わたしの意見では、ヴィクターの傲慢さは現代でも非常にありふれています。自分を被害者だと思い込む暴君のような存在です。しかし、それは古代からずっと見られてきたことでもあります。

──つまりどのような人物のことでしょうか?

政治家やシリコンバレーのテックブロたちがそうです。芸術家や映画監督も含まれます。まるでそれが属性であるかのように、暴君を“確信のかたち”として崇めることです。わたしが最も敬服するのは、疑念に満ちた人々です。確信と自己被害意識は、多くの場合セットになっているものです。

──「神のような存在になる」みたいな話を考えると、AIも思い浮かびます。それこそ「生まれることを望んでいなかった存在」と言えるかもしれません。あなたはAIに批判的ですが、AIの創造者とヴィクターに類似点を見ますか?

(この映画では)そういう点を提示したいと思っていませんでした。工学、化学、生物学、数学での(AIの)使い道は理解していますし、組み合わせや応用の問題だと思います。しかし芸術においては、誰も望んでいなかったことです。誰も手を挙げて「これ(AI)を発明できますか?」とは言っていないでしょう。

──Soraも、誰も求めていなかったということですね。

しかし、いまのところ AIが社会の中で本当の意味で「境界線」を越えたとは言えません。問題なのは、つくる側ではなく、それを消費する側です。いずれにせよ、代償は伴います。わたしはビートルズやボブ・ディランの曲になら、喜んで4.99ドルを払います。しかし、AIがつくった曲に4.99ドルを払う人はいるのでしょうか。その壁が越えられたとき、初めて次の段階が見えてくるはずです。

──本当にそうなると思いますか?

わかりません。わたしは61歳なので、その心配をする必要がないのは非常にありがたいです。運がよければ、(AI芸術が)定着する前に死ねるでしょう。この話題以外についてなら、何でも話したいと思っています。

──では話題を変えます。あなたは最近、“父の息子”としてではなく“父親”になってこの作品をつくれたことをうれしく思うと話していました。それについて詳しく教えていただけますか。

そうですね、それは年月を重ねる中でようやく分かってきたことです。ある年齢になると、人は「許す」という力について考え始めるのだと思います。大人にならなければ、自分の父親がただのひとりの人間であることを理解できません。母親もまた同じで、彼女自身の人生を持つひとりの女性です。

彼らも不完全な存在であり、それぞれに悲劇や歴史を抱えている。しかし、子どもにとって両親は「巨大な影」のような圧倒的な存在に見えるものです。年を重ねるにつれ、それが職業や役割ではなく、人生に押し付けられたものだったと理解するようになります。そして、いつか痛みの連鎖を自分のところで止めることができる瞬間が訪れるのです。

──あなたは明らかにシェリーを非常に尊敬しているとわかります。彼女は生前、その才能に見合った評価を受けられなかったと感じますか?『フランケンシュタイン』は父と子の物語であるにもかかわらず、女性によって書かれたことは示唆的です。

まず第一に、「父親」という象徴は小説の中ではあまり前面には出てきませんが、彼女のほかの作品ではよく扱われているテーマです。彼女が書いた最後の2作の小説では、ほとんど敵対的とも言える暴君的な父親像が描かれています。彼女と父親との関係は、少なくとも緊張したものでした。

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