独自の世界観と作家性で世界中のファンを魅了し続ける映画監督・押井守が、Aだと思っていたら実はBやMやZだったという“映画の裏切り”を紐解いていく連載「裏切り映画の愉しみ方」。第4回は、日本を代表する巨匠・今村昌平監督によるドキュメンタリー映画『人間蒸発』(67)。前編で映画としての“破綻”を解説した押井監督が、後編ではより今村監督の作家性へと踏み込んでいく。

第4回後編では今村昌平監督の作家性、“血縁”というテーマに迫る第4回後編では今村昌平監督の作家性、“血縁”というテーマに迫る[c]EVERETT/AFLO

「今村昌平は観察者。人間を昆虫のように撮っている」

――今月の押井さんの「裏切り映画の愉しみ方」は今村昌平の『人間蒸発』について語っていただいています。後編になる今回はもっと今村昌平に踏み込んだお話になりそうですが…。

「今村昌平が『人間蒸発』でやった詐術は監督としては当たり前のことではある。だた、普通はあそこまで開き直ってやらないだけ。今村昌平だからこそできたんです」

カンヌ国際映画祭で2度の最高賞を受賞した今村昌平監督(写真は1998年撮影)カンヌ国際映画祭で2度の最高賞を受賞した今村昌平監督(写真は1998年撮影)[c]EVERETT/AFLO

――あの押井さん、それはどの部分のことですか?

「人間はみんな同じ、というふうにしか見てないというところですよ。彼は『人間蒸発』でそれを方法化して、映画にしてみようとした。ほかの監督がそれをやっちゃうと干される危険性があるけどね」

――今村昌平にとってもそれは初めての試みだったわけですね?

「そうです。彼の映画は基本、達者な役者をつかって撮るというもの。『復讐するは我にあり』(79)なんて緒形拳、三國連太郎、小川真由美等、一流ばかり。時々泥臭い演出が顔を出して、緒形拳が小川真由美を絞め殺す時、彼女が失禁する。それもとんでもない量を。女優だからといって手加減しないんです」

――押井さん、今村昌平のファンなんですか?

「私のつくれない映画をつくっている監督だよね。私は彼が撮るような映画を撮ってみたいとは一度も思ったことはないし、撮れるとも思わない。私は基本、きれいなものを見たいけれど、彼はそんなこと微塵も思っていないし、女優をきれいに撮ろうとも思っていない。なぜなら、生の人間しか興味がないからです。女は『赤い殺意』(64)の春川ますみのようにどーんとしていて、男は姑息で卑劣、軟弱でいい加減。どーんとしたおばちゃんの腰にしがみついているだけ。それが日本人だといいたいんです。そういう監督はいないし、だからこそ本当におもしろいと思うんだよ」

――“生”の人間ですか。

「今村昌平は観察者。だから人間を昆虫のように撮っている。自作には必ず動物を出すんだけど、それは哺乳類じゃなく魚だったり虫だったりする。私が聞いたところによると、現場で主人公の女優に“ウサギ”とか“イヌ”とかの通称をつけていたらしいよ。女優だけにつける。それは動物として愛すべき存在だからそう呼んでいたいんじゃないかな。それが今村昌平の人間観。人間も動物の一種に過ぎない。社会的地位や容姿に価値観はなく、あくまで生き物として観察し、生き物として愛情を注いでいる。それ以外の部分でなにかを付け加えるということも一切しない。

そういうふうに人間を見ている、今村昌平のタイプって系譜がないんだよ。一番弟子の浦山桐郎は『私が棄てた女』(69)等を撮って若くして(54歳)亡くなってしまったし。強いて言えば三池(崇史)さんかなあ。彼は今村昌平の助監(督)だったこともあるから。三池さんはリアリズムというか人間に対する容赦のなさが今村ゆずりなんだけど、女にまったく興味がない。女性が登場してもひどい扱いばかりだよね。男は驚くほど色っぽく撮るのにさ。それが三池さんの個性というか独特なところ」

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