こんにちは。メディカム編集部 経営企画チームです。
メディアドゥグループは小説やマンガなどの有力な原作創出に加え、各社との相互連携による映画化・ドラマ化などのマルチコンテンツ展開を推進しています。
作品輩出において中心的な役割を果たすメディアドゥ子会社が、創業約70年の出版社である日本文芸社です。
本記事は長年出版業界に携わり、2024年5月から同社代表取締役社長を務める竹村響氏による寄稿「出版社は資本主義に向いてない」連載の第四回です。
日本文芸社 代表取締役社長 竹村 響(たけむら・ひびき)
2000年同志社大学卒業後、株式会社竹書房入社。編集職を経て、電子書籍黎明期よりデジタル事業を牽引。執行役員、取締役を歴任し、竹書房の再建に貢献した。2020年に同社を退職。マンガコンサルタントとして、出版社や書店など延べ15社の顧問に就任。2023年12月、日本文芸社取締役に就任。2024年5月より同社代表取締役社長。
竹村響 Hibiki Takemura – note: https://note.com/thibiki

<バックナンバー>
第一回 https://mediado.jp/medicome/industry/8207/
第二回 https://mediado.jp/medicome/industry/9234/
第三回 https://mediado.jp/medicome/industry/10292/
変容を歓迎する解像度
出版社は資本主義に向いていない。
その理由をここまで書いてきた。
「資本主義とは説明である」と自分はここで規定した。
それに向いていないということはつまり「出版社は説明に向いてない」ということになる。
これは真理だ。一般的な出版社(学習参考書をメインにしていたりある種の専門書を扱う出版社は別であるが)において1年後より先の出版計画を正確に出している会社はそうそうないだろう。
ただ、出せと言われればもちろん出せる。今年、昨年末の新語・流行語大賞で取り沙汰された「オールドメディア」や「ぬい活」にまつわる本やマンガを出そうと決めればそれは出せる。
しかし我々はそのようにはっきりとした決定を下さずに「実用書A」や「一般書B」「マンガC」といった形で計画を構築する。ポートフォリオの解像度を下げるのだ。
なぜそうするのか。これには「本を作っていく」という過程が大きく作用している。およそどのような本でも最初に企図していた物と違う結果の物が出力されているからだ。
ミニマムレベルで言えば一つ一つの言葉選び。ダイエットを扱った本、という企図はあっても「痩せる」というのか「痩せなければいけない」というのか「太らない」というのか。減る数字にフォーカスするのか、かかる時間にフォーカスするのか、様々な選択肢がある。
もっと大きく言えば肝臓機能を改善することで痩せる、が企画の中心であったが、本を作り上げる道中で、むしろ肝機能の回復で寿命が伸びる、ということになり、そういった本の方がいいのではないか?ということもある。そうした方が本の価値がさらに高まるのではないか。
そうした時、そうした方がいいことを我々は本能的に知っている。ここにいい物がある、と思って掘ってみたら予想外にとてもいい物が出てきた、その時こそヒットのチャンスに他ならないからだ。
そしてこの「いい物を作っていく」というマインドが出版社がメーカーであるが故の本質だ。これが受注産業であれば受注した作業、商品について質が良かったからといって発注費を大幅に上げてくれるようなクライアントは考えづらいだろう。しかし我々はそうではないのだ。いい物ができればそれはよく売れ、利益の上積みとなっていく。
だから我々はギリギリまでその本を説明したくない。そして作り上げる本が最初の企画より全く変容することも許容を超えて歓迎したい。しかしダイエットの本を100冊出すと約束して調達した資金で結果、100冊ともダイエットの本とならなかった時、資本家は納得するだろうか? その100冊の売り上げが良い、という結果論であれば? いや、そのように考える前にシンプルに約束は守られるものであるし、出版社だとてダイエットの本を100冊出すことを普通の株式会社として目指すことになる。しかし、それは出版社が期待する最大のチャンスを捨て去る行為であり、まさに本末転倒なのだ。だから我々は約束しないし説明しない。100冊の本を作りたい、一応目指すところがあるが全くそうはならない可能性も高い、その資金を用意してくれるか?というのはまさに一人のオーナーに向けての言語であり、およそ資本家たちへの言語ではない。ほとんどの出版社が株式資本主義に向いていなくて、ひとりオーナー、オーナー一族に支えられる運営である理由だ。
さて、くどくどと出版社が資本主義に向いていない説明を積み上げてきたわけだが、それではやはり我々は引き続き変わらずオーナー/パトロンシステムという伝統的なスタイルを現代資本主義の中で細々と続けていくしかないのだろうか?
それでうまくいくならそれでいい。良きオーナー、良きパトロンがいるのは素晴らしいことだ。しかしどうもそのような我々にとって良き資本家は年々減っているように思える。それは現代資本主義が進めば進むほどに鮮明だ。だから光明を見出したい。何に?
「マンガ」にだ。
資本主義にアジャストしよう
近年の出版社の業績が大きくマンガを中心とした事業に支えられていることは周知だろう。もちろん、それはマンガの力、生み出されるマンガ作品自体の魅力、ライツアウトにより様々に広がっていくIPとしての力、それらを安定して生み出すことができるシステム、それら様々なマンガ自体のバリューによって成り立っている。
とはいえそのマンガこそおよそIR/説明に向かないものだ。マンガこそ最初に企図した作品から大きく変容する可能性を大きく孕むいちばんのコンテンツで、しかしそれゆえに数多の大ヒットが生まれた。最初から企図した通り連載を進めていたら「ドカベン」は柔道をやり続けていたし「ドラゴンボール」のような無限に広がる世界観――マンガの隙間を埋めるようにアニメオリジナルエピソードが展開されるような――は生まれない。「こち亀」や「シティハンター」のようにシリアス調からコメディ調へ転換することなどもマンガの十八番だった。
状況によって無限に変化していくことができ、それゆえにヒットとなっていく特性を持つマンガというメディア。
しかしここまではむしろ資本主義に向いていないことの説明でしかない。
ところがマンガにはもうひとつ他のエンターテインメント、メディアと一線を画す、明確な特徴がひとつある。
マンガの無限。
終わりを決めずにマンガ連載はスタートする。
マンガは原則「連載期間」も「終わり方」も始まった時には決まっていない、いや「決めなくていい」。
エンターテインメントの世界で放映時間や連載期間のことを「尺」と呼ぶが、連載マンガという概念にはこの「尺」が基本的にない。これは驚くべきことである。
映画は数時間ほどの一つのパッケージとして提供される。これは伝統的な文芸の書籍も同様だ。テレビドラマ、サブスクドラマだってシリーズ化はあれど1クールという尺の中で限定的に作られる。
対してマンガは人気/売上があり、マンガ家にモチベーションがあれば無限に続く。
そんな商業メディアが存在しうるのだ。
どれだけ続くのかも終わり方も決まらずに始まって続いていく。
「説明」どころではないではないか。
この計画性の無さ。それはもはやビジネスでもないのではないか?
説明以前に「何も決めていない」。そんなことが資本主義で許されるのか?
しかし、この驚くべき事実が、およそ資本主義に全く向いていないどころか資本主義に牙を剥いてさえいる特性が、マンガを、出版社を資本主義にアジャストさせてくれるのではないか。
その理由こそマンガの「無限性」だ。
そもそも株式資本主義が期待するのは「将来性」である。株価とは現状につくものではなく、将来性、期待感に付いている。だからいっときの赤字黒字よりも投資ができているか、などの将来その企業が価値を増すかどうか、で投資は判断される。可能性がある企業にはGO。もう伸びづらい企業からは撤退だ。だから毎年大赤字が続いているベンチャーにあえて大量の資金が流れ込み高い株価がつく。
そして投資家はより多くのリターンが期待できる案件に投資する。より多くとは何か?その最大とはもちろん「無限」である。その期待に応えられる出版社の手札は、無限に可変であり無限に永続するマンガメディア(とライトノベル。ラノベとマンガの類似性はその表現方法やテーマというより、この辺りにあるのだろう。特にほとんどの場合、帰還が匂わされたとしても現世へと帰還はしない異世界転生系はまさにこのマンガが持つ無限という本質から生まれた優良児なのだろう)のみなのである。
この「無限」が出版社が資本主義にアジャストするにあたって最大の武器であり、その武器を使って先人であるアルファポリスなどのほか、昨年はオーバーラップHD、今年はTOブックスと株式市場への上場が続いた。これからも彼らに続くプレイヤーがまた上場していくのだろう。
結論としてはタイトル通りでありひっくり返らない。「出版社は資本主義に向いてない」のだ。
しかし、ここまで述べた通り、向いていないものをアジャストする武器を我々はすでに持っていたし、その武器の使い方も編み出されてきている。
だから次はどの社がIR語を操り、資本主義にフィットしてくのか、それが楽しみでならない。
なぜなら「諦めたら試合終了」なのだし、そして何よりも……
「俺たちの戦いはこれからなのだから」
ご愛読ありがとうございました!
竹村先生の次回作にご期待下さい!!
