面白い番組、優れた番組の背後には魅力的な作り手や演じ手がいます。その人たちの残した印象的な言葉は番組制作の極意を伝えるとともに、一種の演出論や映像論、社会論とも言えます。連載【放送人 この言葉、あの言葉】はこれら珠玉の言葉の数々を、東京大学でメディア論の教鞭を執る丹羽美之さんの視点で選んでいただき、毎回ひとつずつ紹介していきます。6回目はテレビの歴史に大きな足跡を残し、2026年1月1日に惜しまれながら亡くなった久米宏さんの「この言葉」です。(編集広報部)
「中学生でもわかるニュース」をコンセプトに掲げ、テレビ報道に革命をもたらした『ニュースステーション』(テレビ朝日、1985~2004)。ドラマやバラエティが中心だった民放の平日夜の時間帯に、これまでにない大型のニュース番組を成功させ、テレビ報道の新しい時代を切り拓いた。この番組の成功は、何といっても、今年1月にこの世を去ったメインキャスター久米宏(1944~2026)の存在を抜きに語ることはできない。
久米宏は1944年、埼玉県浦和市(当時)に生まれた。1967年、早稲田大学を卒業後、TBS(当時)にアナウンサーとして入社。『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』(TBSラジオ、1970~1975)の中継リポーターとして頭角を現したのち、クイズ番組『ぴったしカン・カン』(TBS、1975~1986)や伝説の音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS、1978~1989)の司会で一躍人気者となった。1979年にフリーとなり、その後『ニュースステーション』のメインキャスターとして活躍した。
全部を言葉にする必要はない
『ニュースステーション』は「テレビ的なニュースとは何か」を徹底的に追い求め、ニュース番組の作り方を大きく変えた。「テレビとは何か」を試行錯誤する久米にとって、自分が歩んできた『ぴったしカン・カン』や『ザ・ベストテン』のようなエンターテインメントの世界こそ、そのヒントの宝庫だった。久米はその著書『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』* で、次のように述べている。
僕にとって『ニュースステーション』とは、結局「テレビとは何か」を考えることだった。テレビにしかできない報道とはどういうものか。もっともテレビ的な番組とは何なのか。
それを突き詰めるために、僕は番組が始まる1年以上前から企画を練り上げた。進行役としてニュースの読み方やコメント、インタビューだけでなく、スタジオセット、小道具、衣装、撮影、照明に至るまで、番組制作のあらゆる点にこだわって自分の色に染め上げようとした。
そこには僕がそれまで出演したラジオとテレビ番組で得た知識、技術、発想、考え方のすべてを注ぎ込んだ。『土曜ワイドラジオTOKYO』『料理天国』『ぴったしカン・カン』『ザ・ベストテン』『おしゃれ』『久米宏のTVスクランブル』……。¹
たとえば、久米は「テレビはしゃべらなくても成立する」ということを『ぴったしカン・カン』で共演したコント55号の萩本欽一・坂上二郎から学んだという² 。テレビでは伝えたいことの全部を言葉にする必要はない。実際、久米は言葉だけでなく、身振りや表情でもニュースを表現できる天才だった。苛立ちを表現するのに、黙ってテーブルを鉛筆でトントン……と叩いてみせたり、自分の意見と反対の立場のゲストには、意図的に腕を組んでみせるなど、テレビならではの表現の仕方を知っていた。

<『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』>
スタジオが事件の現場だった
「テレビとは何か」を考える久米がもうひとつこだわったのは、生放送の威力を最大限に活かすことだった。もちろん、それまでのニュース番組も生放送が基本だった。しかし、そこでは記者が事前に書いた原稿をできるだけ正確に読み上げ、台本どおりに伝えることが優先された。映像やスタジオはその付属物でしかなかった。生放送の魅力、つまり何が起こるかわからないライブ感やそこであらわになる人間味をニュース番組に持ち込むことはタブーとされていた。
久米は生放送の可能性を『ザ・ベストテン』から学んだという。『ザ・ベストテン』は、公正なランキング形式と歌手の追っかけ生中継を売りにして、音楽番組の作り方を変えた画期的な番組だった。アクシデントやハプニングが続出し、いつ何が起こるかわからないライブ感とスリルの中で、出演者たちがリアルな姿を見せる。それは音楽番組というより、ドキュメンタリー番組に近いものだった。司会としてコンビを組んだ黒柳徹子とのやり取りはいつも緊張感に満ちていたという。
だから二人の受け答えは、相手が予想しないことを言い合う競争でもあった。お互いを驚かせてやろうと、いつも隠し玉を投げ合っていた。バッテリーというよりも双方ともにピッチャーで、剛速球もあればワイルドピッチもありだった。³
久米はこうしたライブ感を『ニュースステーション』のスタジオにも積極的に持ち込んだ。たとえば、スタジオにゲスト出演した政治家に「すみません、僕は政治の素人なもので……」とトボけたかと思うと、いきなり「直球」の質問を投げかけ、相手をたじろがせた。その丁々発止のやり取りをとおして、ゲストや共演者の人間性や思想を引き出した。スタジオはいつも久米が何を言い出すかというスリルに満ちていた。それはスタジオそのものが事件や出来事の現場であるようなニュース番組の新しい作り方だった。
ニュースを人々の身近なものに
よく知られているように、久米は自らの役割を「ニュースキャスター」ではなく、「司会者」として位置づけていた。もちろん、これは久米にジャーナリストとしての素質や能力がなかったなどということではない。それどころか、メディアの役割は権力のチェックにあることを、彼は誰よりも強く意識していた。にもかかわらず、久米が自らを「司会者」と位置づけたのは、『ニュースステーション』を『ぴったしカン・カン』や『ザ・ベストテン』の延長線上にあるものと自然に考えていたからだろう。
テレビに区分があるとすれば「テレビ的な番組」と「テレビ的ではない番組」の二つだけだ。新聞は政治面、経済面と紙面のジャンルが分かれているが、テレビがそれをなぞる必要はない。いろいろなものをきれいに区分けできないところがテレビの特徴であり、強みだからだ。テレビの世界は寄せ集めであり、ごちゃまぜの猥雑なものなのだ。⁴
『ニュースステーション』は「報道はこうあらねばならない」というそれまでの堅苦しい常識を覆した。視聴者と同じ目の高さでニュースを考える姿勢を打ち出し、ニュースを人々に決定的に身近なものにした。ニュースのショー化、娯楽化を助長したと批判されることもあったが、民放のプライムタイムでニュース番組が成立することを証明した意義は大きかった。それはニュースの民主化でもあったのだ。エンターテインメントと報道の境界を軽やかに乗り越えてきた久米の座右の銘は、大宅壮一の次のような言葉だったという。
僕が座右の銘としているジャーナリスト大宅壮一氏の言葉がある。
「風俗を語るときは政治的に語れ。政治を語るときは風俗を語るように語れ」
政治や経済を語るときに、難しい言葉を使い、眉根を寄せて話すのではなく、もっと気楽に構えなければ本質は伝わらない。⁵
久米宏がこの世を去った今年、後継番組の『報道ステーション』(テレビ朝日、2004~)ではその追悼特番が放送された(2026年1月13日)。『ニュースステーション』の懐かしいオープニング映像からはじまるその粋な追悼特番には、ニュース番組の枠を絶えず広げよう、広げようとした久米の色褪せない姿が、たっぷりと映し出されていた。それは単なる過去の名場面のダイジェストではなく、それ自身が「テレビとは何か」「テレビ的なニュースと何か」をもう一度私たちに問いかけているかのようだった。
* 久米宏著『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』
世界文化社 2017年9月12日発行 2,530円(税込) 四六判/344ページ ISBN978-4-418‐17506‐2
※同書は朝日新聞出版の朝日文庫から文庫化されています
¹ 久米宏『久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった』 、世界文化社、2017年、p.14-15
² 同上、p.67-69
³ 同上、p.87-88
⁴ 同上、p.111
⁵ 同上、p.177
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東京大学大学院情報学環教授
丹羽 美之(にわ・よしゆき)
1974年生まれ。専門はメディア研究、ジャーナリズム研究、ポピュラー文化研究。著書に『日本のテレビ・ドキュメンタリー』(東京大学出版会)など。
