江戸時代後期に活躍した喜多川歌麿とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「世界的に評価されている『美人大首絵』は、蔦重がいたからこそ誕生した。男女の情交を観察して描く機会を与えられたことで、歌麿の才能は大きく羽ばたいた」という――。
写真=時事通信フォト
第36回東京国際映画祭で行われた映画「怪物の木こり」の舞台挨拶に登壇した染谷将太さん(=2023年10月31日、東京都千代田区のTOHOシネマズ日比谷)
歌麿が伴侶の写生から生みだした世界的絵画
喜多川歌麿(染谷将太)がようやく出逢い、生涯の伴侶になるはずだった「きよ」(藤間爽子)。だが、運命とは残酷なもので、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第37回「地獄に京伝」(9月28日放送)では、足に発疹が出ているのが映され、病気にかかっていることが暗示された。
そして、第38回「地本問屋仲間事之始」(10月5日放送)では、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が連れてきた医師が「瘡毒」、つまり梅毒だと診断し、「難しいかもしれませんよ」と告げた。その言葉どおりに、「きよ」はしばらくして帰らぬ人になった。
歌麿は必死に看病しながら病床の顔を描き、「きよ」が事尽きて、遺体の腐敗が進んでいる状況でも、狂ったように彼女の顔を描き続きた。
続く第39回「白河の清きに住みかね身上半減」(10月12日放送)では、深い悲しみに沈んだままの歌麿は、蔦重の実母の「つよ」と一緒に江戸を離れ、心の傷を癒すために栃木に向かったが、歌麿が「きよ」と暮らした居宅には、歌麿が描いた「きよ」の絵がたくさん残されていた。
それらは歌麿の「きよ」への愛情を象徴するように、バストアップで描かれ、彼女の顔が強調されていた。それを見た蔦重は一案を思いつき、歌麿がいる栃木に向かう。こうして誕生するのが、のちに歌麿の名を世界に知らしめることになる美人大首絵である。