代表者メッセージ

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毎度お世話になっております。キングコング西野亮廣です。

2026年春に公開を予定している『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』の内容を紹介させてください。

 

『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』の原案となった出来事

19歳の頃に梶原君(カジサック)と出会い、「キングコング」を結成しました。
数々の幸運が重なり、僕らは良くも悪くもスピード出世。
20歳で『はねるのトびら』(フジテレビ)がスタートし、そこから立て続けに冠番組やレギュラー番組をいただき、“売れっ子”と呼ばれる立場に駆け上がりましたが、その華やかな舞台の裏側は惨憺たるものでした。

高校を卒業したばかりの僕らには与えられた舞台に見合うだけの実力や覚悟が伴っておらず、出演する番組や舞台は連戦連敗。

唯一、漫才をしている「二人の時間」だけは自分たちを表現することができましたが、先輩芸人が並ぶ“平場”になると途端に力を失い、一言も発することもできないまま収録を終えてしまうことも数え切れないほどありました。

スピード出世がたたり、酷く妬まれていたので、トークコーナーで話を振ってもらえないことや、話したところで相槌ひとつ貰えないことなどは日常茶飯事(泣ける!)。

劇場の客席には「キングコングのネタで笑うな」という紙を回されました(※南海キャンディーズの山ちゃんが回した説が濃厚ですww)。

そんな毎日ですから、当然のように心が削られます。

隣を見ると、もうとっくに心が壊れてしまった梶原君がいました。

会話もままならないほどに。

当時の僕は弱った人を助ける力を持ち合わせておらず、そして、その日がやってきました。

 

梶原雄太の失踪

始発の新幹線に揺られて大阪へ向かい、寝ボケまなこでロケ車に乗り込んだ時に番組スタッフさんから「梶原さんが連絡つきません。寝坊かもしれません」と告げられ、その瞬間に全てを悟りました。

「いや、もう来ないと思います」

そう返したのを、今も鮮明に覚えています。

それから数日間、誰一人として梶原君と連絡がとれなくなりました。

失踪でした。

後日、関西のカラオケボックスで彼の所在が確認され、ご家族が身柄を引き取ってくださいました。

その時の彼は、「どこかに隠しカメラが仕掛けられているのではないか」と部屋の隅々に鋭い視線を投げかけるほどに疑心暗鬼に陥っていました。

「心身症」と診断され、まもなく吉本興業から「キングコングの無期限活動休止」が発表されます。

あれほど激しく回転していた歯車が、突然音を立てて止まってしまいました。
僕は大阪の部屋で一人。
軽々しく外に出れば、週刊誌に好き勝手な記事を書かれてしまう。そんな恐れから外に出ることもできず、部屋の真ん中でひたすら座っていました。

テレビをつければ、本来ならキングコングが出演していたはずの新番組が流れています。その画面を見つめながら、「どうして、こんなことになってしまったのだろう」と、自問を繰り返す日々。

今よりも更に人間として未熟だったその当時の僕には、全てのチャンスを潰した(そして僕を置いていった)梶原君に対しての怒りがありました。

大切な人を救うことができなかった自分の実力不足を棚に上げて。

梶原君がいなくなって2ヶ月が過ぎた頃。

事務所から「ソロ活動」を提案されました。

「もう梶原雄太は戻ってこないだろうから、西野だけでも」という判断です。

薄々覚悟はしていたので、その提案を飲むことに抵抗はありませんでした。

だけど、「わかりました」と一歩踏み出そうとしたその時、

次に向かおうとしたその時、

梶原君と二人でゲラゲラと笑い合った時間を思い出しました。

千日前の公園でカチカチになった犬のウンコを投げ合った日のこと。

ホームレスにブチギレられて追いかけられた日のこと。

バイクを飛ばして川西の夜景を観に行って、「恋人かい!」とツッコミを入れて照れ臭くなった日のこと。

蘇ってくるのはどれもロクな記憶じゃありませんでしたが、だけどそれは僕らにとっては、とても大切な思い出でした。

ここで僕が一人で活動を再開して、もし万が一上手くいってしまったら、それは「梶原雄太がいなくても大丈夫」を証明することになります。

そうすれば、もう彼が戻ってくる場所がなくなってしまう。

あのゲラゲラ笑い合った時間の先にあった二人の未来を確認することができません。

僕らはたまたまスピード出世しただけで、僕はべつに早く行きたかったわけではありません。

ただ二人で、遠くに行きたかっただけでした。

 

「待つ」と決めた日
結局、僕は事務所からの提案をお断りして、いつ帰ってくるか分からない梶原君を待つことにしました。
「壁のシミになるまで待ち続けますわ」とフザけた僕を見てマネージャーが笑いながら泣いて、「映画でも観に行くか」と深夜の映画館に連れてってくれました。

それから1ヶ月後。

メディアの情報の一切をシャットアウトしていた梶原君に、彼のお母さんが「西野君がアンタのこと、まだ待ってるで」と伝えたそうです。

「西野はとっくにソロ活動をスタートさせている」と思っていた彼からしてみれば、それは青天の霹靂で。

3ヶ月半ぶりに連絡がありました。

後日、僕の家に来た彼は「ごめんなさい」と何度も何度も頭を下げましたが、そんなことはもう本当にどうでもよくて。

それよりも「お帰りなさい」を言えた嬉しさの方が勝っていました。

事務所からソロ活動を提案されたあの日、

「彼が帰ってくる場所を残す」と覚悟したから、

「彼を信じる」と勇気を振り絞ったから、

「待つ」という行動を選んだから、

この瞬間がありました。

『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』は「待つ」ことの意味を知った、まだ僕が弱かった頃の出来事が物語の下地になっています。

あの日、遠くにいってしまったゴミ人間「プペル」が、煙突掃除屋の少年「ルビッチ」の元に帰ってくるまでの物語です。

 

【事業投資型クラウドファンディング】で迎えたい未来
あらゆるエンタメを作り、届けていく中で、現代のお客さんが「役割」を求めていることが次第に分かってきました。
ただ、プロが作り上げた作品を受け止めるだけの存在ではなく、「自分も作品を制作する側にまわりたい」という欲求が以前にも増して膨らんでいると。

そこから「どうにかこうにか、お客さんを作り手側にまわせないものか?」と方法を探っていた時に【事業投資型クラウドファンディング】に出会いました。

作品の制作費を負担していただき、作品の利益を分配させていただくことで、名実とも「映画の作り手」になっていただこうと。

映画を一部の人間だけで所有するのではなく、鹿児島にいるサラリーマンが、鳥取の主婦が、青森のファミリーが「僕の作品」「私の作品」「僕らの作品」と言えるような、そんな未来を迎えたいと思いました。

そして、この手法がスタンダードとなり、次の時代を生きる「お金はないけど、想いはある」というクリエイター達の選択肢になれば、エンタメ屋冥利に尽きるというもの。

『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』でその未来の扉を開くことができれば幸いです。

皆様から想いを託していただく以上、責任と覚悟を持って、最後まで全力で走り抜きます。

何卒、ご支援のほど宜しくお願いします。

西野亮廣(キングコング)

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