映画作りをテーマにした映画はたいてい面白い。古くはフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』から、近年の『サマーフィルムにのって』、『侍タイムスリッパー』など枚挙に暇がない。夢、希望、衝突、挫折……映画づくりには人生のいろいろな要素がギュッと詰まっているからだろう。

 CSホームドラマチャンネルで放送される小田和正監督の映画『緑の街』も、そんな一本だ。

 1997年に制作、上映された『緑の街』は、日本武道館で人気アーティスト・夏目草介(渡部篤郎)が満員の観客の前で歌い上げる場面から始まる。その打ち上げで草介は突如、映画制作を宣言。驚くスタッフ(大江千里)や事務所社長(津川雅彦)の反対を押し切り、自ら書き上げた脚本をもとに映画制作の準備に入る。

 軽薄な映画プロデューサー(大友康平)が押し付けてくる女優を拒絶し、意中の元女優・信子(中島ひろ子)を主演に据えて映画はクランクイン。温厚な撮影監督(尾藤イサオ)や個性的な照明監督(泉谷しげる)、実直な助監督(林泰文)らとともに撮影は進んでいく。

 しかし、アーティスト気質でも映画に関しては素人の草介とプロのスタッフの間には徐々に摩擦が生じはじめ、ついに乱闘まで勃発。草介は孤立し、映画制作は完全に頓挫してしまう。はたして映画は完成するのか――。

 小田和正が監督・脚本・音楽を務めた第二弾作品『緑の街』のあらすじを見て、ピンと来る人もいるかもしれない。これは監督デビュー作『いつか どこかで』(1992年)で小田自身が経験したことを題材にした映画なのだ。

 本作が制作された経緯と背景を振り返っておこう。すでに人気アーティストの座を確立していた小田にとって、映画を作ることは長年の夢だった。シングル「ラブ・ストーリーは突然に」の250万枚を超える爆発的ヒットを記録したことも追い風になり、映画監督デビューが決まる。

 “異業種監督ブーム”も小田を後押しした。当時は北野武の『その男、凶暴につき』(1989年)の成功を皮切りに、停滞していた日本映画に新風を吹き込むため、多くの異業種監督が起用された。なかでも注目されたのが桑田佳祐の『稲村ジェーン』(1991年)であり、小田も大いに刺激を受けて『いつか どこかで』を監督する。

 しかし、撮影現場ではスタッフとの衝突が相次いだという。小田は当時のことをこう振り返っている。

「現場のスタッフ、映画のスタッフというのは、みなさんなかなか個性の強い、思い入れの強い人たちで、そういう人たちが骨身を削ってつきあってくれるわけです。彼らにしたら、こいつ、何もないな、みたいなことだったんだろうね。それがつらかった」(『時は待ってくれない』PHP文庫)

 小田は撮影現場を「戦いだった」と語っている。その上、苦労して作り上げた作品は、非常に厳しい評価を受けた。小田は「自分の人格をまったく否定された」と感じたという。音にこだわったつもりだったのに、当時の劇場はまだ充分な設備も無く、思うようにいかないことにも失望した。

 それでも小田は挽回のチャンスをうかがっていた。そんな折、意外な作品が好評を得る。小田が旧知のプロゴルファー・青木功のキャディを務める様子を追ったドキュメンタリー『キャディ 青木功/小田和正~怒られて、励まされて、54ホール』だ。失敗して青木に叱られる小田の姿が新鮮に受け止められたのだ。

小田和正の“夢と冒険”の幻のドキュメンタリー 『キャディ 青木功/小田和正』は必見!
CSホームドラマチャンネルでスペシャルドキュメンタリー番組『キャディ 青木功/小田和正~怒られて、励まされて、54ホール』が放送…

リアルサウンド 映画部

 自分が実際に経験した失敗やドタバタを見せれば、お客さんは面白がってくれるのではないか。それならば等身大の自分の姿をさらけ出してしまおう。そう考えた小田は、映画一作目の失敗そのものを映画の題材にしようと決意する。それが『緑の街』だった。

 キャストには20代だった渡部篤郎、『櫻の園』(1990年)で脚光を浴びた中島ひろ子、旧知の泉谷しげるをはじめ、泉谷が発起人のチャリティコンサート「日本をすくえ!」で知り合った大江千里、大友康平らが名を連ねた。後に自らも異業種監督としてデビューする武田鉄矢が特別出演、『いつか どこかで』に主演した時任三郎が友情出演を果たしている。同作に出演した津川雅彦も重病を押して出演した。無名時代の大森南朋がスタッフの1人として出演しているのでチェックしてほしい。

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