“ポップミュージック界の伝説”ジョージ・マイケルの栄光と苦悩に満ちた人生を、ワム!のマネジャーだったサイモン・ネイピア=ベルが監督を務めて辿るドキュメンタリー映画『ジョージ・マイケル 栄光の輝きと心の闇』が、ジョージの命日翌日である12月26日より公開される。このたび、ポスタービジュアルが解禁となり、サイモン・ネイピア=ベル監督からコメントが到着した。

栄光の日々と語られなかった永遠の孤独

1981年にアンドリュー・リッジリーとともにポップデュオ「ワム!」を結成し、10代でデビューを果たしたジョージ・マイケル。「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」「ケアレス・ウィスパー」「ラスト・クリスマス」などの世界的ヒット曲を作詞作曲し、ソロシンガーとしてもアルバム『フェイス』が1988年度グラミー賞を受賞、通算売上枚数は1億2500万枚以上を記録するなど大成功をおさめた。

ジョージ・マイケルがいかにしてポップミュージック界の伝説となり、その光と影を生きたのか。ワム!のマネジャーを務めたサイモン・ネイピア=ベル監督がスティーヴィー・ワンダーやスティーヴン・フライら40人以上の関係者へのインタビューを敢行。ジョージ自身が語る当時のインタビュー映像や写真をはじめとする貴重なアーカイブ資料や未公開映像も多数使用し、音楽性、恋愛、有名人として及びセクシャルマイノリティとしての精神的葛藤、匿名で行っていた慈善活動、薬物依存や所属レーベル会社との訴訟問題、メディアとの関係など、栄光と苦悩に満ちた彼の人生を時系列で辿る。

ジョージ・マイケルが亡くなった時、彼の物語を、ベートーベン、ゴッホ、黒澤明といった他の偉大なアーティストの物語と同じように扱った、彼についての真に誠実で洞察力に富んだ映画が作られることが重要だと思いました。音楽の内と外の両面から彼の人生を見せ、それがどのように互いに影響を与えたのかを見たかったのです。そして、イギリスとアメリカだけでなく、世界中の人々にこの映画を見てもらいたいと思いました。

ジョージ・マイケルとアンドリュー・リッジリーを来日させ、二人に日本を案内できたことは、彼らのマネージメント時のハイライトの一つでした。ですから、この映画が日本で上映されることを大変嬉しく思っており、本作ができるだけ多くの観客に届き、ジョージ・マイケルがいかに素晴らしいアーティストであり、人間であったかの真の洞察と理解をもたらすことを願っています。
(サイモン・ネイピア=ベル監督)

1981年、18歳のジョージ・マイケルは、12歳の時からの友人であるアンドリュー・リッジリーとボップデュオ「ワム!」を結成。当初契約したインナーヴィジョン・レコーズとの契約の問題でシングルが出せない状況となるが、賢く乗り切る。しかし、人気絶頂でも、ジョージ自身は幸せを感じず、1986年、ジョージはソロシングル「ディファレント・コーナー」でセクシャリティの葛藤を歌い、直後にワム!は解散を発表。1987年に発表したソロ・デビューアルバム『フェイス』は、グラミー賞を受賞するが、1990年発表の「フリーダム!’90」のMVでは、『フェイス』のキーアイテムだった革ジャンを燃やし、ポップスターのイメージから脱却。望んでいたはずの名声と引き換えに葛藤とジレンマを抱えていたジョージは、1988年のテレビのインタビューで不意打ちで同性愛者か聞かれた際は、「違うけど、誰にも関係ない」と答えていたが、1991年、ブラジル人衣装デザイナーのアンセルモ・フェレッパと運命的な出会いを果たす。幸せな日々を過ごしていたのも束の間、治療法のない時代にアンセルモがHIV陽性になり急逝。1993年、所属レコード会社の幹部の一人が自分のセクシャリティに対して差別用語を使ったという噂を聞いて怒ったジョージは、自分のためでなく、業界全体のためにと他の業界では改善されているアーティスト個人の権利の確保のために裁判で闘い、結果、敗訴。2002年、「シュート・ザ・ドッグ」でブレア首相とブッシュ大統領を批判すると、今度はメディア王マードックとの闘いに…。2011年、オーストリアで肺炎にかかって危篤状態となったジョージは…。

『ジョージ・マイケル 栄光の輝きと心の闇』A PROTOCOL MEDIA PRODUCTION ©2022

『ジョージ・マイケル 栄光の輝きと心の闇』は12月26日(金)より全国公開

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