作品の多くがニューヨーク近代美術館に所蔵され、ブックデザインの世界で最も影響力のある巨匠。本づくりに人生をかける、イルマ・ボームの信念に迫る。
自由かつ多彩な表現をかたちにしたアートブックがいま、面白い。本特集では、数々の傑作をたどりながら、つくり手たちの言葉を紐解き、さまざまなアートブックに出合える書店やフェアまで網羅した。自分だけの一冊を見つけ、奥深いアートブックの世界をともに語り尽くそう。
『アートブックを語ろう』
Pen 2026年1月号
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インターネットの時代、再評価される本という存在
イルマ・ボーム●ブックデザイナー。1960年、オランダ・ロッヘム生まれ。88年、オランダのブックデザイン賞を受賞。91年にイルマ・ボーム・オフィス設立。2001年には、印刷芸術への貢献を賞する世界的権威であるグーテンベルグ賞を史上最年少で受賞。本を物体として捉え、紙、装丁、フォーマット、製本仕様などに徹底的にこだわった大胆なデザインは、全世界で高い評価を受けている。写真はアムステルダムにあるスタジオにて。デスク背後の本棚には、これまでに手掛けた500冊以上の作品がずらりと並ぶ。2026年の夏には、ATELIER MUJI GINZAにて個展が予定されている。
手にした本に目を向けながら、「本というものは、さまざまなハイテク技術が進化する中で、未来に対していちばん安定した対応性を持つ媒体です」と語る、ブックデザイナーのイルマ・ボーム。これまでに500冊以上もの作品を手掛けてきた、本づくりの巨匠と呼ばれる人物である。
「編集した文章や画像を、紙に印刷して束ねた本というアナログな媒体は、その誕生からほとんど形状を変えていません。その安定性のおかげで、私たちはいまでも数百年前に記された思想に出合うことができます。これほど不変で堅実な媒体はほかにありません。芸術表現のひとつとして、文明の一部として、私は本に深い敬意を抱いています。だからこそ、人生をかけて本の限界に挑み、その進化に貢献していきたいのです」
彼女の本が初めて脚光を浴びたのは1988年。前年度に発行された切手の誕生プロセスを紹介した『ダッチスタンプブック1987/1988』は、イルマ自身が構成を手掛け、100%アナログな手法でデザインしたもの。この本で、彼女はオランダのベストブックデザイン賞を受賞した。
「コンピューター普及以前のアナログの時代に、時間と手間がかかるスロープロセスでブックデザインを始めたことは幸運でした」と当時を振り返る彼女は、いまもなお、本全体を実物大でデザインすることから制作を始める。しばしば複数のダミーをつくり、モニターではなく「紙を束ねた立体物」を前に、手を使って思考するのだ。
インターネットの時代が到来した96年、イルマの名前を世界に轟かせる名作が誕生した。全2136ページ、重量3.5㎏の大作『SHVブック』だ。創立100周年を迎えたオランダの一族企業SHVホールディングスが、社史と企業理念を未来の株主に継承するためにつくられた本である。依頼主のSHV社長が出した唯一の条件は、これから500年存在し得るものであること。それを満たせば、本である必要はなかった。媒体も形状も内容も、共同制作者で美術史家のヨハン・パインアッペルと、イルマのふたりに一任された。
本というものは、未来に託す「現在の知」
ブックデザインの名作と名高い『SHVブック』(1996)。全2136ページ。ページ番号も目次もない代わりに、赤いスピンが8本ついている。ネットをブラウズするように、ページを往き来しながら読む際の「ブックマーク」の役割を果たす。側面の小口にも趣向を凝らしたデザインが。
「まだDVDすらなかった時代。当初、最新の媒体といわれたCD−ROMも検討しました。でも調べてみると、技術の進化は目まぐるしく、瞬く間に過去の遺物となり再生不能になる。500年後にも確実に読み取ることができる媒体は、本だけだと確信しました」
企業と一族のアーカイブ画像や文章が収録されたものだが、膨大なページ数にもかかわらず、ノンブルや目次は用意されていない。
「探しているものは見つからず、予期せぬ発見は山ほどある。そんなインターネット的な、ブラウズ(偶発性を伴う探索行為)することを狙った本」と、イルマはコンセプトを説明。それは、既存の記念本の概念を覆しただけではなく、最終ページに向かって直線的に読み進む、読書の概念をも刷新するものだった。完成から30年経ったいまもその新鮮さが色褪せないのは、本という媒体固有の普遍性ゆえだと彼女は語る。
「本は、ほかのメディアに比べて進化が遅い。それでも、新しく生まれるテクノロジーが、新たな視点で本のあり方を見つめる機会を与えてくれます。SHVブックは、インターネットの存在がなければ生まれ得なかった作品です」
日進月歩のテクノロジーの発展は、媒体としての本の特性を際立たせ、その物質性と、読書という行為の身体性への回帰を、逆説的に誘引する。本の長い歴史を研究し、その未来を自らの課題とするイルマは、本はいま、再評価され始めていると見ている。
「印刷された文字には、モニター上のものとはまったく異なるセンセーションがあります。インクの匂い、紙の手触りやそれが擦れ合う音、物質としての重量といった身体性によるものです。ネット上の断片的で、身体的リアリティのない高速コミュニケーションは、人を受け身にする。それに対して、本は考えるための遅さを与え、本という物体に働きかける身体性と能動性を呼び起こします」
2018年に制作した『ヴィクター&ロルフ:カバーカバー』は、そんな物質性や身体性を極限まで具現化した作品と言える。ファッションデザイナーのデュオ、ヴィクター&ロルフが表現し続けてきた実験的な世界観を、印刷物で再構築した一冊だ。タイトルが示唆するように、全ページがカバーで、8ページの観音開き仕様。本体サイズは37×29㎝、左右ページを全展開すると幅は1mにもなる。折りたたまれたページを展開していくたびに、新たなビジュアルの組み合わせが現れるという刺激的な仕掛けが、見る者の能動性と身体性にスイッチを入れる。いま改めて手に取ると、この本は、AIに駆られ、身体的リアリティを欠いた世界で、人々が再び身体を介した知覚を渇望する近未来へのマニフェストにすら見える。
ある時点でのアイデアや思想を、綴じて固定する「本」。それは、未来における参照点として「現在の知」を綴じるものでもある。求めるべきブックデザインの解は、多くの場合、既にコンテンツの中に潜んでいるとイルマは言う。そこにフォーカスすることで、ブックデザインは必然の結果として現れてくる。だから彼女は、コンテンツのディレクションや編集にも深く携わる。そのためには、依頼者との対等な信頼関係も不可欠だ。本づくりとは、協働による創造。相乗効果なくしてエネルギーは生まれず、エネルギーなくして成功はない。それが、コンテンツと不可分な固有性を持った本をつくり続けるブックデザイナー、イルマ・ボームの信念だ。
イルマがブックデザインの道に進むきっかけとなった、小説家ヤン・ウォルカーズの本。画家を目指して入学した美大のある授業で、この本を紹介しながらブックデザインとはなにかを説明された時、自分が進む道はこれだと確信した。イルマのスタジオ内で展示している。
スタジオは少人数のチームで運営されており、こぢんまりしている。イルマは造本装丁だけではなく、コンテンツのディレクションや編集もトータルで手掛ける。
本棚には日本のマンガや、韓国の本の姿も。インスピレーション源として、行った先々の国で収集しているのだろうか。
デザインの際に重要な、大小さまざまな束見本が並ぶ。イルマにとってブックデザインとは、量産される工業製品としての本をデザインすること。本とは、無限に複製ができ、情報を世界に広く伝播させることができる民主的なもの。
ずらりと並ぶ本の写真は、これからまとめられる作品集のため。
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いまもなお進化を続ける、奇才の本づくり
イルマ・ボームの本づくりは、まさに時代を本に綴じ込むような行為であり、その制作意欲は、約40年のキャリアを経たいまもとどまることを知らない。ここからは、近年に制作された作品の中から、傑作と言える5冊を紹介しよう。
オランダのファッションデザイナーデュオ、ヴィクター&ロルフの作品集
『Viktor & Rolf : Cover Cover』(2018)

全ページがカバーで観音開き仕様という他に類を見ない造本装丁。内側から外に向けて紙は薄くなる。ピンクの糸での綴じは機械ではできず手作業。ページを全展開すると幅は1mに。サイズ:37×29㎝
建築家レム・コールハース率いるAMO/OMAによる展覧会のために制作された
『Diagrams』(2025)


図解という視覚的手法を通じ、情報がどのように誤解や操作を生むかを検証。収録された12世紀から現代までの300点を超える資料が、科学や文化、政治の文脈における図解の役割を捉える。サイズ:22×17㎝
アムステルダムのEyeフィルムミュージアムで2026年2月まで開催されている、ティルダ・スウィントンの展覧会の公式カタログ
『Tilda Swinton Ongoing』(2025)


俳優以外にも幅広い分野で活躍するティルダの活動を紹介。タイトルは表紙にTilda、背表紙にSwinton Ongoingと分割して記載。サイズ:30,9×24,1㎝
グリメルスホルス財団のプライベートアートコレクションの作品を収録した
『The Grimmerschors collection』(2015)

一見すると真っ白なページが続くが、それらは観音開きになっており、ページ内側に美術品の画像を印刷。プライベートコレクションを隠されたものとして表現した一冊。サイズ:29×23㎝
フランスの自動車メーカー・ルノーのために、企業哲学やイメージを視覚的に表現した
『Renault = Présent』(2016)

車を表現する本であることから、素材も非常に薄いアルミニウム製という金属製の本。金属上に印刷するという、物理的な質感や視覚効果がきわめて実験的な作品。サイズ:24×17㎝

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