(CNN) エメラルド・フェネル監督の映画「嵐が丘」を少しでも楽しもうと思うなら、映像に身を委ねるしかない。割れた卵の卵黄、カタツムリの粘液、スクリーンに光る雨滴――。どれを取っても表面を滑るように演出され、決して皮膚の奥深くまで届くことはない。

英国の作家でもあるフェネル監督の3作目は、最初の予告編が公開された時点から賛否を呼んでいる。作家エミリー・ブロンテが描いたイングランドの荒野を映像化しようとした多くの監督と同様、フェネル監督もこのゴシック小説の前半部のみを翻案することに決め、恋愛劇が世代間の心の傷を掘り下げるストーリーに変質する前に、物語を途中で断ち切った。プロットや登場人物はおそらく半減しているが、口に指を突っ込んだり自慰にふけったりするシーン、そしてセックスは倍増した。

ある意味、タイトルを囲む例の悪名高い括弧が公開された瞬間から、映画は失敗する運命にあった。この括弧はまさに、今週噴出したような批判を先回りしようと予防線を張るファネル監督の試みだったといえる。ファネル監督は大々的にメディアを招いた際、こう語っていた。「私は『嵐が丘』そのものを作り上げているわけではない。そんなことは不可能だ」「私に言えるのは、自分なりのバージョンを制作しているということだ」

タイトルに付けられた括弧は単に視点の主観性を示すだけでなく、それ自体が引用だ。20世紀半ば、映画のタイトルは予告編で括弧に囲まれて表示されるのが普通だった。文字だらけのポスターの中で作品名を目立たせるため、あるいは、サイレント映画時代の様式の名残りだったのかもしれない。こうした映画界の慣習は1960年代には廃れたが、フェネル監督はこれを復活させることで、今回の映画がブロンテ一家の牧師館よりも映画史に重点を置いた作品であることを観客に示唆しているのだ。

タイトルを囲む引用符は、20世紀半ばの映画のポスターではやったデザインだった/Warner Bros. Pictures
タイトルを囲む引用符は、20世紀半ばの映画のポスターではやったデザインだった/Warner Bros. Pictures

実際、ウィリアム・ワイラー監督による1939年のハリウッド映画――豪華絢爛(けんらん)な衣装とロマンスに焦点を絞った演出が特徴――の方が、文学の原作よりも比較対象としてふさわしいように感じられる。2026年に再び映画化するに当たり、フェネル監督は衣装デザイナーのジャクリーン・デュラン氏と組み、20世紀半ばの過剰で内省を欠いた、けばけばしいファッションに強く触発された衣装数十着を制作した(マーゴット・ロビー演じるキャサリンだけで50着に上る)。映画の制作中、フェネル監督は「風と共に去りぬ」(1939年)のスカーレット・オハラから「ロバと王女」(1970年)までを網羅する分厚いビジュアル資料集を回覧したという。もう明らかだろうが、ファネル監督は時代考証の正確性などという概念をはなから気にかけていない。ただそれだけだ。

ファネル監督は最近、ロンドンのビクトリア・アンド・アルバート博物館でデュラン氏と一緒に質疑応答に応じた際、こう語っている。「自分ではある程度、時代劇を作っているつもりでも、結局は1990年代風、あるいは映画が制作された当時の雰囲気になってしまう」「私たちは衣装を制作し、映画を制作する。そこには不信の停止(現実ではないことを承知のうえで作品世界に没入すること)がある。それを認めるのが重要だ」

フェネル監督は20世紀半ばの大規模予算映画の製作方法にならい、ロンドンのスタジオで映画の一部を撮影した/Jaap Buitendijk/Courtesy Warner Bros. Pictures
フェネル監督は20世紀半ばの大規模予算映画の製作方法にならい、ロンドンのスタジオで映画の一部を撮影した/Jaap Buitendijk/Courtesy Warner Bros. Pictures

フェネル版「嵐が丘」の衣装はしばしば、ワイラー監督の領域に足を踏み入れる。スラッシュクロス・グランジの屋敷で、キャサリンがイザベラ・リントンのヒースクリフへの報われない恋心をからかう場面があるが、そこで彼女が身に着けているビロードの蔓(つる)のアップリケが入った白いチュールドレスは、1939年の映画でマール・オベロンが着ていたものと瓜(うり)二つだ。エドガー・リントンと結婚したキャサリンが初めて嵐が丘を訪れる場面では、マーゴット・ロビーは血のように赤いビロードのフードが付いたケープと白い毛皮のマフを着用している。これはワイラー監督の映画でオベロンが着用していた毛皮付きのフードや毛皮のマフと重なる。ロビーを飾り立てるおびただしい宝石も、87年前にオベロンがほぼ同じティアラやドロップ型イヤリング、花をモチーフとしたダイヤのネックレスを着けていたことを思えば、さほど場違いではない。

ウィリアム・ワイラー監督による1939年の映画に登場するマール・オベロン/Everett Collection
ウィリアム・ワイラー監督による1939年の映画に登場するマール・オベロン/Everett Collection

フェネル監督とデュラン氏は、新映画のロビーにも同様に、ぜいたくな毛皮のマフとビロードのフードが付いたケープを着せた/Courtesy Warner Bros. Pictures
フェネル監督とデュラン氏は、新映画のロビーにも同様に、ぜいたくな毛皮のマフとビロードのフードが付いたケープを着せた/Courtesy Warner Bros. Pictures

オベロン演じるキャサリンもロビー演じるキャサリンも、スラッシュクロス・グランジに到着するなりおびたただしい宝石を身に着ける/THA/Shutterstock
オベロン演じるキャサリンもロビー演じるキャサリンも、スラッシュクロス・グランジに到着するなりおびたただしい宝石を身に着ける/THA/Shutterstock

1939年のハリウッド映画版は多くの点で、原作よりも比較対象としてふさわしく感じられる/Courtesy Warner Bros. Pictures
1939年のハリウッド映画版は多くの点で、原作よりも比較対象としてふさわしく感じられる/Courtesy Warner Bros. Pictures

デュラン氏はロンドンで「なぜこの衣装なのかと聞かれても、答えるのは本当に難しい」「ある種の直感的、感情的な理由からだ」とコメント。フェネル監督も同じ見方を示し、「時代背景とは関係がなく、感情の真実と結びついたものだ」と語った。

ワイラー監督の映画に対する初期の批評も、同様の感性を認めていた。米紙ニューヨーク・タイムズの映画批評家、フランク・S・ニュージェント氏は1939年、この映画を称賛して「演出、主題、訴求力、どれを取っても感情がみなぎっている」と述べたものの、「ブロンテ協会の忠実な信奉者」の怒りを買うことへの懸念は当時から大きかった。ニュージェント氏の見方では、ワイラー監督がどんな創造的な改変を行おうと、彼が小説の中心テーマと見なす「ヒースクリフとキャサリンの残酷な愛」の主題は保たれている。「手短に言えば、映画の制作陣は不要な枝葉を削ぎ落とし、本質的な要素をより鮮明に浮き彫りにした」というのがニュージェント氏の指摘だ。間違いなく今日のフェネル監督にとっても、ニュージェント氏のような批評はありがたいだろう。もっとも、観客が同じようにファネル監督の翻案を受け止めるかは未知数だが。

結局のところ、フェネル監督は歴史上の一時期を参照しているのだが、それはブロンテが小説を書いた1847年でも、小説の舞台である1700年代後半でもない。歴史ではなく過去の映画を参照するという選択の結果、彼女の映画は読書好きではなくシネフィル(熱心な映画愛好家)のための作品と化した。結果として生まれた作品は、晴れた日の水たまりのように浅い内容かもしれないが、そこに光が捉えられているのは間違いない。

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