アフロヘアーがトレードマークの山崎賢人が競輪と出会ったのは大学3年生のときだ。当時は競輪場によく車券を買いに行く“ファン”だった。そんな彼は、KEIRINグランプリ観戦時にそれまで感じたことがないスピードや音、迫力に圧倒され、競輪選手になることを誓ったという。2017年にはプロ競輪選手としてデビューし、2019年12月にナショナルチーム入り。ただ、当初は自転車競技をするなんて1ミリも想像していなかった。日本競輪学校時代のHPD(ハイパフォーマンスディビジョン)での経験が大きな転機となった。
「HPDでナショナルチームの選手と同様の環境でトレーニングをさせてもらって実感したのは、この環境でトレーニングを積めば強くなれるということ。最初は競技をやりたいという気持ちよりも、とにかく強くなりたいという思いが強かったし、もっと強くなれるとも感じましたね」
実はその頃、山崎は焦りを感じていた。競輪のGIではなかなか決勝に上がれず、レース内容も自分が求めているレベルには到底届いていなかったからだ。
「このまま終わっていく自分も想像できなかったし、想像したくもなかったですね。だからその状況を打破しない限り先はないという危機感を持っていました。どうにかして強くなろうと考えていたんです」
ナショナルチームでは量よりも質を重視したトレーニングで力を付けた。一度の練習で走る本数が限定的だったため、最初は戸惑い、コーチ陣に「もっと本数を増やしたい」と直訴したこともあった。最初の1年は「ちょっとモヤっとしながらトレーニングをしていたかもしれないですね」と話すが、「最大限自分のためになるにはどうしたらいいか」と考え方を変換。「いかに質を追求していくか」を重要視してトレーニングを重ねる中で、強くなっているといいう手応えも得られるようになった。
しかし、昨夏、目標としていたパリ五輪はリザーブで出場が叶わなかった。
「結果が出ていなかったのである程度予想はしていたけれど、やっぱりいざ選ばれないとなるとショックだったし、なかなか受け入れられなかったですね」
それでも2カ月後の世界選手権では男子ケイリンで金メダルを獲得。日本勢として37年ぶりの快挙を成し遂げた。
「周りの人が自分のことのように喜んでくれたことがなによりもすごくうれしかったですね。それまではずっとメダルが獲りたいという気持ちだけで臨んでいました。でも、それが焦りに変わって、地に足が着いていない状態でした。メダルを獲りたいという気持ちはもちろん持っていましたけど、予選から『このレースで1着になるにはどうしたらいいか』『このメンバーにどうすれば勝てるのか』とレース自体にフォーカスできていました。これまでの大会とは違って、必要以上に力が入ることもなく、落ち着いてレースを俯瞰して見られていたことが良かったのかもしれません」
実は、昨年の世界選手権でメダルを逃した場合は代表から引退する覚悟も決め、大一番に臨んでいた。
「メダルを獲ることができて、自分にはまだまだ可能性があるんじゃないかと感じられましたね。結果をずっと出せていなかったので、(ヘッドコーチの)ジェイソン(・ニブレット)にも『代表で競技を続けて大丈夫か』と相談して、『当たり前だろう』と言ってもらったので、じゃあもうちょっと頑張ろうかなと思えるようにもなりました」
あれから1年。表彰台の真ん中に立ち、世界選手権王者に授与される栄光のアルカンシェルを身に纏って戦ってきたが「プレッシャーはない」と言い切る。
「金メダルを獲った次の日には自分もチャンピオンを目指す1人に、ただの挑戦者に戻っただけなので」
現在32歳。3年後のロサンゼルス五輪も視野に入れるが、「なんとなくふわっとは考えていますけど、まずは代表争いできるラインにたどり着かないと」といたって冷静だ。今はそれ以上に大切にしていることがある。
「まずは今年の世界選手権が大きな目標です。そこでもう一度勝負してメダルを獲りたい。今のナショナルチームは強いので、結果を出さないと僕の居場所がなくなってしまう。一歩ずつ強くなっていかないと」
一度は“終わり”を覚悟した男の“終わりなき挑戦”はこれからも続いていく。
UCI世界選手権2025(トラック)
10月22日から南米チリ・サンティアゴで開催
世界王者・山崎賢人、窪木一茂、佐藤水菜も参戦!
2025年大会は11年ぶりにアメリカ大陸で開催される。昨年は6種目でメダル、うち3種目でアルカンシェルを獲得した日本トラック競技ナショナルチーム。2連覇を懸けたディフェンディングチャンピオン3選手の挑戦だけでなく、世界とともに進化し続ける日本チーム全選手に注目だ。
https://www.jka-cycle.jp/
競輪とオートレースの売上の一部は、機械工業の振興や社会福祉等に役立てられています。