世界から最も注目される日本人映画監督の1人、三宅唱の最新作は、つげ義春の短編漫画2作を1編の物語に紡いだ味わい深い逸品。8月にスイスで開催されたロカルノ国際映画祭で最高賞の金豹(ひょう)賞に輝いた。困難を乗り越えて得た映画作りの新たな喜びを監督が語る。
つげ義春(1937-)は「貸本漫画」隆盛の1955年に本格的デビューした日本漫画界の“生ける伝説”。60年代後半、「月刊漫画ガロ」誌を主戦場に珠玉の短編を次々と発表し、一世を風靡(ふうび)した。88年以降、新作漫画は出していないが、いまなお新しい読者を獲得し、国や世代を超えたさまざまな分野のアーティストやクリエイターに影響を与え続けている。
厭世(えんせい)感と飄逸(ひょういつ)なユーモアが同居し、淡々とした語り口ながら人間の内面を繊細に描く作風は、私小説の名作にも比肩する高い文学性と作家性を感じさせる。そんな独特の魅力を放つ“つげワールド”には、これまで何人もの映像作家が挑んできた。

映画『旅と日々』。脚本家の李(シム・ウンギョン)は雪の降る町へと旅立つ © 2025『旅と日々』製作委員会
今回そのリストに加わるのは、『ケイコ 目を澄ませて』(2022)や『夜明けのすべて』(24)で数々の賞に輝いた三宅唱。つげ作品との親和性という点では、やや意外と言えなくもない。監督のまなざしに宿る天性の温かさ、物語に流れるポジティブな力強さは、つげ作品に漂う“わびしさ”とはやや異質に感じられるからだ。だが、人物の微細な感情の揺れをシンプルながら丁寧にとらえ、リアリティーのある人間ドラマを作り上げてきた点で、両者に共通するものはありそうだ。
実際、三宅にはつげ作品への強い思い入れがあったという。出会いは古く、大学時代にまでさかのぼる。
「先輩が『三宅には分かんないと思うけど』と前置きしつつ教えてくれた記憶があります。そう言われたら俺だってと思いますよね。ちょうど山下敦弘監督の『リアリズムの宿』(03)を見たのと同時期でした。そこから少しずつ買い集めていって、本棚には常につげさんの漫画がありました」

映画『旅と日々』。前半はつげ義春の『海辺の叙景』がベースに © 2025『旅と日々』製作委員会
漫画の“再現”とは異なるアプローチ
映画化の企画を持ちかけられたのは、コロナ禍が本格化した2020年夏。三宅は『ケイコ 目を澄ませて』の脚本を進めていた頃で、『夜明けのすべて』に至っては、まだ企画が動き出してすらいなかった。企画が具体化するまでには、紆余(うよ)曲折あり、挫折もしかけたと振り返る。
「つげさんの漫画を読んでどの作品にしようか考えるだけでなく、たくさんのエッセイや対談、他の人が書いた評論も読みながら、長い時間をかけてつげさんの世界に入っていきました」
つげは貸本漫画時代を含めると、幅広いテーマに挑んだ漫画家だが、代表作の多くは旅先で出会う人と出来事を描いたものだ。

「実は最初、“旅もの”以外の作品を選ぼうと思っていました。『リアリズムの宿』という傑作がすでにありますからね。ただ、家族やカップルの話なら、竹中直人監督の『無能の人』(1991)がある。いったい自分には何ができるのか、すごく悩みました」
映画やテレビで映像化されたつげ漫画は、これまでに少なくとも15作。先行する作品を意識しないわけにはいかなかったが、最終的には素直に「傑作」と思える好きな2作を選んだ。
それが『海辺の叙景』(「ガロ」67年9月号)と『ほんやら洞のべんさん』(同68年6月号)だ。前者は若い男女が海辺で出会う夏の物語、後者は漫画家が雪深い地方の寂れた宿屋で宿の主人と二人きりで過ごす冬の物語。それぞれ43ページ、27ページと短い。登場人物も舞台もまったく異なる2つの短編漫画をどうやって長編映画にするか、思案をめぐらせた。
「誤解を恐れずに言えば、映画化の意味を見失っていた時期もありました。そもそも漫画を原作に映画を撮るのは難しいと考えていて、ずっと自分はやらないだろうと思っていた。特にこの2作は完成度が高く、中途半端な再現、単なる模倣から抜け切れないのではないかという不安がありました」

夏男(髙田万作)は海辺で渚(河合優実)と出会う © 2025『旅と日々』製作委員会
三宅のアプローチには、これまで“つげワールド”に挑んだ映像作家たちとは、かなり質の異なる敬意が感じられる。繰り返し意識したのは、“再現”の不可能性だ。
「つげさんが漫画表現において、どう新しいものを追求していたか、この仕事を通して味わいたいし、それに迫るものが作れたらいいなと思っていました。つげさんが撮った写真で分かりますが、漫画に登場する寂れた温泉宿や漁村は、当時すでに消えつつありました。人の生活は時代とともに変わっていく。単純にどうにも再現しようがないなと」
つげ作品の特徴である“昭和感”を追うことをせず、時代設定を現代にした潔さも三宅監督らしいと言えるかもしれない。
「時代性もとても大事だとは思います。僕にも時代劇を撮る可能性はありますし、決して今の時代にこだわっているわけではありません。でも、どこか地球の裏側で、誰かがつげさんの漫画を手に取り、自分の話のように感動することもあるんじゃないかと想像します。つげさんの漫画には、国籍や時代と関係のないところにもとてつもない魅力があるのではないかと」
主人公を韓国から来た女性に変えた経緯
企画が動き出してから長い間、脚本の執筆に行き詰まった時期があったと明かす。
「そんな時、シム・ウンギョンさんとの出会いがふと頭に浮かびました。彼女の印象が非常に鮮烈だった。もし彼女が演じたら、と想像するとすごくワクワクして、そこから一気に筆が進み始めました」
シム・ウンギョンは日韓で活躍する韓国人俳優。彼女を想定しながら、韓国から日本にやって来た女性脚本家を主人公に、物語の設定を大きく書き直すことになった。
「ただ、中心には僕がつげさんから受け取ったキャラクターがあったことに変わりはありません。もちろん、ウンギョンさんに演じてもらうことが決まってから、彼女とやりとりする中で、少しずつ膨らんでいった部分はあります」

李は雪深い山奥でべん造(堤真一)が細々と営むおんぼろ宿にたどり着く © 2025『旅と日々』製作委員会
映画『旅と日々』の主人公・李(イ)は、つげ義春の『海辺の叙景』を原作に映画の脚本を書く。渚(河合優実)と夏男(髙田万作)が海辺で出会う物語は、“劇中劇”としてスクリーンに上映され、李もこれを見ている。だが脚本家は、圧倒的な映像を前に、言葉の限界を感じてしまったようだ。
自分が言葉という檻(おり)の中にいると感じた李は、そこから束の間でも抜け出すために、人から譲られたカメラを手に、ふと旅に出ようと思いつく。その場面の李の独白は、旅について語ったつげの心情を読み解きながら、三宅が自身の感覚と混ぜ合わせるように書いたものだという。

旅先で迎える朝は新しさに満ちている © 2025『旅と日々』製作委員会
「この部分を書いたのは夏と冬の撮影を終えてからです。最初から分かっていたのではなく、撮影の間に考え続けたことでした。つげさんの漫画を映画化する、そしてキャストやスタッフと働く、その中で最終的に『この映画はこういう話なんだな』とつかんだものが、あのモノローグに反映されていると思います」
旅先だった日本が生活の場になり、新鮮さを見失いかけた李が、物語のテーマを背負うように新たな旅に出る。彼女を乗せた列車がトンネルを抜けた先は一面の雪景色だった。映画はそこから『ほんやら洞のべんさん』の世界へゆるやかに滑り込んでいく。彼女がそこで何を発見するのか、観客も一緒に見つめていくことになる。

© 2025『旅と日々』製作委員会
長い時間をかけてつげ作品と対峙した三宅は、脚本を書きながら噛みしめた言葉の限界を、主人公とともに旅して、音と映像で超えようとしたのかもしれない。監督は、つげが入念に描き込んだ自然の風景や空模様を丁寧に捉えたかったと語る。
「時に不気味さを感じさせる海辺の風景。物語が進む中で天候が変わっていく繊細な描写。読めば読むほど、その“画圧”と言うんでしょうか、とてつもない表現力に刺激を受けました。映画の冒頭、主人公が脚本を書く──『停まっている車の後部座席で女が起き上がる』。文字ではそれだけなのですが、それが映像になった瞬間、波の音が聞こえ、雲が流れ、女性の肉感が伝わってくる。言葉にし難いたくさんのことを映画は捉えることができるわけです。そこに驚く。夜になった、風が吹いた、雪が降ってきた、そこでまた驚く。それをずっと繰り返していくのがこの映画の挑戦でした」

© 2025『旅と日々』製作委員会
初めて出会う人と風景を前に生まれる小さな感動を連なりにした映画。その題に『旅と日々』ほどふさわしいものはないに違いない。
「映画を撮ることは、最初は何もかもが新しい。驚きもあれば、戸惑いもあるし、人を撮るという恐怖もある。ところがそれにも徐々に慣れていってしまいます。慣れれば退屈してくる。それをもう一度、映画を初めて撮った時、あるいは初めて見た時のように、驚いたり、戸惑ったりできたら、この仕事をする喜び、生きている実感につながっていくのではないか、そんな風に考えたのだと思います」

撮影:五十嵐一晴
取材・文:松本卓也(ニッポンドットコム)

© 2025『旅と日々』製作委員会
作品情報
出演:シム・ウンギョン 堤 真一 河合 優実 髙田 万作 佐野 史郎
監督・脚本:三宅 唱
原作:つげ義春「海辺の叙景」「ほんやら洞のべんさん」
製作:映画『旅と日々』製作委員会
製作幹事:ビターズ・エンド、カルチュア・エンタテインメント
企画・プロデュース:セディックインターナショナル
制作プロダクション:ザフール
配給:ビターズ・エンド
製作年:2025年
製作国:日本
上映時間:89分
公式サイト:www.bitters.co.jp/tabitohibi
全国大ヒット上映中
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