野球王国愛知20世紀の甲子園ヒーロー③ ”中京高.元エース 野中徹博が歩んだ野球道”

この男を覚えているだろうか。あまりに眩しすぎた時代の活躍。 [音楽] 地元ファの胸に永遠に響く野球人中京 の野中 [拍手] 現在野中は東京で会社務めをしている44 歳看板を作る会社の営業という肩書き [音楽] ヘルメット株心 ヘルメットいっすね。うん。野球のヘルメットでかぶりに慣れてたんでね。でもあんまりピチャだからね。被ってないか。 今へとどり着いた野球人中京高の行ざ出会い栄光して別れ。の中の野球人生を振り返る。 [音楽] 矢沢さんの帽子をかぶったらお沢かみたいな感じで言われたのがきっかけで はい。 で、あ、どんな人なのかなみたいな。 ああ、なるほど。 生まれは愛知県一宮市当たり前のようにドラゴンズに憧れ物心がついた頃には野球ボールを握っていたという。 [音楽] ま、高木森道さんとかね、あの試合終わってあの選手の出口からこう出るところをずっと待ってね。で、 うん。 握手してもらったりっていうのは いや、もう本当に野球小僧だったんですね。 野球小僧ですね。 [拍手] 中学3年の時には身長 182cm 直球も130km を軽く超えた。当時の彼のそのさを意外な男が語ってくれた。初めてまあというか、ま、僕が見たのは中学生の時ですから、あの、ちょうどあの彼が全国大会に来たとに、え、神奈川県で全国大会ありました。 [音楽] 中さの時からも本当に有名な、え、全国で住勝しましたので、ま、僕にしてみればね、当時は熊のあの上のような存在でしたけども [音楽] 全部を売り返 輝きを放った時代 全部 忘れることのできないあの 3年間 何が買うんですかね。 例えばあの時はうん。楽しんでというかですね。うん。 そういう変なプレッシャーはなかったですね。愛知県が全国に誇る伝統校中京高校との出会い。ここで野中の伝説が始まる。 [音楽] 1年の秋、ストレートの最速は 148kmを記録。 2 年生になるとエースとして春夏もに甲子園 4へ進出。 高校野球が最も暑かった時代。中京の野中 。そのフレーズは一気に全国へといた。 3年生になったの中にライバルが現れ。 オ路地元の共栄高校の4番藤王野中が出場 できなかった選抜でカ打を連発し話題を 一めにした。 として2人の決着戦。舞台は夏の大会決勝 。 愛知大会市場に残る名勝部となった地元が 産んだ2人の怪物の戦い。 注目の第1打席。 [音楽] [拍手] ライト前に運び、まずは藤王が力を 見せつける。 [音楽] しかしこの日の野の野中は気迫で藤士王を 圧倒する。愛知の顔は俺だ。絶対にお前に だけは負けられない。 怖さとかそういったものっていうのは あまり感じずに気持ちがそれ以上に勝さっ てたんで。 1 対1互いに1 歩も譲らない展開の中迎えた最終回で出た野中が藤のいる 1 塁にそして胸も真っ黒顔も真っ黒っていうようなね、あのヘッドに近いような状態覚えてます [音楽] ね。 中京の野の中気持ちで奪った 1 点。をつけるとすれば何点ぐらい?行けな [音楽] [拍手] [音楽] [拍手] [音楽] 100円けます。 高校時代良かったと思われます。 ああ、思いますね。はい。純心な気持ちでこう野球に打ち込めたっていうのは本当に良かったと思いますね。はい。 怪物対決を制し、甲子園ではベスト 8。中京の中の未来は輝く始った。 [音楽] 開かれた夢への扉ところがドラフト会議で野中の歯車が来る。 必ずしも希望していたチームではないかと思いますけれども いや、ちょっと考えてもなかったものですから。だからまあ今ちょっと複雑な気持ちです。 [音楽] 希望は幼い頃からの夢。ドラゴンズ。 しかしドラゴンズが選んだのはの中ではなくライバルの富士王 [音楽] 半球ブレイブス野中は戸惑いの中プロ野球の道へと進む 半球入りを決めたのは何だったんですか? 夢ですね。はい。 あの、要の頃からやはり目指していたものはプロ野球選手というですね、プロ野球の世界に憧れてあのやっていたので 背番号は18 将来のエースを期待されての入団活躍をしてドラゴンズを見返せばいいの中は燃えていた。 [音楽] しかしプロの世界の容赦ない現実が野の 野中を襲う。2年目に一軍のマウンドを 踏むが通用しない。さらに右肩を故障。 気持ちだけが空回りし、時間だけが過ぎて いった。 2軍の練習にはその時は参加しないで1軍 の練習でバッティングピッチャーしていく とうん。ま、そういったようなのが多く なってたんでほとんど ですから。うん。気持ちとしてはすごい 張り合いもないですし。 中京の野中は終わった。高校時代が1番 良かった。そんな心ない言葉が胸をえぐる 中。 何も残せなかった。 その後の中は野球とは距離を置いた生活を 送った。その間およそ3年。いつしかその 名前も世間から忘れ去られていった。 しかし意外なところで野中が復活する台湾 プロ野球への入団。大好きな野球のことが 忘れられなかった。まだ20代。体は野球 を覚えていてくれた。 プロとしてですね、あの、あのマウンドに立てるっていうのはうん。これはなんて言うんですかね?あの、この最高の喜び。 [音楽] 野中の執がもう一度夢への切符をたり寄せる。幼い頃からの夢。ドラゴンズの入団テスト。 [音楽] どん底から生上がってきたの中に巡ってきたチャンス。 幼い頃からの夢。ドラゴンズの入団テスト。背番号重もないユニフォーム。それでも嬉しかった。一度野球をやめた自分にもう一度チャンスをくれただけでの中は無が夢中でアピールを続けた。 [音楽] [音楽] その時はこう言葉に出せないうん。満足感というか夜にね、あのユニいたユニフォームをうん。なんか来た覚えありますけどね。はい。 そして彼のユニフォームには背番号がついた。俺は本当できるんだっていう。うん。 [音楽] そういうのをこうみんなに見せてやるんだっていううん。そういうあの気持ちで投げれましたね。 マウンドに立てる喜びの野中にとって苦い思い出しかなかったプロでの生活半球自体はチャンスすらもらえなかった。それが今は違う。使ってもらえるだけで中は熱くなれた。 [音楽] [音楽] そして野中にとって一生忘れることのない マウンドがやってくる8月の巨人戦。 8回からマウンドへ上がったの中。リード はわずかに1点。そして最終回。巨人協力 クリーンナップを迎える [音楽] [拍手] ドラゴンズの勝利まであと1人。プロに 入って何の数字も残していない男に巡って きたチャンス。 [拍手] プロ入り初なんかあん時は信頼なんか満足感うやって期待されてうん。 [音楽] [拍手] [音楽] ああいう場面にまで投げさしてくれ るっていうのは こんな幸せなことないなっていうのは その後スワローズではプロ初勝利も上げた ドラゴンズに戦力街通告を受け から手にした働き場だった。そして中継の 戦力として日本一にも貢献した。 何度首を宣告されても野球にしみつき、 その度に生いがった野中哲という野球人。 その生き方は中京の野中という華やかな イメージとは違う泥臭いものだった。 そして44歳となった今も彼は野球を愛し 140km近いストレートを投げ続けて いる。 高じさんとかま沢さん、そういった方たち にですね、夢をいいてですね、自分もこう それで野球選手になれたってことは うん。今度は夢を与えなきゃいけないって いううん。あの、思うんですね。 だからもう夢を与えて勇気を与えることがうん。僕の使命なのかなっていうね、そういう風に思ってうん。今もこう生活してるというか、 [音楽] 死ぬまで付き合いたいですね。うん。 死ぬまで やはり自分の体が動かくな、動かなくなり 、自分の記憶がなくなるまでうん。 やっぱりその野球に立ちわっていたいなっ ていうのはね、ありますね。野球と出会え て感謝ですし、野球というものがあって 本当にうん。感謝してるっていう そういう思いですね。y

甲子園3度の出場で防御率0.79、通算10勝…3年最後の夏の甲子園では準々決勝で3連覇を狙う優勝候補筆頭の池田.水野と投げ合った伝説の試合に全国から注目を集めた”中京の野中”。
2年生の春、夏に名門.中京のエースとして甲子園に出場。共にベスト4まで進出し 一躍 全国にその名が知れ渡った。2年生春の準決勝では不運にも自責点0で敗れたが、その実力は高く評価された。さらに新チームになりその実力からして翌春センバツもほぼ当確と見られていたものの秋の東海大会初戦で静清工(静岡3位)相手に初回の2点を守りきれず最終回に逆転を許しまさかの敗退。あっけなく選抜の夢を絶たれてしまった。そしてその野中のいない春の選抜で話題を一人占めしたのが同じ愛知の享栄・藤王(史上初11打席連続出塁)。そのライバル藤王の享栄と3年最後の夏の甲子園をかけて戦った伝説の決勝戦での思い出や、また大活躍した華やかな高校時代から一転、プロ入り後~引退までの彼の野球人生を振り返る。
#高校野球 #甲子園 #中京大中京

21件のコメント

  1. 🏟️⚾️当時の準々決勝の組み合わせ抽選で 池田-中京
    と決まった時 🏟️うわ~決勝戦やんけえ~とバックネット裏付近の座席でひとり呟いたのは祖父👴の知り合い(友達?)らしいと祖父が当時 自分に話してくれたのが懐かしく思える。

  2. 1983年ドラフト会議で中日は藤王の他、三浦(横浜商)も指名して 「甲子園のアイドル」2人を獲得しましたけど、ドラフト五位の高校生は甲子園のアイドルにはなれなかったけど、プロ野球界のレジェンドになられましたね。

  3. 野中さん、神勝寺球場でサインいただいた、波乱万丈の人生、高校時代肩酷使したのが大成できなかったのでは?

  4. すごい痩せてイケオジだね。
    野中vs藤王の映像残ってたんだ。
    8個下だけど当時の2人の活躍は愛知県人として誇らしかったし憧れたよね〜
    プロでは2人ともイマイチだったけど。

  5. 彼の甲子園は、全て観て、全てがドラマでした。一度、挫折するも、中日での中継ぎは完璧でした。マスターリーグで生で140キロ観てました。全てがドラマのようです。

  6. 83年夏の愛知大会は注目の的だった。享栄には超高校級スラッガー・藤王がいたが、技巧派のエース平田では甲子園本大会は勝ち上がれないと踏んでいたから、
    剛腕・野中の中京が甲子園を決めてくれてほっとした記憶がある。それにしても、83年夏甲子園は後にプロに進んだ3年生好投手の多い大会で盛り上がったな。
    池田の水野をはじめ、横浜商・三浦、久留米商・山田、高知商・津野、宇部商・秋村、箕島・吉井、仙台商・荻原、興南・仲田、岡山南・横谷、佐世保工・香田、
    茨城東・賀茂川、創価・小野など蒼々たるメンバー。地方大会で散った前橋工の渡辺、倉吉北・加藤、旭川工・星野らが出場すれば言うことなかった。

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