【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話050「生成AIの音楽を聴く…リスナーに求められる感性の構築」

生成AIが高品質な音楽を簡単に作る時代になり、「Suno 5とミュージシャンの居場所」というタイトルにて、ミュージシャンがAIとどう向き合うべきなのかを記した。要するに「音楽制作者にとってAIはどんな存在なのか」を述べたのだけれど、実のところ重大な問題はその裏側にある。我々リスナーが「AI音楽をどのように受け止めるべきだろうか」という点だ。
AIが作り出す音楽の中には「人間的な意図」が存在しない。「悲しみを描こう」として「悲しい音を並べる」ことは得意だけれど、その悲しみを体感しているわけではないし、悲しみを感じて発された心の叫びでもない。つまりは、リスナーはそこにある「感情の真実性」をどう扱うのかを問われることになる。
…なのだけど、一方で音楽というものが「聴く者の中で完成する芸術」である以上、制作者の内面が「空」であることが、必ずしも作品の価値を減じる要素になるとは限らない。時にアーティストは「世に放たれた時点で、その作品はもうリスナーのもの」と語ったりもする。つまりはその音楽に「心がどう反応したか」だけが正義であって、実のところ共感の根源は相手ではなく自分の中にある。聴き手自身の感情や記憶を映し出す鏡として、AI音楽が人間の創作物以上の共鳴を生むであろうことも不思議なことじゃない。
我々が音楽を「どう聴くか」。AIが作ったからといって「最初から拒絶する」姿勢も、逆に「AIなのにすごい」と特別視する姿勢も、どちらも音楽そのものの価値を曇らせる。必要なのは、作品の出自ではなく「そこに響いている音」に対して素直に心を響かせることなんだろう。AIであろうと人間であろうと、感動を呼ぶならばそれは音楽として成立するのだから。小川のせせらぎや虫の鳴き声にも、我々は意図せず心を奪われたりする。音楽だけにとどまらず、人間はそのようにできている…というか、脳はそのように情報の取捨選択を行い、適切な感情ホルモンのバランスを取ろうとする。確かな真実はそこにある。

現時点において、AI音楽に対してリスナーに求められるのは「批評的共感」かもしれない。単に受け入れるのでも拒むのでもなく、なぜこういう感情を呼び起こしたのかに思いを馳せてみる。生成された音楽がどのようにして我々の感情に作用しているのか、その仕組みを意識的に感じ取ることだ。メロディやコード進行、リズム、ハーモニー、ミックスのバランス…それらのどこに「人間らしさ」を錯覚させる工夫があるのかを解き明かし見抜こうとする視線を持つことは、リスナー自身の聴く力と感受性を研ぎ澄ますことにつながっていく。
2025年10月の時点で、AI音楽は我々の感性を試すリトマス試験紙のようだ。どこまでが人間らしいと感じるのか、何をもって魂があると認識するのか。AI作品を聴く行為は、結局のところ「自分自身の感性の輪郭」を確かめる行為に直結する。
AIが生成する音楽は飛躍的に発展を遂げている。まだ「AIが作る音楽をどう聴くか」の正解は存在していないけれど、無批判に受け入れることでも恐れて距離を取ることでもなく「自分の耳で選び、感じ、考える」ことこそが、AI時代のリスナーに求められる最も健全な態度であると思ったりもする。音楽を愛するという感情は、極めて人間的な本能によるものなのだから。
文◎BARKS 烏丸哲也
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