三重県松阪市の老舗駅弁屋「あら竹」社長の新竹浩子さんは、大河ドラマにも出演した「元女優」というユニークな経歴を持つ。女優の夢をあきらめ父を支えようと家業に加わった浩子さんは、BSEの風評被害で窮地に陥ったあら竹をどのように救ったのか。フリーライターのみつはらまりこさんがリポートする――。(前編/全2回)

撮影=みつはらまりこ
「あら竹」社長の新竹浩子さん
早朝、愛子さまのために作った駅弁
2024年3月27日、朝4時半。
三重県松阪市の駅弁屋「あら竹」の調理場に、6代目社長の新竹浩子さんは立っていた。この日、彼女は天皇陛下の長女である愛子さまとその御一行が近鉄電車内で食べる駅弁「モー太郎弁当」8個、「特撰牛肉弁当」2個を作った。
5時に米を炊きはじめる。モー太郎弁当は、三重県産の調味料を使用したあら竹オリジナルのタレで黒毛和牛をじっくり炊く。炊きあがった肉を取り出し、再びタレを絡める。牛の容器にご飯を敷き詰め、照りと艶のある肉を、ふわっと広げて盛る。
6時15分、3カ月前からの依頼で浩子さんが東京へ直接届けなければいけない駅弁20個を含め、計30個の駅弁が完成。愛子さま御一行への配達は、弟で長男の信哉さんに託した。
「駅弁は、お母さんが作るお弁当。100人いれば100通りの『ふるさと』があるんです」
元女優という異色の経歴を持つ6代目社長。その経営哲学は、家業を嫌って東京へ出て、女優として挫折し、雑用係から社長になるというユニークなキャリアから生まれた。
弟が4人、長女はお呼びじゃなかった
駅弁あら竹の店舗は、新竹家の自宅兼店舗。1階は調理場、事務所、売店があり、2階が住居だ。祖母と母は一人娘で、2代続けて養子を迎えて家業を継いできた。駅弁は本店や松阪駅構内の売店で販売するほか、電話注文があれば駅のホームまで届ける。列車の停車時間に合わせて出向き、手渡す。このサービスは今も続いている。

七五三で伊勢神宮にお参りする7歳の浩子さん(手前)、母、祖母、弟たち(写真提供=駅弁のあら竹)
浩子さんは新竹家の長女として生まれ、翌年には年子で信哉さんが生まれる。その後も男の子が3人続いた。
「男の子が4人も生まれたから、新竹家の継承は安泰。それもあって、父や母は私に全然興味がなくって」
小学校に上がる前から駅弁の紐かけが仕事になり、夏休みの繁忙期には1日に200個、300個とこなした。中学生になると店頭に立ち、駅弁とともに三重県を代表する「赤福」を売った。当時、あら竹は松阪市で唯一の赤福販売店。「赤福にまつわる物語を添えて売ると、お客さんは喜んで買っていかれたのを覚えています」
商品の背景を丁寧に語り、相手の心に響く言葉を選ぶ。これが後の広報や商品開発の原点となる。
