沖縄県読谷村にある工芸の聖地「やちむんの里」。その一角、陶芸工房が立ち並ぶなかで唯一のガラス工房として存在感を放つのが「宙吹ガラス工房 虹」である。「現代の名工」として知られる故・稲嶺盛吉さんが創設し、現在はその息子の盛一郎さんが代表を務める。「泡ガラス」の技法で独自の地位を築いた同工房だが、その背景には親子2代にわたる激しい葛藤と和解、そして創造への執念があった。
琉球ガラスの異端児「虹」の起源
戦後の沖縄で、駐留米軍が廃棄したコーラやビールの空き瓶を溶かして再生したことから始まった琉球ガラス。資源不足という逆境から生まれたこの工芸は、沖縄の歴史とともに歩んできた。「宙吹ガラス工房 虹」の創設者である稲嶺盛吉さんもまた、その歴史の渦中にいた職人の一人である。
盛吉さんは当初、糸満市にある大規模なガラス工芸施設に在籍していた。当時、沖縄県内には多数のガラス工房が乱立しており、それらを集約しようという動きがあったためだ。しかし、職人としての強い個性を持ち、自身の作りたいものを追求する性格の盛吉さんは、組織の枠組みに収まることができなかった。わずか3ヶ月で施設を離れ、その後、那覇の奥原硝子製造所などを経て独立の道を歩むことになる。
独立当初は苦難の連続だったという。最初の工房での失敗を経て、宜野湾市大山にあった外国人住宅の一角で再起を図った。転機が訪れたのは、作った皿がある喫茶店でランチプレートとして使われていたことだった。その皿を目にした陶芸関係者が、盛吉さんの作るガラスの独自性に注目したのである。
当時、読谷村の「やちむんの里」は陶芸家たちの集落であり、ガラス工房を受け入れる前例はなかった。しかし、盛吉さんの才能を見出した理解者たちにより、例外的にこの地に工房を構えることが許されたという。こうして「宙吹ガラス工房 虹」は、陶芸の里における唯一のガラス工房として、その歩みを進めることになった。
廃材と気泡が生む、新しい美のかたち
「虹」の代名詞ともいえるのが、ガラスの中に無数の気泡を封じ込めた「泡ガラス」である。この技法が生まれた背景には、廃瓶再生特有の課題があった。廃瓶を原料とする再生ガラスは、不純物が混入しやすく、完全に透明なガラスを作ることが難しい。かつては、気泡が入ったガラスは「二級品」として扱われ、業者から返品されることも珍しくなかった。
盛吉さんは、いくら技術を尽くしても消えない気泡に悩み、逆転の発想に至った。「消えないなら、いっそのこと泡を主役にしてしまおう」。そこから、意図的に美しい泡を作り出すための研究が始まった。
アルミ缶、砂糖、塩、ウコンなど、さまざまな素材を溶けたガラスに投入し、その反応を確かめた。さらに、炭化させたコーヒー豆や、米糠、備長炭なども泡を生み出す素材として採用された。特に米糠を使用すると白っぽい泡が生まれ、備長炭を用いると力強い黒の泡が表現できる。
こうして完成した泡ガラスは、当初周囲から「ガラス業界の常識外れ」と冷ややかな目で見られた。しかし、京都のバイヤーの目に留まり、開催された展示会で状況は一変する。独創的な質感と温かみを持つ作品は大きな反響を呼び、持ち込んだ作品が完売するほどの成功を収めた。かつて「二級品」とされた廃瓶ガラスは、盛吉さんの執念によって、唯一無二のアートへと昇華されたのである。
