わたしたちが本や雑誌を手にするときに、はじめに目にするのはその「デザイン」です。出版物の“顔”を担うデザインの視点から、出版文化の未来を考える不定期連載「「読む」をデザインするひと」が、「群像」80周年企画として2026年1月号よりスタートしました。ライターの宮田文久さんがさまざまなデザインの「現場」を訪れ、普段なかなか聞くことのできない言葉に耳を傾ける企画です。
連載第一回では、「群像」のアート・ディレクターを務める、装丁家の川名潤さんにお話をうかがいました。「群像」2026年1月号より転載しお届けいたします。(転載にあたり一部表記を修正しています。)
「群像」2026年1月号本や雑誌の“顔”を担うデザイン
一番近くにあるはずのものが、実は遠い、ということは起こりえる。
私たちが本や雑誌を手に取るとき、最初に目にしているものは、当たり前だが本文ではない。本や雑誌が外界に接するとき、その“顔”を担っているのはデザインだ。
いや、本文を読むときであっても、意味内容をくみ取る前に目に飛び込んでくるイメージのことを、その名も版面という語で私たちは呼んできたのかもしれない。フォントの選択や文字の配置などといったページレイアウトは、読者と文章のあいだにいつだってその身を横たえている。
見るものばかりではない。使用紙の選択は、私たちが手を伸ばして触れる、本や雑誌の表面やページの感触にダイレクトにつながる。ファーストタッチを司っているのは、やはりデザインなのだ。しかし、そうした顔は、レヴィナスではないが、いつだって私たちから遠ざかる。
もちろんブック・デザインの領域はいつも注目の的であるし、それらをめぐってなされる語りの数々は、常に熱を帯びている。ただ、たとえば昨今の出版不況の只中で、デザイナーたちが抱えている悩みや、そこで日々問われている倫理について、私たちはどれほど知っているだろうか。
紙の印刷物に、もしかろうじて何か未来が残されているとしたら(それは現在のような姿ではないかもしれない)、そしてその未来の顔をなおデザインが担っているのだとしたら、デザイナーたちの日々の感覚について尋ねることなしに、私たちは先に歩んでいけないのではないだろうか。
デザイナーとのあいだにある遠さ
恥を忍んで白状すれば、編集の世界の片隅で生きてきた筆者にとっても、デザイナーという人々は、近くて遠い存在であり続けてきた。いつも隣にいて、なんとなくのビジョンや予感の集合体でしかない本や雑誌の原形質に、明確な“かたち”を与えてくれる、比類なき力をもつ人々。しかしいったいその頭のなかではどんな思考がめぐっているのか、わかるようでわからない人々。
その感覚が完全にシンクロしてしまえば、職能がわかれている意味も、そのうえで協働する意義も失われてしまうであろうから、理解できない点があって然るべきだともいえる。だがそれにしても、デザイナーたちと膝をつき合わせて、胸のうちの言葉になりにくい言葉をきちんと共有することを、あまりに疎かにしてきたのではないか。
本誌のデジタル印刷化のプロセスを追った、2025年7月号掲載のルポルタージュ「オフセットからDSRへ 群像DX記」で、筆者は印刷所に対して同じような感覚に陥った。分業が徹底された出版界における自分が拠って立つものへの不明は、忘れた頃に私たちに反省を促す。
本や雑誌の書き手からも、デザイナーは遠いはずだ。たとえば書籍の著者が、編集者を介さずに担当デザイナーとやりとりをすることは普通ありえない。最初に顔合わせや打ち合わせこそ行われ、制作途中でも間接的なコミュニケーションがとられることはあるだろうが、たいがいは刊行の折に編集者がとりもった祝いの席で相対し、いやいやこの度は……とお互い挨拶をするのが関の山、というところだろう。そこには出版文化が築きあげてきたひとつの美徳もあるだろうが、近くて遠いことに変わりはない。
そして何より、読者一人ひとりにとっても、デザイナーは実は遠い存在なのではなかろうか。もちろん繰り返すように、読者が本や雑誌を楽しむとき、最初に触れ合うのはデザインの領域であり、優れたブック・デザインは、絶えず称揚されてきた。デザイナーがトークイベントなどに登壇することも多い。
しかしやはり、おそらくはそうした場でなかなか話しにくいことに、デザイナーとのあいだの遠さは根をおろしている。なかなか声にならないその声を聞き取ることなしに、距離が容易に縮まることはないだろう。
