1965年、東京の喫茶店で働くサチは恋人からプロポーズされる。喜んだのも束の間、残りの性別移行手術(当時の呼称は性転換手術)を執刀するはずだった医師が逮捕されてしまう。優生保護法(当時の呼称)違反という奇妙な容疑だが、狙いは「ブルーボーイ(性別移行手術を受けた、戸籍が男性のまま女性として暮らす人々の当時の呼称)」を排除するためだった。手術の望みを繋ぐため、サチは証言台に立つことを決意する。しかしそれによって、彼女の人生は根底から揺るがされてしまう。

 映画『ブルーボーイ事件』は、日本の性別移行手術を事実上約30年遅滞させた同名の事件を脚色して描く。1965年、オリンピック景気に沸く東京では、一方で「街の浄化」を名目にセックスワーカーが相次いで摘発されていた。しかし、戸籍が男性のブルーボーイは売春防止法で裁けない。そこで警察は「生殖を不能にする手術をして優生保護法に違反した」として、性別移行手術の執刀医を逮捕。有罪に持ち込むことで、それ以降の手術を極めて困難なものにした(性別移行手術が不可能になった、という誤解の蔓延もその一因となった)。

 つまり目的は売春の摘発であり、性別移行手術への介入は二の次だった。一方で、手術が困難になることでトランスの人々が被る損失など一顧だにせず、セックスワークを成立させているそもそもの構造さえ無視している。

 その実話を背景に、本作は当時のトランス女性たちの物語を語る。メイやアー子がブルーボーイであることを公表して暮らす一方で、サチは公表せず、一女性として平穏に暮らしたいと願っている。性的マイノリティの中でも、特にトランス女性は「夜の街」と関連づけられやすい。しかし現実には、サチのように社会に溶け込んで暮らす当事者も少なくないのだ。

 サチは性別移行手術を最後まで済ませていたら、証言台に立つことはなかっただろう。差別や偏見に晒されず、平穏に暮らせたはずだ。しかしブルーボーイ事件がそれを阻んだ。その点でもこれは単に性別移行手術の是非を問う裁判ではなかった。ひとりの人間の「幸福」を制度が一方的に奪う、その暴力の是非を問う裁判だった(劇中の裁判でも、日本国憲法第13条「幸福追求権」が争点の一つとなっている)。

 その後の日本での性別移行手術を30年近く遅滞させたブルーボーイ事件の結末は、ハッピーエンドとは程遠いものに思える。しかし飯塚花笑監督はそこにも希望を見出し、次のように語る。

 「この裁判は結局のところ優生保護法違反だったのでなく、ちゃんと適切な手順を踏んで手術すべきだった、という判決です。その反省が現代の(性別移行手術の)ガイドラインに引き継がれています。ですからブルーボーイ事件がなかったら、逆にここまで(現在のトランス医療の水準にまで)進まなかったかもしれません」

 逆境の中にもチャンスや可能性を見出そうとする、この飯塚監督の姿勢は、性的マイノリティに対する攻撃がまだまだ激しい現代において力強い。札幌家庭裁判所が、性同一性障害特例法の通称5号要件(性別移行手術を性別変更の要件とするもの)に違憲判決を出した(2025年9月19日判決)。他の要件についても各地で違憲判決が積み重なっており、手術自体の必要性が疑問視されつつある。この流れはブルーボーイ事件の延長線上にあると言えるはずだ。60年前の当事者たちの、苦痛と絶望と闘争があってこその変化だと覚えておきたい。その点で本作は、貴重な歴史的資料であるだけでなく、希望が時代を越えて引き継がれていくことを証明している。

(ライター 河島文成)

11月14日(金)全国公開
公式サイト:https://blueboy-movie.jp/
配給:日活/KDDI

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