掘されて、引き上げられて、わたしたちみたいな小石の中に混ぜられて、そのキラキラした容貌でわたしたちがどれだけ凡庸であるかを思い知らせてくれるんだ。わたしは青白くて中身は何にもないけど、この人は黒く日焼けしていて、外見は完璧に整えられていて、大理石みたいにリアルで、触れると冷たい。わたしは吃音で、不安定で今にも消えてしまいそうで、夏の日差しでぼやけてしまった空気のようなもの。
「トム? ああ、そう、トムよ! あの人、あたしと主人のよい友達なの。やさしい、ほんとにやさしい人よね? すっごくやさしい。それで、あなたのお名前は?」
あの日、この人が突然玄関に現れたことに戸惑い、初めて人と会うのはどんな感じか頭の中で思い出そうとした。ヴィータはわたしをじっと見つめていたけど、こっちが何も話さずにいると、ほかの人のように無理やり何か言わせようとするようなことはなかった。好奇心も関心もまるで持ち合わせていないようだった。何の期待も示すことなく、穏やかな目でじっとわたしを見つめていた。経験したことのないこの感覚が、わたしを落ち着かせてくれた。わたしはついに自己紹介しようと決心し、この人の最初のあいさつの仕方をまねしようとした。
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ダダ! ドゥー、ディーディー。
「こんにちは! わたし、サンデー」自分の名前を告げながら、わたしは一歩下がり、あの人の間に距離を置いた。こんなふうに、わたしは常に人々から後退している。この世界全体は回転する部屋の集合体で、その一室一室にわたしはいつも誤って入ってしまっている。その場でどうすべきか、落ち着いて考える時間は与えられず、すぐに別の部屋に呼び込まれ、そこで今まで経験したことのない行動を求められる。時には知り合いから逃れるために壁に背を押しつけて、ぎこちなくカニ歩きすることもある。
はじめまして、と言うのがよい。お会いできてうれしいです、と決して言ってはならない。
イーディスが見えないところから指示を出してくれた。
「はじめまして」ヴィータが返答した。「あなた、サンデーっていうの? まあ、すてきなお名前! すばらしいわ。こちらこそ、はじめまして」
ヴィータはサンデーというわたしの名前を完全に受け入れてくれた。まるでわたしたちふたりはおたがいに架空の名前を作り出すことにして、その上でわたしが考え出した名前を喜んでくれているかのようだった。
ヴィータに、どうしてわたしの名前を受け入れてくれたの、とたずねるようなことはしなかった。ずっと前、わたしは人々に明確に説明することを求める衝動を抑え込んだ。でも、それは人々の混乱を受け入れることであり、それによってウサギの穴の奥でひとりで暮らさなければならなくなる。そこで確認できる現実や事実に、つまり真実が読み取れるアクセントや声のパターンにしがみつかなければならない。漫画のような人生で、あり得ないことや非科学的なことに遭遇し、それがどんなに奇妙に見えても、決して問いただしてはいけない。
地元の郵便局の局長はほかの訪問客に対しては明るく「こんにちは」とあいさつするけれど、わたしにはその言い方をしない。曇りの日にその郵便局を訪れれば、「太陽に何をしましたか?」とたずねられる。局長はまるでわたしがこの人の正当な所有物をどこかに隠しているとでも言うかのように、ユーモアを交えず、まっすぐに問いただす。ほかには、どうして雨や雪や風を持ってきたのですか、とあいさつ代わりに問われることもある。どれも季節の変化ではなく、すべてわたしが引き起こしたと考えているのだ。
局長が好んで返答に使うのは、同じく意味不明な「明日は夏を連れてきてくださいね、わかりましたか?」という言い方で、これが別れのあいさつになる。その日の天気がよければ、釣り銭を渡された時のように、お決まりのていねいな口調で、よい天気をもたらしてくれてありがとう、とわたしに謝意を示す。
わたしはこんな話し方をする人たちに、〝はっ!〟と息を吐くような音を完璧に出せるようにしている。これによって、わたしはあなたの言いたいことを理解しています、楽しんでいます、と問題なく示せるのだ。この音を出すことで、「それは面白いですね」というほかの選択肢を口にすることでは解決できないすべての社会の謎に答えを示すことができるのだ。
人々は「それは面白いですね」という言い方も好むが、その表現も先ほどの〝はっ!〟も人々が話を止めて口を閉じているあいだに発しなければならず、たとえ向こうが同じことを繰り返しているとしても、話をつづけているあいだは決して口にしてはならないし、どれほど事実と異なっていようと訂正しようとしてはならない。人々は目を見て話すことを好むが、あまりじっと見つめてしまってもいけない。自分が置かれた多くの社会状況と同じように、「人の目を見て話すこと」に対してもわたしはひとつの方式を構築している。相手の視線を五秒間見つめ、それから六秒間目を逸らし、ふたたび五秒間見つめるのだ。五秒間見つめるのがむずかしければ、三秒を目指し、その後目を逸らす。
人々は目の前であなたがそわそわしたり、指で何かを叩いたり、少しでも体を動かしたりするのを好まない。あなたが静止しているのを好むし、笑顔を浮かべていてほしい。イーディス・オギルヴィは書いている。
笑顔はどんな地味な顔も魅力的に見せる。美人になれないなら、親切で幸せそうに見せる努力をしなければならない。笑顔は社会的成功をもたらすし、どんなにかわいくても不機嫌な表情を浮かべていては、友人や新しい知り合いを作ることはできない。
でも、相手が話している間、わたしはその話が早く終わって解放されたいとだけ思っているし、そのことだけを考えているから相手に向かって眉をひそめてしまうことがある。あまりに多くの規則や注意事項があり、わたしは相手の言うことがほとんど頭に入らない。
『鳥の心臓の夏』(ヴィクトリア・ロイド=バーロウ・著/上杉隼人・訳)第1章「火は光と見紛う」から抜粋。#3 へ続きます。(5月10日公開)
<本書の内容>
火は光と見紛う/輝く魚/冬の蜂/大きな声で話して、普通に話して/辿れない心/精巧に作られたおもちゃ/個人の邸宅/やわらかい羽と鋭い目/この見せびらかすようなキス/猫の眠り/所有欲に似た愛情/際立って違うもの/ある種の告白/イーヴィは水が大好き
