「好き」と思う感情や、それを語る言葉が残ってほしい

――三宅さんの著書は、世の中的に代表作とされているのは『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』ですが、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』や『「好き」を言語化する技術:推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』など初期の著作の多くは、アイドルのみならずいろんな対象への「好き」という気持ちがまず真ん中にあり、それをどう表出するかという課題と向き合う中で書いてきたのではないかと思います。それは今おっしゃった「ほぼ趣味としてやっている」というモチベーションが大きかったという感じでしょうか。

三宅:そうですね。すごく大きいです。好きなものに心を動かしたいし、そういうものを語っている人を見たい、というのが同世代の感覚なんじゃないかなとも思うんです。今あげていただいた本は、そういう本ってまだないじゃん、と気づいて企画を出した記憶があります。すでに「正しい文章の書き方」については本がたくさん出ていたんですけど、そうではなく「正しいかどうかよりも好きを伝えたいんだ」という欲望に応える本。自分もそうだし、まだ気づかれていない同世代の人たちの欲望としてそこがあるのではと思って書いたところはありますね。

――文芸にしても映画、ドラマ、音楽にしても、それを最初に受け取った時の感動は言葉にしないと蒸発してしまうという感覚がある。それをもったいないと思う気持ちが根底のモチベーションにある。

三宅:古典が好きなのもあって、残ることが一番いいことだと思っているところがあるんですよね。何事もアーカイブしてほしいし、されてほしい。みんなの「好き」と思う感情とか、好きなものに対しての語りとか、ちゃんと残ってほしい。例えばアイドルオタクの人のブログにはめちゃくちゃ面白いのがいっぱいあるんですけど、サーバーがなくなると消えてしまうじゃないですか。00年代にあんなに面白いブログがあったのに今は全然残っていない。その諸行無常を少しでも減らしたい。インターネット育ちなんで。

――ただ、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』以降は、もうちょっと違うレイヤーで求められるようになったと思います。社会批評的な、「今の世の中はこうなっています」という分析の役割が世の中に求められるようになった。そのことをどう捉えていますか?

三宅:正直、一冊目を出した時から、「好きを語る」ということも、自分の中では批評のつもりでやっていたんですよね。それこそ『女の子の謎を解く』という本を書いたり、よしながふみさんの『大奥』についてnoteで書いたりする時も、自分としては批評と書評ってそんなに変わらないと思ってやっていたんです。でも、見られ方として「もっとちゃんと批評っぽくしないと批評って見られないんだ」ということに、やっていく中で気付いた節がありますね。ちゃんと評論家って名乗らないと評論として見られない、というか。だから『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を出してやっと批評っぽく見られるようになった感じはありますね。自分のやりたいこと自体はずっと変わってないんですけど、見せ方やパッケージングが変わってきたのかな。

――その「やりたいこと」の核として、批評というものをアップデートしたいという思いはあるんじゃないかと思います。

三宅:そうですね。アップデートというか、文体を開きたいという気持ちが一番大きい。文体ってすごく大事なものだと思っていて。日本の文学史を見ても、文体がアップデートされて初めて中身もアップデートされてきた歴史がある。批評が読まれないのも文体がアップデートされてないからでは?と思っているところがあります。批評って、どうしても男性に向いているものだと感じるところが昔の自分にもあったので、ジェンダー関係なく参加できるものにしたいし、いろんな方に面白いと思ってもらえるものにしたいという感覚はすごくあります。私だけではなく、同世代の批評家は各々の立場で同じような感覚があるんじゃないかな。

――読み手としての感想で言うと、三宅香帆さんの文章はまさに批評の文体をアップデートしていると感じます。

三宅:アップデートしないと語れないものがいっぱいあるんじゃないかと思うんですよね。批評の対象に合わせた文体を作りたいという感覚があります。

――そうした問題意識が『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にも受け継がれていると思います。あの本は『花束みたいな恋をした』の批評として書き始められている。あの作品の主人公の「働き始めると『パズドラ』しかできなくなる」というシーンを批評するために、今の社会における労働とカルチャーの関係についてあれだけの分量で書かないといけないという一冊になっている。

三宅:そうですね。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は社会批評や歴史批評みたいな感じだけど、実は『花束みたいな恋をした』論になっている。『考察する若者たち』も、若者論の体ではありつつ、実は『スキップとローファー』論になっている。最終的には作品の批評になっているといいなと思っていますね。

――『考察する若者たち』は「今の若者たちは正解を求める」ということや「批評よりも考察が求められている」ということが「報われ消費」という切り口と共に読まれていますが、三宅さんが体重を乗せて書いているところは『スキップとローファー』に描かれる関係性への讃美ですよね。

三宅:やっぱりフィクションはちょっとみんなの先を行っているなと思っていて。音楽もそうですけれど、アーティストは感覚が早いことが多いと思います。私は報われ消費が気になったのは最近ですが、実は『スキップとローファー』が連載開始した時点で作者の高松さんには「最近は報われないことがしんどいなと思う若い世代が増えたな」ということが見えていたのではないかと思いますし。そういった、音楽やフィクションにおける、ある種の先見性をキャッチして言葉にするのが批評家の役割かなと思っています。

――『考察する若者たち』が去年出てからだいぶ広く受け止められたわけですが、反響に対して、どんな印象がありましたか。狙い通りだったこと、意外だったことはありましたか?

三宅:これまで出したどの本よりも、世代によって感想が異なる感じがあるなあ、と思って、そこは意外でした。とくに上の世代には「考察」に関するところへの賛否がありましたね。私としてはもう少し「報われ消費」とか「最適化」とか、プラットフォーム社会について書いた内容の方が広がるかなと思ったら、意外と「考察と批評の違い」の方の反響がすごく多かった。インタビューを受けても感想を見ても、考察というものにモヤモヤしている人は意外と多かったんだなと思います。一方で、読んでくれた若い人からは「報われる」ということに対して「めっちゃわかります」という話をすごく聞くので、そこの反響のずれは面白いなと思いました。

――「報われ消費」というテーマについて書こうと思ったきっかけはどんなものだったんでしょうか?

三宅:やっぱり推し活について考えていて一番思ったことが「報われる努力しかしたくない」という感覚、「ゴールが欲しい」という感覚って何なんだろう?というところなんです。最近の推し活界隈の言葉で「安心安全のアイドル」みたいな言い方があるんですよね。それって結局、自分が好きかどうかよりも、スキャンダルがなくて、推しに投下したお金がちゃんと報われてくれるという考え方から来る言葉じゃないですか。推しにおける「安心安全」って何なんだろう?と思うと、やっぱり「報われ消費」的な感覚なのかなと思いました。

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