電子音楽家エム・セイジ(M. Sage)の新作『Tender / Wading』を再生した瞬間、空気が不意に変わる。音が部屋に広がるというより、空間そのものが静かに揺らぐようだ。
〈RVNG Intl.〉からリリースされた本作は、ノイズでもビートでもなく、もっと微細な「振動」をとらえた電子音楽といえる。
たとえば、部屋の湿度や温度までもが変わっていくような、繊細な空気の動き。生楽器、環境音、電子音が優雅に混ざり合い、生成する。そのアンビエント作品としての完成度は極めて高い。
タイトルの「tender(優しさ)」と「wading(浅瀬を歩くこと)」という言葉の通り、この音楽には、聴くことと触れることのあいだにある微かな「揺らぎ」が宿っている。電子音が「冷たさ」ではなく「ぬくもり」として立ち上がる。エム・セイジはその逆説の中で、聴覚と身体の境界をなぞるように音を紡いでいく。電子音楽でここまで風のような柔らかさを感じさせる作品は、そう多くない。まさに「エレクトロニック・オーガニック」という表現がぴったりなアルバムだ。
エム・セイジは、本名をマシュー・セイジという。彼はコロラド州デンバーを拠点に活動する電子音楽家/音響作家である。アンビエント・ジャズ・カルテット Fuubutsushi(日本語で風物詩!)のメンバーであり、自身のレーベル〈Patient Sounds Intl.〉を主宰していた(現在はクローズしている)。ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ホイットニー美術館、シカゴ美術館といった現代美術の現場でサウンドデザインやインスタレーションを手がけてきたことからも、彼の創作が「アートと生活」「音と空間」のあいだを探る実践であることがわかる。
代表作『A Singular Continent』(2014)や『Paradise Crick』(2020)では、自然音や環境ノイズ、アコースティック楽器を繊細に取り込みながら、時間の流れをゆるやかに変えてしまうようなアンビエント・テクスチャーを提示してきた。そこからさらに進化した本作『Tender / Wading』は、「静けさ」と「場所の記憶」に深く根ざした作品として仕上がっていた。録音には1910年代製のアップライト・ピアノが使用されている。エレクトロニクスの透明な層と古いピアノの息づかいが重なり、音が「鳴る」というより「立ちのぼる」ような印象を残す。
アルバム全体を通して、音の変化は微細で穏やか。じっくりと音に身を浸していると、時間の流れがゆるやかに変わっていくような感覚を覚えた。まずオープニングの “The Garden Spot” から2曲目 “Witch Grass” へと続く序盤では、生楽器と電子音が優雅に交錯し、本作のトーンを提示する。
続く3曲目 “Chinook” ではアンビエントな音空間に管楽器のような響きが滲み、4曲目 “Wading the Plain” では軽やかなグリッチを導入部に、ピアノと管楽器のアンサンブルが展開している。環境音や電子音が重なり、いずれも「アンビエント・ジャズ」と呼ぶにふさわしい音世界を鳴らしている。“Chinook” にはどこか雅楽的なムードも漂い、短いながらも印象的な一曲だ。
その流れを受けた5曲目 “Open Space Properties” は、アルバムのハイライトである。リズムが加わることで音の重心が増し、より濃密で深いアンビエンス生成されている。全8分40秒に及ぶ大曲で、本作を象徴する一曲だ。6曲目 “Telegraph Weed Waltz” では、鳥の鳴き声やゆったりした管楽器のフレーズ、ピアノの響きが夕暮れのような彩りを添えてくれる。7曲目 “Fracking Starlite” では霧のような電子音が空間を包み込み、夢と現実のあいだを漂うような静けさが訪れるだろう。
そして8曲目 “Field House Deer (Mice)” からラスト “Tender of Land” にかけては、霞んだピアノの音が遠くから滲み出し、時間が溶けていくように流れていく。どこかフリップ&イーノを思わせる美しいサウンドスケープだ。
以上、全9曲。どの曲もノスタルジアとオーガニックな感触が溶け合い、聴く空間そのものを静かに変化させていく。エム・セイジの音は、どこかへ連れ出すのではなく、いまいる場所を少しだけ変えてしまうのだ。
本作は「牧歌的なフォーク・コズミッシェ」や「フロントレンジのための内省的なエレクトロ・アコースティック・バーン・ジャズ」とも評されている。要するに、自然と電子が呼吸を合わせるアンビエントであり、デジタルの冷たさと有機的な温度のあいだにある音楽なのだ。そこに漂うのは、祈りのような静けさ。そして「共鳴」への祈り。
エム・セイジが「庭仕事とともにある音楽」と語るこの作品は、彼の創作哲学を象徴している。「庭」とは、自然と人間、偶然と秩序が交わる場所。そこに完璧なコントロールも、完全な自由もない。ただ絶えず変化し続ける生命のリズムがある。『Tender / Wading』の音もまた、そんな「生成のリズム」を体現していた。電子音は整然と並べられるのではなく、にじみ、かすみ、やがて消えていく。アルバム冒頭 “The Garden Spot” の、風の中で揺れるような音のレイヤー構成は、本作の哲学そのものを表しているものだ。
デジタル技術によって音を完全に制御できる時代に、セイジはあえて壊れかけた音や余白を受け入れている。ピアノのペダルノイズ、風の音、環境音、それらが音楽を「出来事」として鳴り響く。彼の電子音楽は、正確な設計図よりも呼吸のような即興性に支えられているのだ。
『Tender / Wading』を聴くとき、私たちは音を聴くというより、空気の動きを感じているのかもしれない。その電子音が風になるとき、そこに生まれるのは耳で聴く静けさではなく、身体で感じる沈黙だ。
テクノロジーと自然の境界を溶かすこと。エム・セイジはこの作品で、アンビエント以降の電子音楽が進むべき新しい方向を静かに示した。秋の深まりとともに聴きたい一作である。
デンシノオト

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