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新海誠の劇場アニメーションを松村北斗主演で実写映画化
映画『秒速5センチメートル』奥山由之監督インタビュー
「映画じゃないと感じられない感動がある」
新海誠の劇場アニメーションを松村北斗主演で実写映画化
映画『秒速5センチメートル』奥山由之監督インタビュー
新海誠の劇場アニメーション『秒速5センチメートル』を、『アット・ザ・ベンチ』の奥山由之監督が、松村北斗主演で実写映画化した『秒速5センチメートル』が、TOHOシネマズ梅田ほか全国にて上映中。
東京の小学校で出会った遠野貴樹と篠原明里が心を通わせていく様と、その後の18年の時の流れを叙情的に映し出す。松村北斗が大人になった貴樹を、高畑充希が大人になった明里を演じるほか、森七菜、宮﨑あおい、吉岡秀隆ら豪華キャストが集結。
そんな本作の公開に先立ち、映像監督・写真家として「ポカリスエット」のコマーシャル映像や、米津玄師「感電」などのミュージックビデオを監督し、自主映画『アット・ザ・ベンチ』がミニシアターを中心に大ヒットを記録した気鋭のクリエイターであり、本作が初めての大型長編商業映画となる奥山由之監督が作品について語った。
──『秒速5センチメートル』の実写化の監督というオファーを受けた時はどのように感じられましたか。
すごく驚いたというのが正直なところでした。ただ、久しぶりに原作を観返してみると、今の自分でしか描けない、30代前後特有の、人生の分岐点に立たされている、貴樹のような人が抱いている迷いや不全感みたいなものを感じました。僕も同じような感情を抱いていて、貴樹に気持ちを重ねて描くことができると感じたので、ぜひ参加したいと思いました。
──原作のアニメーションを初めて観た時はどのように感じられたのでしょうか。
高校生の頃にDVDで観ましたが、貴樹や登場人物の内面を深く掘り下げることで、誰しもが覚えているような普遍的な情景に繋がっていて、ミクロとマクロが繋がっているような語り口があることを新鮮に思いました。何より、実在する場所を新海さんが風景として描かれていたので、アニメーションというものに感じていたフィクション性に対して、実際の風景を描くというスタイルがあることも新鮮に感じました。3章立ての中では、1章目と2章目に対して感情移入していたような気がします。
──では、依頼を受けて改めて観返した時は、また違う印象だったのでしょうか。
先ほど申し上げたような、大人になることの惑いみたいなものは、高校生の頃はまだわからなかったので、そういった不安や焦燥感が描かれていることに気づいたのは、オファーが来て観返した時でした。
──実写化にあたって、原作アニメーションの中で1番大事にしようと思っていた部分はどういうところでしたか。
『秒速5センチメートル』では、いつ、誰が、どこで、どのように感じるかで距離や時間というものが伸び縮みすることが描かれていると感じていたので、距離と時間というテーマをどう描くかというのは大事にしていました。具体的に言うと、岩舟に向かう貴樹が雪で電車の中で足止めされてしまった、その数時間というのは貴樹にとっては永遠のように長く感じたと思うんです。桜の木の下で貴樹と明里が過ごした切実な時間は、客観的に見れば数分や数十分であっても、本人たちにとっては大切な記憶として色濃く残っていると思うんです。
──そうですね。
岩舟と東京の距離感は、子どもと大人では捉え方が、まるで違ってますよね。心理的距離と物理的距離の関係性においても、貴樹と明里は引っ越しで物理的には離れてしまっても、文通をする中で心理的にはもしかしたら一緒にいる時より近い、切実な心の通じ合いがあったかもしれない。逆に、(種子島の高校の同級生である)貴樹と花苗は同じ学校に通っていて物理的には近いですが、心理的にはなかなか近づけない。
メールでやり取りしてる理紗(社会人になった貴樹の同僚)と貴樹は何千回とやり取りができて、手紙よりスピードは全然早いですが、メールよりスピード的には遅い、手紙のやり取りをしている貴樹と明里の方が、貴樹と理紗と比べると、より心理的には近づいていたんじゃないか、と。
──なるほど。
そういうところを映像でどう表現するのかが大事だと思ったので、距離や時間というものを意識させるように、あえて早回しにしたり、あえてスローにするような描写をところどころで使っています。雲の動きや雪の降り方や桜の散り方などの自然現象は、撮った後に変えている部分もあります。現実ではそう見えなくても、彼らの心理を表現するために、CGやVFXによって実際のスピードとは変えることで距離と時間というものをお客さんに意識してもらえるようなトライをしています。
──今のお話を聞いて、もう1度観たいと思いました。アニメーションでは印象的な画がいくつかありますが、アニメーションの画にどこまで近づけるのかということはどのように考えてらっしゃいましたか。
新海さんの描かれる光は、記憶の中にある光というか、実際に見えている光よりも少しドラマチックで、フィルターがかかっているような感触があるので、カットごとにフィルターを変えるぐらいのつもりで、いろんな種類のフィルターの中から撮影の今村(圭佑)さんと相談して決めていました。
──毎シーン変えていたのでしょうか。
厳密に言うと、幼少期、高校、大人でまずベースのフィルターを変えていて。ブラックミストと呼ばれるような、ハイライトが滲むフィルターをベースで入れているんですが、それぞれの濃度が違うんです。その上にさらに別のストリークフィルターを重ねているカットもあれば、重ねていないカットもあって。アニメーションの原作を1カットずつキャプチャーしたものを分析して、何割ぐらいフィルターが入っているのかなどを確認してから撮影に臨んでいました。
──だから、アニメーションと同じような手触り、同じような感覚で観ることができたんですね。撮影監督の今村さんは、どの作品でも印象に残るシーンを撮られていますが、本作を監督されることが決まってすぐに、撮影は今村さんにお願いしようと思われたのでしょうか。
そうですね。それは最初に思いました。『アット・ザ・ベンチ』でも今村さんと一緒に作っていましたし、その前にファッションフィルムでもご一緒しましたが、話し合う時のコミュニケーションの波長がすごく合うんです。映画はコミュニケーションの蓄積で完成していくものなので、会話やメールのやり取りを、しづらい状況だと、それは必ず画に映ってしまうと思っていて。今村さんと僕は、お互いに意見はするけれども、お互いへのリスペクトを持ちながらふたりの意見を合わせて最適解を出せるので。
──なるほど。
今村さんの撮っている姿を見ると、ファインダーに映っているものだけじゃなくて、全身で360度を感じていて。今こちらにカメラを向ければ、ベストなものが撮れるということを感覚で探り当てられるような集中力はもちろん、撮影者としてこれ以上ないぐらい周りをよく見ているんだと思います。だから、演者だけじゃなくて、カメラの後ろ側にいるスタッフたちのことも見ているような気がするというか。子ども時代の手持ちで撮っているシーンは、今村さんでないと捉えられないものを捉えているように感じました。
──今村さんじゃないと撮れなかっただろうなという画がいくつもあったんですね。
それは画角や質感という意味よりは、周りの人との接し方だと思います。キャストにしても、今村さんに撮られていることによる安心感みたいなものは、今までたくさんの映画を作ってきた素晴らしいカメラマンだから安心しているということではなく、ちょっとした空き時間の会話の仕方やキャストへの目線によって、ちゃんと愛情を持って撮ってくれているという感覚になれる人柄だからだと思います。この映画は、今村さんだけではなく、俳優部も含めて、今回参加した全ての部署の人が持っている、人間としての誠実さみたいなものがスクリーンに焼き付いているように感じていて。”人”が作った作品だなと思うんです。
──わかるような気がします。アナログ感というか、手触り感があるというか。無機質さを感じませんでした。それは映像も、もちろんですが、音の影響もあるように感じました。ピッピッピという携帯の音や、カンカンカンという踏み切りの音、キュッキュッキュッと雪を踏む音など、音の使い方が印象的でした。
音に関しても、録音の佐藤(雅之)さんと音響効果の中村(佳央)さんと一緒に、ダビングという作業で音を最終調整することにすごく時間をかけました。『アット・ザ・ベンチ』もそうでしたが、本当にちょっとした、聞こえるか聞こえないかぐらいの鼓動の音みたいなものですらも、ボリュームを細かく調整しています。だからこそ、ぜひ映画館で聞いてもらいたいという思いは強いですね。
脚本の鈴木さんも意識してらっしゃったことだと思いますが、今回は、できる限り言葉そのものを表現の手立てとして直接的に使わないように心がけているシーンが比較的多いと思います。それと同時に、ずっと言葉で伝え続けるというよりは、表情や音で、こういう心情だと伝えることが実写作品においてはとても大事だと思っていました。
──言葉ではなく音で、心が揺さぶられることもあると思います。
例えば、岩舟の桜の木の下で貴樹と明里が抱き合う時に聞こえる鼓動は、本当に現場で録った音なんですが、それが大人になって同じ場所に来て、大人の遠野が”シノ”が来たかもしれないと思って振り返った時の鼓動の音として、もう1度リフレインしていたり。屋上で遠野がたこ焼きを食べて、こんな大きさだったかな、こんな感じだったかなと思うところから、世界ってこうだったんだと気づき直していくんですが、たこ焼きをきっかけに音や風、匂いによって世界の豊かさに出会い直す場面で、奥にいるシャボン玉で遊んでる子どもたちの声が聞こえてくるんです。
──ちょっと入ってましたね。
それに混ざって、子ども時代の貴樹と明里がシャボン玉で遊んでいた時の声が入っていたり。
──それは全く気づきませんでした。
気づけなくていいと僕は思っています。ただ、聞いている以上、視覚表現で言えば、見ている以上、何かしらお客さんに影響はあると思うので。音に関しても画に関しても忍ばせるような表現を繊細に施したので、それに付き合い続けてくれたスタッフの皆さんとキャストの皆さんには本当に感謝しています。
──監督が、メインビジュアルが出来上がった時のコメントで、「2年間、ほとんどの時間をこの作品に注いできました」とおっしゃっていましたが、そういう繊細な作業をずっとしてらっしゃったんですね。
細かいことの蓄積をしないと言葉で説明できない感動は生み出せないんです。それは今まで15、6年創作活動をしてきてわかったことです。ロジックで数式的に作り上げられた感動は、観た人の10年、20年、30年、本当の意味で心に残るものにはならないと思っていて。こだわらなくてもいいんじゃないかというような微差な部分を選択していくことを、ミルフィーユのように重ね続けていくと、自分の中のあるラインを超えられるものと、その手前で止まってしまうものがあるんです。
今回は、皆が一瞬たりとも気を抜くことなく、意志をもって細かい選択を積み重ね続けた結果、新海さんが初号を観た時におっしゃっていたような「理由がわからないけれども涙してしまう」心からの感動に至ったんだと思います。本当に有難いことだと思っています。
──本作でも音楽の使い方はポイントだったと思います。特に、原作のテーマ曲でもある「One more time, One more chance」を流す箇所には悩まれたのでしょうか。
悩みました。ただ、原作アニメーションでモンタージュ的に貴樹のそれまでの半生がブラッシュバックするかのように描かれている、あのシーンが持っているエモーショナルさを踏襲したいなと思ったので、できる限り、その感触に近いシーンで使いたいと思いました。今回、モンタージュ的に回想として一瞬入り込むというのは、アニメーションと同じようにやっているんですが、アニメーションほどモンタージュにすることがベストではないと思ったので、何かもうひとつ決め手のポイントがあることで、アニメーションで「One more time, One more chance」を聞いた時と同じような捉え方ができるんじゃないかと思いました。
──決め手のポイントというのはどのようなことだったのでしょうか。
貴樹という人物は、基本的には世界から受動的というか、彷徨って、漂っていたら、ここにたどり着いたけど、ここで良かったのかな?というように浮遊して生きているところがあって。それがボイジャーというモチーフともリンクしているのですが。そんな彼が自分の意思で動き出して、予定していた方向とは違う方向に向かうような、感情が溢れ出ている場面で使いたい、と。貴樹はわっと感情を表に発露するタイプの人ではないので、あの一歩だけでも、すごく大きかったと思うんです。そのエモーショナルさが加われば、アニメーションと同じぐらいの質量に見えるんじゃないかと思って、このシーンしかないと思いました。
──なるほど。
撮ってみたら、予定していたカット割りだとなにかが足りないと思って、貴樹の背中を長尺に渡って追いかけるカットを追加撮影しました。大人パートでは珍しくここだけ手持ちのカメラになるのですが、手ブレも含めて感情が伝わってくるシーンになったと思うので、撮って良かったです。
──今回の作品を見て、松村さん以外に誰が貴樹役をやれたんだろう?と思うぐらいでしたが、監督はどのように感じてらっしゃいますか。
同じように思いますね。初めてお会いした時に貴樹の人としての特徴というか、貴樹の人間性みたいなものが、松村さんに無意識で重なる部分があるように感じました。すごく腑に落ちましたし、同時に、この作品を制作することに対して自信が湧いて、これは大丈夫だなと思えるような感覚でした。松村さんは演技をするという技術や才能を使った上で貴樹になっていると思うので、貴樹そのものがそこにいるとは思わなかったですが、松村北斗という人と遠野貴樹という人物の最大公約数みたいなものが、初めてお会いした時にしっかり見えました。
──貴樹を3人の人物が演じているのも本作の特徴だと思います。貴樹という人物を3人に演じてもらう上で、何か共通して伝えたことはあったのでしょうか。
テキストブックというものを作って、全キャスト、スタッフに共有していました。そこに物語には描かれてない時代のことも書かれていて、貴樹が、どういう人生を辿ってきたのか、どういう人物なのかということがまとまっています。これがあることで、自分ではない人が演じている現場を見なくても、こういう人物だということを3人の異なるキャストが共有できていれば、ちゃんとひとつの線で繋がるだろうと思っていたので、演出として、ある言葉を伝えたというよりは、貴樹がどういう人物なのかということを、しっかり皆で共有したことが一番大きいと思います。
──テキストブックは、監督が考えて作られたのでしょうか。
僕だけではなく、チームでリサーチして頭を捻って作りましたが、これがあることで、規模が大きな制作体制であっても、それぞれが共有事項を土台が固い状態でしっかり持つことができるんです。人物設定だけではなく、時代背景や場所の設定といったものも記載されています。
──上田さんや白山さんは、生まれる前のことですから時代設定が全くわからないですもんね。
そうですね。キャストだけではなく、スタッフの皆さんにしても、どういうものを用意すればいいのか、どういう空間にすればいいのか、衣装にしても、この時代にあり得たかどうかなど、そういったところを、皆がこれを読んでいることで、現場で迷うことを極力少なくできました。現場で迷わなくてはいけないことは必ずあるので、それ以外のことを現場で迷っているわけにはいかないというのもあります。
──そうですね。
きっとこれは僕だけではなく、全ての監督が思っていることだと思うんですが。時間は有限なので、そうならないように事前準備の段階でテキストブックを用意して、全員横並びで共有して走り出せるようにしていました。
──ほとんどの現場はきっと脚本だけだと思うので、スタッフ・キャスト全員が物語を理解した状態で撮影に臨むためにそういうものがあるのは素晴らしいことだと思います。監督が、皆で共有するべきだと思われたからですよね。
そうですね。松村さんが出てらっしゃった『夜明けのすべて』という作品の三宅唱監督がインタビューでこういうものを作ったとおっしゃっていて。そういうものがあることによってできる演出というのは確実にあると、あの作品を観ていて思ったんです。現場に気持ち的なゆとりがないと、いい意味で、緊張感がほぐれているような、偶発性を取り込んだお芝居を撮れないと思うんです。
──確かにそうですね。
余裕がないと、全部予定調和になって、これを今日は納めないと香盤通りにいかない、みたいな感じになってしまうので、その余裕を生み出すにはどうしたらいいかと考えたら、こういうものが必要だと思いました。
──そうあるべきだと思います。もっとより良いものを生み出そうという空気は、きっとこういう全員の共通認識がないと生まれないと思います。
僕は、直筆の手紙を、全員に宛てて書いたんですが、受け取った方々に「こんなのあるんですか」と言われて。10枚ぐらいの手紙なので、確かに量は多かったんですが、僕は伝えたいと思っただけなので。テキストブックもそういうことなんです。もちろん、三宅さんのインタビューを読んで学んだことではありましたが、本当にいいものを作ろうとしたら、自然発生的に出てくるんじゃないかと思います。
──先ほど、余裕を生み出すにはこういうものが必要だと思ったとおっしゃいましたが、それは、監督自身の今までの経験の積み重ねの中で感じていたことでもあったのでしょうか。
現場で何かを頑張ろうとしても、人がたくさん集まっている時点でどうしてもアクシデントが起きてしまうので、そこで頑張ろうとしても、もう遅いというか。アクシデントが起きないように、極力準備段階で先回りして、いろいろ考えて決めておくことや話し合っておくことが大事だなと、今までの失敗も含めてそう思ってます。
──原作アニメーションが1時間なので、今村さんの画ももちろんですが、脚本作りが肝だったと思います。私は、大人になった明里が言う「思い出というより今も日常。その時に自分の好きなもの全てに出会ったから」という言葉がすごく好きだなと思ったんですが、本作のために作られた言葉たちも、すごく重要な言葉がたくさんあったと思います。監督が、大切だなと思った言葉は何だったのでしょうか。
一番印象に残っているのは、今、まさにおっしゃった言葉ですね。
──あの言葉に心が揺さぶられました。
わかります。あのシーンは、ミーティングルームで”シノ”がその言葉を言って、新宿の街中にいる貴樹が月を見上げていて、それがオーバーラップするように描いているんですが、あんなにも胸に迫るシーンになるとは思ってなかったんです。もちろん、撮っている時はいいシーンだなと思っていたんですが、編集で繋いでみてびっくりしたんです。それはこうだからとは言語化できなくて。毎回、あのシーンを観ると鳥肌が立つんです。
──わかります。あのシーンの高畑さんは、本当にすごいと思います。あのシーンを観て、だから、明里は高畑さんだったんだと思いました。
本当にすごいです。あの言葉は、言う人によって全然違う聞こえ方になると思うんです。あのシーンは、確か20テイクぐらい撮っていて(苦笑)。いろんな角度から撮ったので、何回も何回も言っていただいたんですが、毎回すごくよくて。じゃあ、なんでテイク重ねるんだって話なんですが(笑)。もっと見たくなる、もっとさらに何かあるんじゃないかと思わせてくれる、潜在能力みたいなものが、とてつもない深さであるような方だと改めて思いました。
──そうですよね。
ああいうシーンには、映画じゃないと感じられない感動がある気がするんです。あのシーンにあるような感動を、小説や漫画、音楽などで感じたことがなくて。あれは、画と、そこにいる人と、言葉と、音と……映画に関わっている全ての要素が脚本から拡張されているからこそ、映像で観る意義があると思っていて。大きなスクリーンで集中して入り込んで観ていると、より深い感動があると思います。
──米津さんの「1991」は、本作を締めるに相応しいというか、すごく胸に響く曲だと思います。監督は、初めてあの曲を聞いた時はどのように感じられましたか。
あの楽曲の刻むリズムが、誰かが人生を歩んでいることを踏みしめながら一歩一歩前に進んでいるような音に聞こえました。だけど、その一歩一歩というのは、自信があるものというよりは、何かを確かめながら、本当にこれでいいのかなと思いながら、ある意味で臆病な気持ちなども抱えながら歩いている人のリズムのように感じて、貴樹の歩く足や足跡がぱっと脳内に浮かびました。
後から米津さんとお話した時も、米津さん自身の半生みたいなものも投影して作ったというお話を伺って、誰かの歩みみたいなものだけど、それは決して、締めくくりとして、まとまりを持たせようとする歩みの描き方じゃなくて、未来に向けて解放していくような、この物語の解釈というものも広げてくれて、貴樹という人物の胸の奥底に秘めていた感情みたいなものが放たれるような音にも聞こえて。これはものすごくいい意味で、想像していなかった素晴らしい楽曲だと思いました。
取材・文/華崎陽子
(2025年10月16日更新)
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