イシス編集学校第89回感門之盟 学長対談~ブックウェアとAI時代の編集力

はい。それでは皆さんお席にお付きでしょうか?え、 2 回学林の方も、え、皆さん席についていらっしゃるでしょうか? はい。はい。皆さんお揃いになったところでここからはいよいよ学対談のコーナーになります。 え、ブックウェアとAI時代の編集力と題 からのAI時代に私たちが磨くべき編集力 というのはどんなものなのか語って いただきたいと思います。では田中裕子 学長よろしくお願いします。 え、市販の田中でございます。今日はだ から何度も登場してしまうんですが、あの この最後の模し物は学長としてお話を いたします。で、あの、え、松岡聖という 人は編集工学研究所の所長でした。皆さん ご存知だと思うんですが。で、実はその 編集工学研究所というのはどういう組織な のかというと、株式会社だっていうことは ご存知でしょうか?株式会社なんですね。 で、そうしますとね、あの、署長だけでは なくて、社長というのがいるわけです。で 、この署長と社長は一体何が違うのかって いうことをすごく分かりやすく言いますと 、今日冒頭に松岡さんは、え、宇宙に 日曜日がないんだから休まなくていいって おっしゃった。それから忙しい時には5倍 働けておっしゃった。で、これが言えるの が所長です。 で、これを言うと、え、労働管理なんとか局っていうのに呼び出されるのが社長です。すごく分かりやすいでしょ? つまり別世界にいるか現実世界にいるかでも今日お呼びする安藤社長はこの別世界と現実世界と両方生きなさる方なんです。 でもとにかくこの所長と社長が いらっしゃって編集工学研究所というもの がずっと営まれてきてそしてそこにイシス 編集学校が生まれてあのこれだけの3万人 ものその学習たちが学んでくることができ たんですね。あの非常に憲護な組織です。 え、ですからこの、え、編集研究所がこれ からもど、あの、ずっと続いて欲しいん ですが、そのためにはやはりこの今起こっ てること、これから起こること、つまり あの、こう、私たちは読書を通じて過去の ことをたくさん知りますが、それだけじゃ なくて、未来のことにもちゃんと私たちは こう向き合っていくという、そういうこと が必要ですし、ま、編集工学研究地はそれ があってこ また続いていくという風に思っています。 で、今日はこのアンドア彦社長と、え、 代談をしたいと思います。え、安藤彦社長 よろしくお願いいたします。 で、またあの今日ファシリテーターとして 奥本市販にも来ていただきます。よろしく お願いします。 はい、ではお座りください。 はい。では、あの、社長と所長のことがよくお分かりになった上で、でもあの、私がね、安藤さんの最近の お仕事で 連機、 連機、はい、 連機っていうのをずっとお課になってらっしゃるんですね。 これはあの、週刊エディストで、夕刊エディストで、 え、読むことができます。 はい。ええ、 今13回ぐらい。 そうですね。あ、よく読んでいただいてありがとうございます。毎回読んでます。 ありがとうございます。 で、あの、その中でね、私、あの、こう、特に、え、印象に残ったの、ま、ま、たくさんあるんです。例えば 11 回目の、あの、この心の風の通り道っていうね。 うん。はい。 この時にこの、えっと、下里さん うん。うん。 という方の精生と消滅の精神師っていうね。 あの、哲学書を、 哲学書っていうのかな?哲学士の本でしょうかね。 うん。さていて、私これ読んだんですよ。いうの藤さんのあの務所すごく面白かったんで読みたいと思って初めて読んだんですがこれが分かりやすい。 すごく面白かった。 そうなんですよね。あの下西さんのあの本はね、これ編集学校の方にも是非読んでいただくといいなという思いもあって、丸ごと 1冊紹介したみたいな連にしました。 あ、そうなんです。 心ってどうやって生まれたのかというのは、つまりあの哲学の歴史の中でね うん。うん。そう。 心ってどういう風に扱われてきたのかっていう話で ということは事故自分ということがあのどのように生まれたのかっていう話ですよね。 これ編集工学にとってもすごく大事ないやそう 話題でしたよね。ええ ということでね、毎回面白いですから是非まず連編機をお呼びください。 え、安藤さんのことがよくわかります。 はい、ということでではよろしくお願いします。 はい、では早速始めていきたいと思います。安藤さん、え、田中学長よろしくお願いいたします。 よろしくお願いします。 安藤さんも老記書はこいませんからリミット外していただいて思いっきり自由に語っていただけたらなと思います。 はい。では今日はまさにあの看問の名の テーマでもあります有ブックウェアという ことですので、え、ブックウェアを入り口 としてですね、え、編集力との関係を皆 さんと一緒に考えていきたいなという風に 思います。皆さんお手元のこの エディターシップ、え、お持ちになられ てると思いますけど、この23ページを 開くと本の一系っていうことで、え、各学 省市範市販題がですね、それぞれ思い出に 残る本というものを、え、それぞれ掲げて いらっしゃってます。で、その中で、え、 田中学長が掲げたのは子供時代の思い出の 本ということで、このまさに今学長の右手 にありますヘレンラーをあげられました。 で、安藤さんにもこれ何だろうと思ってお 聞きしてみたんですけれども、安藤さんが あげたのがこの雷の落ちない村ですね。え 、これをあげてらっしゃいました。え、 この辺りの子供幼心の、え、記憶に残って いく本からちょっと話を始めていきたいと 思いますけれども、え、お2人ともにです ね、え、どのような意味で、え、この本が 思い出深い本なのかっていうのを、え、 田中学長から少しお伺いしていっていい ですか?はい。最近、あの、え、勇祭、酒 の上の勇祭っていうYouTube番組を 月1回やってますが、そこでも幼心の本と いうことでちょっと取り上げたことがある んですね。で、幼心の本だと本当にこの 同様絵本だとかいろんなものをなぜか次々 に思い出すんですが、あの文章で読んだ本 として覚えてるのはこのヘレンラーなん です。で、これは7歳ぐらいの時に読んだ と思います。で、何を覚えているのかと 言うと、アンサリバン というその先生ですね、この人が弱死なん ですよ。それでずっとあの眼鏡をかけてる んですけど、ま、ちょっと色のついた眼鏡 をかけ続けるんですけれども、子供の頃 から弱死で、しかも親に捨てられたか親御 さんが亡くなったかで弟と一緒に施設に 入れられるんです。で、そこの施設が ものすごく、ま、昔のことですから劣な 状況で、で、弟さんが間もなく亡くなって しまうんですね。で、そこでずっと1 人で生きていくていう、そういうそこが私はとても印象に残っていて、 ええ、 あのアンサリバンっていう人が見ている世界っていうのかな?これがあ、私が見ている世界と違うんだ。うん。 [音楽] だからね、影のような世界なんですよね。 影こう死ですから全く見えないわけではないんですが、こう世界の影のように見えているっていうそういう世界を生きている人っていうのがあのこの世中にいるんだっていうこと。 [音楽] で、それは何かその心の中まで、ま、弟さんとの関係なども含めて心の中まで何かこう伝わってくるものがあって、 それでちょっと忘れられない方になりましたね。 うん。なるほど。 なんか非常にそういう意味ではその感能したというか、 非常に心に響くものていうのがあったと思いますけど、あの先ほど紹介もあった 100 勝乱の中で、え、松岡校長はブックウェアとはその本にまつわる、え、関係世界一切のものだっていうそんなお話をされていてうん。 ま、そういう意味ではそのヘレンラーの、え、世界みたいなものとその当時幼い頃のアこうウェアですかどこでそれだけ切り結んだ感じになるんですかね。 うん。うん。 あの、えっと、ヘレンキャラっていう人は有名な 人で、ただそのヘレンが、あの、物事に気がつく瞬間って皆さんご存知あると思うんだけれども、井戸の、 ええ、 ところで水 に触れた瞬間に あの、生まれた時にはまだヘレンラーはあの、音も聞こえてたし話ができてたんですよね。で、その時にウォーターという言葉を知ったわけです。 その記憶が蘇えるわけですね。 うん。 それで初めて、 あ、物事には名前があるということに気がつくんです。で、これはあの岡さんの言葉の中にこう私たちは生まれた時からその名前のある世界に生まれてくるっていうそういう言葉がありますけれどもそういう名前のある世界に生まれてくるんだけれどもそのこと自体に気がつかないっていうようなこともありうるわけですね。 だけどもそういう何かヘレンキャラもアンサリビアもそうなんだけれども私たちが思っている世界とは違う世界うん の感覚を持った人たちがこの世の中にいるっていうことの驚きでしょうかね。 ああ、 その切なさみたいなものがこう押し寄せてきたようなことがあったんですかね。え、 ありがとうございます。 安藤さんの方はどうでしょう? はい。あの、そうなんですね。 この雷の落ちない村っていう絵本なんですけど、ま、小学校上がったばっかりぐらいの時だったと思うんですけど、ま、大好きで絵がとても綺麗なので読んでたんですけれども、これですね、途中からね、これとても綺麗なあの色で塗られてるんですけれども途中から白黒になるんですよ。こんな感じで。 あ、本当だ。 で、ある時ふっとなんでだろうと思って母に聞いたら母がこの後ろの解説のところを読んでくれてそうするとこの作者の方はね、ある時癌になってしまったと。それであの息子さんがいらしてその息子さんにこう強く生きててねというメッセージを込めてこの絵本を作ったらしいんですよね。 うん。 で、なんですけども途中でなくなってしまって、そっから以降が色が塗られてないんだよっていうお話をから解説してもらってですね、もうその時になんていうか、何と表現したらいいか分からないものが一気に 押し寄せてきて うん。 で、あの、ま、大鳴きしたんですよね、その時に。 うん。 で、それ以降説明はできないんだけれども、なんだかね、これをみんなの前で読んじゃいけないような気がしちゃって、行けないものを持ってるような気がしてね。 で、遊びから帰ってくとでも大好きな本だから母が穏いこに立ってる間に隠れるようにしてね、あの、窓辺の電気をつけるとバれちゃうから辺の明りだけであの日が落ちるまでずっとページをめくってたっていう 記憶があって なんだかどうもその時にですね、あ、お母さんが死んじゃうと子供って世界に色がなくなっちゃうんだっていう風にくっついちゃったんですね、多分。 なるほど。うん。うん。 それがすごく怖いし、寂しいし [音楽] なんだけど、そのなんか毎日毎日見に行かずにはいられないみたいなっ ていう記憶の残り方がした本なんですよ。 なのでなんかお話の内容もちろんあの、え、この小さな男の子がね、マスラという男の子が雷と戦って村を救うっていうそういう冒険なんですけれども、そのことそのものよりもこの本一殺が持っているなんか物語のようなものに ちょっとガツンとやられたっていうのは 7 歳ぐらいだったかなの時のこと。 まさにブックウェアーとしての作者の行きざだったりとか。 そうですね。そうですね。 ええ。 そういったようなものが全部こうぐっと入ってきたんですね。 うん。そうなんですね。え、 なんかあの本って 作者が意図したこととは違う読み方するんですよね。 違う。ええ。 で、特に子供は心に響くっていうことで言うと、え、楽しい本だけ 読ませればいいってもんではなくて、やっぱりそのつもりで作者が書いたり、親が与えたりしても 違うものを読み取って。うん。うん。うん。そうですね。 なんか今お2 人のお話聞いてるとその悲しさや切なさといったようなどっちかっていうとフラジエルな テーマというのがこうすごく大きく受け止めてるような風にも聞こえましたけれども そうですね。 そういったようなものもやっぱり 受け止めていく力が忘れられなくなる そうですね。 うん。 なるほど。 一時期ね、あの本の話じゃないですけれども、赤い鳥運動とかで野口右場とかがなんでまたそんな悲しい歌をね うん。 子供たにあれだけたくさん作って聞かせたり歌わせたりするのかなっていうのをあ、ある時ふっと疑問に思ったことあったんですけども考えてみたら子供ってそういうものに対してものすごくこう開いていきますよね。 うん。 おそらく私も今ヘレンキャラのねあのアンサリバン先生のお話にあの幼い頃のあの裕有子少女が感じったっていうところもお引きしながらそうそうそういうところの回路を開けてあげるっていうのも うん。 あの、とても大事な本は本来そういう役目っていうのは持っているんだろうなと思います。 うん。そうですね。非常に大きい。あの、本には、ま、ある意味では文字を語彙を増やすとか、子供であれば集中力を高めるとか、ま、いろんな本の行能っていうものがあるとは思いますけれども、ま、まさにその感覚を開くって言うんですか? それも他者に対して、または外界に対してそのきっかけとなるような子供時代の本になってくような気がいたしますね。 うん。あの、今の話に絡む見ますけれども 、あの、田中学長が今度11月ぐらいに なるでしょうか、あの、出す本、新しい本 に不確実な時代の編集傾向入門という本が あると思いますけども、そこに書かれて いる、え、ノベル、文学、文学省を受賞し た反願さんのスピーチがそこに書かれて ますけれども、あちら読ましていただいた 時に非常に、ま、心に迫るものがありまし て、ちょっとそれを皆さんにもご紹介し たいと思います。え、ハンガーさんの 2024年のノーベル賞時のスピーチです 。 最も暗い夜においても私たちが何者である かを問う言葉があります。それはこの惑星 に住む人々や生き物たちの1人称の視点の 中に入り込むように想像するよう促す言葉 であり、私たちを互いに結びつけるもの です。文学を読みという営みは同じく必然 的に聖を破壊する全ての行為に真こから 対立するということですというそんなこと をスピーチでお話しされました。え、ハ さんはこの文学というものを他者の1人称 の視点の中に入る想像力を換ိするような 言葉なんだとなんだというようなことを おっしゃますけれども、この他者の中に 入る一体どういうものなのかっていうこと を、え、少し、え、思うところをお話 いただいてもいいですか?はい。あの、私 はこのスピーチを読んだ時にやっぱり衝撃 的だったんですね。 つまりあ、やっぱり文学ってそういうものなんだっていう改めて うん。 あ、私もそう思ってたけどやっぱりそうなんだっていう風に思ったんですね。な、何かと言うとその読む、例えば読むっていう行為はあのこう対象を理解するっていうことだとかそれからよく学校ではようしなさいとかって言われますよね。次の文章を予約しさなさい。 入試の準備なんかでもよくやりますけど、でも実はそういうものじゃなくてその全く自分とは違う別の存在がその人が何を感じているかを感じ取ること なんですよ。 あの文学を読むと で ハガさんがそのこれ 8 歳かなんかの時の経験としておかになってたと思う。 あの、スピーチなさったと思うんだけれど も、そのとでの文学者になっていくんです が、その基本のところにこの 同じ雨を、え、にさらされているう子供 が見えた時にその人になっちゃうんです。 うん。で、なっちゃうんですよ。それで、 ま、自分も濡れているのを感じるけど、 あの人もそうなんだ。 この隣にいる人もそうなんだ。個別に 1人1人感じてくんですね。 うん。 それでそれってありうるのかって言うとありうるんです。 うん。 これあるんですよ。私も何度かそういうの経験したことが あります。 うん。 ですからこれ想像力の問題とちょっと違うなって思うことがあって うん。 その瞬間になっちゃうという 言い方が1番いいかしらね。うん。 で、それは入ってしまうっていうことなんだけれども、え、 で、そのことをあの共感と呼ぶのかなんか分かりませんが、でもハンガンさんはとにかくその瞬間に、え、そうなんだって思った。それでそのことがすごく大事なんだと思って。 うん。うん。 で、その、それを言葉の意図として自分が取り出して相手に渡していくっていうことや相手からその言葉の意図を引き取っていくっていうことで繋がっていくことができるんだってこと確信するわけですよね。 ええ、 だから言葉以前のところで共感してるんだけれども言葉でそれができるっていう風にも思ったわけです。 うん。うん。 で、これが私やはりその文学の出発点なんだろうという風に思います。 うん。 今その1人1 人になっちゃうっていう、その 1人1 人っていうところがすごく大事なような気がして、 その雨に濡れて大変だなとかっていうことよりもその雨に濡れてその時その場に言わしているその瞬間のその人のこれまでの腰し方とこれから行く方または、え、今の 状況っていうものが1 つの束としてまたはコンテキストとしてこう流れ込んでくるようなものを感受するみたいなことだと思うんですけれ そうですね。それがこう単なる共感とは違うっておっしゃったようなニュアンスな気がするんですが、その辺りはどう? あの、えっと、私かやっぱり実際に 経験したことがあって、あの、中国で半年ぐらいクリアしてたことがあるんですが、その時にその、 地方に行った時、 あの、大体同年齢と思われる女性が竹を 5本ぐらい肩に担いで歩いてたんですね。 それすごい重いですよ。それでもう本当にハーハーと息をさせながらこの土手を歩いているのを見た時にその人の人生が見えちゃったんです。 なるほど。 で、これが何なのかがよくわからないんだけれども、 あ、 この人は私だったかもしれないとかね。 ええ、 で、同じような感覚を持ったのが、あの、石村み子さんの方を うん。 私はずっと読んでるんですが、石子さんの方が何がいいかって言うと、石さんもおそらくこれ持ってる、そういうもの持ってるんだなと思って、 あの又病、対治又病の患者さん達って私と同じ世代なんです。そうすると、あ、私はここに生まれてたら同じだったかもしれないっていうことをすごく強く感じるようになったんです。 うん。 ですから、あの、それは、ま、言葉を通してだけでもいい方法で私たちは感じ取ろうと思うと、 なるほど。 感じられるじゃないか。 ええ、なんか先ほどのアンサリバンさんの 人生を文学っていうものだから感じた こととすごく繋がってるような感じはいたしますね。 うん。うん。 安藤さんなんかはどうですか?今このう ん。1 人称の視点に入るという話で、ま、ある意味では うん。 編集工学なんかもそういった要素を多分に秘めてるように思いますが。 そう。あのまず今ね、お話ゆ子先生のお話伺ってて、さっきこのお話したこの本をね、そんなに怖いし悲しかったのになんで毎日毎日あの親に隠れてまで見てたんだろうっていうのを今は分かったんですけれども、このマスラおって男の子に私は多分なっちゃってたんですよね。うん。 だから寂しいし怖いんだけど、なんか多分お母さんのところに行きたいとか会いたいとか うん。 あの、そこから目をそらせない何かっていうものに入っちゃってたんだろうなっていうの今お話伺ってて、 あの、とてもハッとしたというのと で、そういうの、ま、今お話だいたような想像力というものよりもはるかに早い うん。 あの、センサーというか、 あの、そういうもの私たちは本当は常に 持ちながらね。 うん。え、の遅いうと日々暮らしていると で、あのいうようなところにあのいるんだろうなと。 で、おそらく松岡さんが編集工学というものを作ってまで解きたかった ものっていうのはその微サイなところのうん。うん。 あの何か言うよりも早く感じてしまうっていうところがこれがどうなってるのかな。 うん。 おらく考えたんだろうなということと今日 1 日拝見しててもね、もう本当に素晴らしかったですけど皆さんこういう意シス編集学校というなんていうこういう生態語と作ってね。 [音楽] で、そうするとこういう中にはうん。 創造力よりも早い何か交換っていうものが今日もいっぱい起こってたと思うんですけれども、 それをこうして対現するところまで松岡長やられたっていう風に言ってもいいんじゃないかなと思うんですね。 うん。うん。うん。あの、今お話された その、ま、考えるよりも先に感覚的にも 響き始めるっていうそうっていうのは やっぱり本ならではで鍛えられていったり とか伝えらあの 鍛えられたりとかまた伝えていったりとか いうようなもの本ではいのは何かあります か?それはあるかもしれない。 例えばじゃあ本を読まないでずっとテレビを見てるとそういう感覚って本当に出てくるだろうかとかっていうのはちょ分からないですよね。やっぱり本で本は絵本であって絵本であっても [音楽] 言葉読んでますよね。読んでますよね。で、私もあの同様絵本とかそういうのもすごくあの印象に残ってるんですがやっぱりそれは歌ですから言葉読んでるんですよね。 ちょっとやっぱり絵は乗っているかいないかじゃなくって言葉でこう感じ取るっていうのは知的に理解するというのとまたなんか別の うんうんうんうん 側面があるんじゃないかなっていう気がします。 そうですね。今お話聞いてその例えばビデオとかそういった映像で来るのはあくまでこう目に飛び込んでくるところもあるで非常に自動的な 部分もあるのかなと。 ただ本っていうことになるとやはりこちら側が用構えに入らない限りは入っていかないっていうこと。またはそのストーリー的なものが非常にま、物語的な対応性を持ってるっていうことでいいくとやっぱり本の可能性っていうものをすごく感じますね。 うん。ええ、あの有祭であのロランバルトを取り上げたことなんですがその時にもねロランバルトもそこはよく分かっている人でうん。 あの、本は、え、あの、言い方してますが、端的に言うと、本は本屋にないみたいなことを言うんですよ。それな、なんでかって言うと、その、あの、本というのは自分で入ってくもんだから うん。うん。 で、入りながら自分の中で作っていく ものだから。うん。 で、読むってそういうことだから。だからその自分がの中に作り上げられていく世界は本屋には並んでない。 うん。うん。 うん。ていうそういう意味なんですね。ですが、この人はこうそういう見方してるんだってのわかります。 ええ、あの、そういったこう今のお話と先ほどのハガさんの お話に戻るとその性を破壊する全ての行為に真こから立するということが文学を、ま、読み書くことであるという風に言ってるんですが、この辺りのその性を破壊する全ての声に真こする、ま、あの、ま、向かって対立するものに対して向かってくるんだってすご 強い表現だと思うんですが、あの、文学のそういう可能性、本や物語のそういう可能性っていうのはどんな風に考えてらっしゃいますか? あの、それハさんの場合にはもういろんな あの、韓国は軍事政権の時代には本当に暴力的な国でしたから、今は違うけれども、 でも目に合ってるし、いろんなことを感じたわけですね。 そうするとそこで言ったの暴力とか戦争のことなんですけれどもでもあのそういうものがその本がなくなるっていう話だけじゃなくって 生命がなくなるっていう話でということは 本は生命であるっていうことを言ってるのと同じように聞こえます。 うん。 ありがとうございます。 安藤さんなんかも編集の編集学研究所の方では先ほど紹介になった本能連とか または理科学研究所とタイアップした科学とか そういう意味では社会に対してえ本っていうものを 1 つのまイテムにしながら切り込んでいっているっていうことだと思うんですがそういう社会的なニーズとかそういったものが求められる背景みたいなものって色々 タイアップされてどんな風にお感じされなってます。 そうですね。 あの、社会的なニーズっていうことをね、あの、ま、え、株式会社の社長の立場として申し上げますと、 そこからおそらく考えていくと普通に考えれば本ではないかもしれないんですよね。 うん。 で、どちらかというと編集航研究所の活動っていうのは、えっと、社会のニーズがあるところに向かうというよりも、まさに今あのお [音楽] 2 人お話しされていたあるものに抗うというか、え、 あの、もしくは失われそうなものをとても大切なものを取り戻すと言いますか、 あの、そこに向かってただ同時に経済も成立させるという あのことをやっているので、ま、本の例のような形だったり学 100冊になったりしてるなと。 という風に思ってるんですけども、その前提でちょっとだけ添えさせていただくと私もね、そのなんで本にこだわらなきゃいけないかというところは、ま、色々な方々にもあの聞かれたりとか自分でも考えたりするところなんですけど、まずもってその本を構成している裕子先生もよくこれが大切だとおっしゃれるって言葉ですよね。 で、これはあの映像として伝わってくる ものや、えっと音として伝わってくるもの とは違う目でこの猛膜でキャッチして読ん で意味を取るというその言葉という単位と いうのはあの先ほど もねこう想像力の話とかて色々なりました けれどもこちら側で動くイマジネーション の量っていうのが入ってくるインプットの 情報量が少ないほどえっと情報量の例えば ですよ言葉1文字につったらも16 ビットですよね。 その1 文字によって、もしくは数文字の並びによってこっち側で起こるイマジネーションっていうのはすごく余地があるわけですよね。 なので同じ本読んでもみんなうん。 思い描くものが変わると。 で、ここがとても大事じゃないですか。 [音楽] うん。 で、それがあの映像もちろんね、あの松岡さんも映像も大好きでしたし、あのメディアとしては絶対に必要ですし、素晴らしいものだと思うんですけれども、こと私たちのイマジネーションっていうことで言うと、やっぱり入ってくる情報量の密度が高ければ高いほどこちらに余地を残すのがとても難しいわけですよね。うん。 そうすると本っていうのはここまで感素なと言いますか言葉の文字の羅列とそれをま、ダブルページで閉じられているとでそれが同じようなフォーマットでわーっとあると うん。 で、これをじゃあ自分がどういう世界をそれによってここに描くかということの自由度が非常に高いわけですね。 うん。 そうするとこの自由度の中にこそ編集力が動く ところなので これを私たちは手放してはいけないなと。 うん。 で、今日おそらくこの後AI の話とかにもなると思いますけれども、特に AI なんかが出てくるとこの余地の中で働く編集力っていうのを どうその環境を私たちは日々の中で確保したらいいのかというところがとても多分これからます大事になって、 その時にやっぱり本っていうのはね、 今のようなあの理由から最強だなっていうのはやっぱり確信してます。 なんか今のお話もう少しあの突っ込ませていただくと その編集学校がスタートした時に 松学校は戦屋をスタートさせてますよね。 はい。 そうした意味ではその編集学校というものがなぜここまでブックウェアにこだわるのかっていう そこを今のお話の繋がりから行ってどんな風に考えます? そうですね。いや、やっぱりそのえっと先ほど奥本さんもおっしゃられていたその能動的に取りに行かなければいけない。 このロランバルトの話でもね、あの結局そこに何か全ての世界があるんじゃなくって読者と交混じるところに 読者の側にあの世界があるという風に考えるとやはりさっきの話の繰り返しになりますけれども私たちの非常に扱いにくい捕まえようとするとね今日もホタホタってキーワード出てましたけれどもこうやってあの持ち運ばないと壊れてしまうような感性 でも感受性も含めた編集力というものをみんなで交換しながらですよ。しかも交換しながら、え、一緒になってそれを育ててくという風にした時にやっぱり何かね、器がいるんですよね。きっと。 [音楽] うん。 想像力の器ってんですかね。で、その時にそのここにもたくさんあるその本っていうものの包容力ですかね。 私たちのイマジネーションに対する本が持っている法容力というものを おそらく松岡さんはものすごく 確信が最初からあったんだと思うんですね。 なるほど。 うん。今、あの、まさにちょっと話が出て ましたが、そういったその微妙な ニュアンスであったりとか、その器にも おられるようなこともすればこぼれて しまいそうな余白とかそういったような もっていうのが先ほど話のあった通りAI っていうようなものを使っていくと外善性 の高い、ま、編集が行われる中でこぼれて いってしまったりとか気づかずに、え、 もうそこさえも見えなくなってしまうって ことがあると思うんです。ただ一方で田中 学と安藤さんはAIを自分の能力を生かす 道具として使いこなすという点で、え、 同じ考え持たれていらっしゃると思ってい て、ただそのためには田中学長はもっと 編集能力を自覚することが必要だっていう おっしゃっていて、安藤さんはAIと人の 共像関係ですね、鏡に移ったお互いの姿を 見合えているような関係を外側から捉える メタレベル の回路が必要だって公演されてますけれども、え、 AI 時代の編集能力っていうものをどう捉えてるかっていうことを学長なんかはどんな風に考えてらっしゃいますか? あの、まず今AI 使いこなせてはないと思うんですよ。 うん。 まだ何かこう検索して調べるとか辞書引くみたいなあと翻訳やってくれるみたいなやり方なんですけれども これ本格的に使うということになるとどうやったらそこに引っ張り込まれないで うん むしろそれを自分の中に入れてあの構築何かに使いこなしていくかっていう時が来ると 思ううん。 ので、え、プロセスが見えない ていう時だったんですよ。 今見え、見えてる、見え始めてる、出始めてるって聞いてるんですがプロセスが見えないっていうのは 1 番問題だと思っていて、その何を、そ、結論を AI が出しす時にどういうものを対象にして選択肢として並べてその中で 1 つ選んで結論をパッと出ししてくるのかが見えないと うん。 その捨てたものが見えなくなる。 結論出す時に捨てたものがあるはずなんだ けど見えなくなる。それがすごく重要重大 な問題なのだというようなことをこのの中 には書いてるんですけれどもでも だんだプロセスも見えてくるように なななるとすると今度問題になるのは人間 の側のが判断しなんだよね。 で、そうするとその人間の側は自分はの頭はどう動いてるのかとか、それからさっき言いましたようにこれは単なる思考力の問題じゃなくて うん。 自分の心はどう動いてるのかっていう問題。じゃあ心とは何かとかね。うん。 さっきね、あの話題にしたその哲学士が言ってるように心というのはそもそもはなかったって私から始まりますよね。 の神が自分の中に入ってくるってとこから始まっていや、心は事故なのだっていうところまで哲学の歴史が行くわけなんだけれども、そうするとその時に AI と向き合った時に自分が持ってる心とは何かっていうこととぶつかっちゃうと思うんですよ。うん。うん。 で、それを私たちは何らかの方法で知っていなきゃならない。 うん。 でもそれはさっきあのから言ってるように知的に論理的に知るだけでは無理。 [音楽] なんだから、え、 あの、自分の心の微細な動き、それから共感、他の人どう感じているかなどなども含めたそのものすごく複雑な心の動きっていうことを 知りつ AIを使うと なるほど。 いう領域にまでいかなきゃないとなると 私たちの能力がもっと高くなくちゃいけないという編集能力がね。うん。 え、感情まで含めた編集能力に高めていかなければならなくなると思うんですよね。ですからそういう意味で今こそその編集力というものがあのこう求められてるしそれは いわゆる例えば松岡さんも本の題目で地の編集工学とかって言うけど今まで私たちが言っている地とか知識とか学校で教わる知識の積み上げ型の知識というのとは違うわけですよね。 ですからそういう違う地というものを私たちは自格的に持っていかないと AI は使いこせないというに思ってなるほど。 あの、今引っ張り込まれないという話がありましたが、その引っ張り込まれないっていうのは先ほどちょっとご紹介した安藤さんがおっしゃっていた外側から捉えるメタレベルの回路っていうその距離感とかその間をどう作るかっていうことにも近いような話に思いますが、この 外側から捉えるメタレベルの回路って何ですかっていう これね、これ皆さんで考えたいんですよね。 あの、えっとですね、ず編集学校の種でやるお題なんかっていうのは私はその回路って言っても 1 本の太いものではないと思うんですよ。微サイなとても細い線もあるかもしれないけれども、そういうものの束だと思うんですけれども、先週学校の週で皆さんがお稽古されたようなお題っていうのはそういうものを自分の中に保持しておくための うん。とても強力な、まあ、なんというか 命綱に近いものじゃないかなっていう印象 もあるんですけれどもというのもですね、 今裕子先生おっしゃられたような心のよう なあのどうとも捉えがものていうものを 自分の中で自覚をしたりですとか感じたり とか自分の心で自分の感じるというのは とても難しいことですね。で、その難しい ことを、えっと、松岡さんは石選手がこの 1番入門コースで作ってるわけですね。で 、しかも皆さんそのお題をやりながら最後 に毎回振り返りをしますよね。 で、おそらくその振り返りっていうこと自体は例えばなんかワークショップやっても 1 日の仕事やっても振り返ることはできるんだけれども [音楽] なぜ意思編集学校の種の中もしくはあのコースの中で振り返るとこんなにも自分の思考プロセスっていうのを逆に戻っていけるのかって言うとおそらくお題もしくは市販題が言ってくれることっていうのが自分自身の思考の中のプロセスっていうのに入り込んできてくれてるからだと思うんですよ。うん。 で、それがその環境があるので、自分の心や頭やもしくは体の感覚っていうのに何が起こっていたのかということを たどれるわけですね。うん。 で、これはものすごくミクロなリバースエンジニアリングを自分に対してできてるということなんで、この技能っていうのは私は AI時代には本当に大事だと思うんです。 うん。 で、あの、それがあった上で、え、私たちは何かを考えたりだとか、もしくも作ったりだとかっていう時に裕子先生が先ほどからおっしゃられている心っていうものを どうそれを先動させながらあのうん。 地っていうのはこれもあの裕子先生のお話の通りもうもはやですね、どこにあるかわかんないですよね。 うん。 で、誰のものかもう分からなくなってます。 で、なので、えっと、地というものが守護的にあるんではなくって、あくまで皆さんの私たちの中の心というものがどう動きたいのかっていうことが うん。 いよいよ、えっと、本来人間はそうだったんでしょうけれども、ぐるっと回って AI が出てきたことによってそこが先に行かなきゃいけないっていう時代にもう入ってるんだと思うんですね。 うん。なるほど。 なんかその心や地も含めて、ま、自分の認識もそうなんですけど、あの、自分自身があまり強すぎると逆にそういうものが見れないっていうような逆の意味での 難しさっていうのがあると思うんですけれども、自分を理解しなくちゃいけないんだけれども自分自分になっちゃうと見えなくなるっていうその辺りどういう風にその外側に出るのかっていう何かお考えになられてることありますか? [音楽] 私ね、その13回連機の13 回目ですごく大事なことをおっしゃって、これ私の理解で 2つおっしゃってんの。1つは 見立てにジャンプする。 ああ、もうそうなんですか。 ことだ。 でね、アンドさん書いてで、もう 1つは 事故を熟にする。 うん。 で、この2 つようやくするともっとたくさん書いてらっしゃるけど、ようやくするとこの 2つを書いて、 これがこれを今日は聞きたかった。 ありがとうございます。 今日もね、三富士っていうキーワードが出てたりとかして、あの、本当に編集学の中では軽い遊びのように見立てっていうのが出てきて、あ、こんな最初に見立てを出すってのはやっぱさすが松岡だなとかいうのを後になってから思ったわけですけれども、 あの、見立て、えっと、結局なんて言うのかな、自分とその対象物っていうのをこう同着してしまう、くっついてしまうところていうのは外せる技能なんですよね。 で、これはもう社迦に切法なので、江戸市内なんかはもうそれで本当にあれだけの文化ができたっていうところでは是非補足いただきたいところですけれども、その先ほども出ていた AisBではなくてAアという風に見る これも1 つの技能でそれが見立てという風に日本では呼ばれてますけれどもこれを AI との間でえっとお互い見立て合うような関係を作っていけると えっと1 番なんてうかやっちゃいけないというか怖い のはAI に答えを出してもらうっていうのはこの構えは本当にやめた方がいいと思うんですね。あっという間にぐるぐる巻きになってしまうと思う。 なんだからエコーチェンバー そうです。エコーチェンバー現象がAI と自分の間だけで起こってしまう。 エコーチェンバーっていうのはそのえっと自分が走っているものっていうあの音とか言葉とかっていうものが全部自分に帰ってくるっていうことですね。 うん。で、なので、あの、AI に恋愛相談をしても、あの、仕事の組み立てお願いしても、どう使ってももう本当に構わないし、本当に使い倒すべきだと思うんですけれども、その時に、お、そう来たか、じゃあこっちはこう見立ててやろうかみたいな、そのずらしていくっていうことを AI との間でやるっていうことはまず意識した方がいいんじゃないかなと。 うん。うん。で、もう1 つのその術語的になるっていうのはこれも編集学は非常に大事にしていることですけれども、 あの先ほど久さんおっしゃられたようにね、強い事故で受け止めようとするとこれはね、色々なものがしんどいですね。 うん。うん。 で、AI の強さったらこれはもう大変なところまで来ているので そうですね。 そうなんですよ。もう試び1 つないっていうところまでGPT5 なんか来ちゃっているので そうするとそれを強固な事故で受け止めようとするとねこれは途端に関係がおかしくなっていくわけですよね。 だけど人間の想像力っていうのは皆さんがたくさんの私でやられたようにどうとでもなれる 自分というセルフというものもどうとでもなれるという状態でずらしながら AI が出してくるものっていうのとこう交換をしていくっていううんうんうん でそこに自分はあの偏変事在になれるという風に思っておくとむしろ AIに変な染まり方をしないで あの使うっていうことはまずそ それが今私たちにできるあるなんて言うんですかね?防御兵器というんですかね。 ええ ななんじゃないかなと。ですね。あの SNS でも私たちねチェンバーというのをこう経験するわけだけど最近アメリカで自がなった AI にのせいで自っていうんで裁判が起きてますよね。 [音楽] でもあれはることだろうと思うんですよ。エコーチェンバーが起きちゃって自分と対話してどんどん追い詰めてくみたいになるんだと思うんですよね。 で、そういうようなこと、例えば私もあの 、え、翻訳なんか使で色々と使ったり、 調べ物使ったりするんですが、しばらく 使ってたらところで先生はこれについて どうお考えですか?て聞いてくるんですよ ね。 それで私は何度も先生はとどうして私のことを先生と呼ぶんですかて AI に聞いたらや今までこうねどで出てきた言葉とかそういうところから考えて多分先生だろうと思いましたって うん え他の呼び方の方が良ければそうしますって言うから じゃあ裕子さんと呼んでくださいって今裕子さんにしてますででもその経験で私あれエコチェンバー の1つだと思いました。 自分が発している情報から相手が判断してるとこですよね。で、これはものすごくなる可能性がありますよね。 うん。そうですね。 本当にそこはね、あの、その連の中でもね、グレゴリーベートソンがあのいいた分裂成っていう考え方をちょっと引いてあの書いてるんですけれども お互いがお互いにこう AI は別に自分に依存してるわけではないですけれどもある依存関係っていうのが さっきもぐるぐる巻きて表現しましたけどもうものすごく意を引っ張り合うようにきつくなっていくんですよね。 で、そうなるとね、もう自分ではコントロールできなくなっていくっていうところに入っていくと、それが、ま、依存症とか例えばね、薬とかあのアルコールとかっていうことで、あ、いけないものとして問題になってきたっていうのは今までもあると思うんですけれども、それが別にないものとも思われてない AI のようなもので、そういう現象がもう十分起こりうるところにあっという間に来ちゃったっていうとこなんですよね。 なので1 つには私たちの編集力っていうのは、えっと、そういうものから自分自身というのをどう保っていうところの、 えっと、あるこう生体膜のような先ほどもちょっとセルって話出てましたけども生体膜のようなものとして編集力を常に携さえとくっていうのは 1つには守りという意味でね、え、 あの、大事なことじゃないかなと思います。 うん。うん。 あの、守るという意味でのその生体の薄いものと逆に言えばそのベイトソンの分裂成のはある意味ではナに伝わる習慣として [音楽] あるそのお祭りの時期になるんですかね、あれは。その時に男性が女性の役割をし、女性が男性の役割をする。大人が子供の役割をし、子供が大人の役割をする。 そういうことを通じてある意味での強固なバインディングの状態を外しに行くっていうことだったと思いますけれども、 あのそうした先ほどの文学の話にも近いなっていう風に思ってまして 他人の1 人称のストーリーの中にいかに入っていくか うん でそういうことのベースを通じながらさらにはそこに見立てのずらしとかを通じてえ編集をま直していくというかそういったような新しいう AI のみたいなものが生まれてきてんのかなっていう気がちょっとしました。 うん。 なんかすっかりいい時間にもなってきましたので、ま、最後ですね、 あの、ま、この編集学校出たからこそ学習の皆さんに、え、今後どんな、え、編集力っていうもの、またはブックウェアっていうものを OS として考えていく時にそれを活用して、ま、いかに、ま、おそらくは変化っていうものを打ち出してそこの中での可能性に溢れた社会を、ま、作っていくっていうことに繋がっていくような気が しますけれども、こうどんな期待があるかっていうそんなことをお 2 人からそれぞれお話だいていいですか?じゃあアドさんから行きましょうか? はい。 ありがとうございます。 あの、先ほどね、その編集力という点で、 ま、守りという意味での編集力というお話 はさせていただいたんですけど、私はね、 今ね、大いに攻める時期じゃないかなと 思ってまして、というのもですね、あの、 松岡工がこの編集工学という言葉を作った 時が、ま、あの、80年代でしたけれども 、数年前にあの、松岡さんとこう雑談をし てる中でところでなんでずっとメディアを 作ってたところから編工学っていうのを 作ろうと思ったんですかっていうアホ みたいな質問をね、あの、したんですよね 。で、そしたらそん時やっぱりあの松岡 さんおっしゃってたのはいや コンピューターが大きかったんだよねって いうのをおっしゃっていてコンピューター が出てきた時にま当然あの好奇心の塊です からぶわっと見に行くわけですよね。で、 これは何だと。で、そうすると、じゃあ 自分たちコンピューターが相当なことでき ちゃうな。じゃあ自分たちがあのできる ことや本来人間がやってきてることって いうのは何なんだろうなということを えっと考えていく中で当然それは編集と いうキーワードなんだけれどもそれを 読み解いていく中で工学ということが必然 的についてきたっていうことをお話しして くださったことがあってあそうやって編集 が生まれたんだとその時は思っていたん ですけれども最近のねこのAIのあのこの 加速度を見るにつけですね、あ、それが もう1回やってきてるなという、え、 気持ちがしていて、要はですね、AIを、 ま、皆さんもお使いになったり色々 ニュースで見たりされると思うんです けれども、それによって例えばですよ、 私たちの仕事が何が奪われるかとかって いうことをメディアは言いたがるんだ けれども、あ、ここも言っちゃいけないん だけれども、そこが大事なんではなくって 、私が今やっている仕事っていうのは 例えばお医者さんだったら ね、あの、見立て、それこそ見立てたりだとか紋信をしたりだっては AI がすごく上手にやるっていう風にもなっていると。え、だとするとお医者さんって何だろうとか、あ、だとすると教師って何だろうとかみんな考えざるなくなるわけですね。 うん。 で、それをもう1歩メタで1 歩引いてみるとじゃあ人間って何だろうっていうところになるわけですよね。 で、これはAI があるおかげで、えっと、先ほど今日冒頭にお話に出ていたその想像力ももっと早い感じる力だったり心だったりというものも全部含めて一体私人間って何かしらと うん。 いうことをもう1 回なんて言うんですかね?組み立て直して なるほど。 で、それを組み立て直すという言葉はそれを社会に及していくことができるわけですよね。 うん。うん。 で、その今は未のチャンスが来てるなっていうのを思うので うん。 えっと、今こうずっとなんとなく良くはないんだけど社会がここまで破綻もせずに続いてるっていう ところにあって AI っていうのがそこを何かですね、えっと、切り裂いていく うん。1 つのキーファクターとして出てきてるなという印象があって、その時にじゃあ誰がそれをやるのかっていう時にやっぱり編集力を鍛えてる人ですよね。 うん。うん。 そういう意味で、あの、攻めっていうのはね、これは是非皆さんに共闘していただきたいなと思うところなんですけれどもうん。 あの、そういう風にも見ていますというとこです。 なんか自分っていう話がも出ましたけど、その自分をっていうことよりかは そういった他者との関係性の中でオントロジカルに 存在論的に何か自分をダイナミックに 新たに位置づけ直すとかそんなチャンスが逆に来てんじゃないかっていうことですね。 本当そうだ。 でもそう、そのさんおっしゃるように存在論的に様々なものを捉え直す、え、またとないチャンスいう風に持ってい。 ありがとうございます。 で、田中学、 あの、だからAI に対する好奇心は抑えなくていいし、私も大好きだし。で、デジタル全体ですね。私は実はね、本はデジタルで読む人なんです。事情があってそうなったんだけど、だからブックウェアにのすごさに気がついたんですね。 [音楽] つまり本のものとしての本はどういう風に自分に呼びかけるかっていうことをあのもっと強く感じるようになりました。そのこの紙の本 のねがこうやって並んでいる本がだからそういう風に考えた時にあ、本は中身だけじゃないってことがすごくこう実に分かってきたというようなことが起こるんですよ。 だからデジタルにも AI にも好奇心を持ち続けるってことはすごく大事ででその時にアドさんがおっしゃったようにそれは自分を問う うん ことになるんだと思うんですよね。 でそういう中でもう 1 つ問題があるのは社会です。社会に対して私たちはどういう風に向き合ったり荒がったりするのか本当にあのこれからどうなるか分かりませんよ。 日本の社会、例えばアメリカの社会って どんどんきつくいろんなことを締めつけ 始めましたから日本もそうなるかもしれ ません。その時私たちどうするのかって 言った時に今までだったら例えば右と左だ とかあっちとこっちとか適とか2つに 分かれてで争ったよおしまいみたいなどう にもならないでおしまいてなっちゃって ましたね。もうこれやってるわけにいき ませんですから。そこの時にも実は編集力 なんです。で、どういう風にそのここは どうしても譲れないっていうことを誰かと 話し合って、それはその都度いろんな人と いろんな組織とあるいは人と話し合ったり 、あるいはあのそれを示す行動をしたりし なかったり、生命を出したり出さなかっ たり方法があると思うけれども、いろんな 方法を試さなければならない時代になっ てると思うんです。社会に対しても。 で、その時にも私はすごくね、この、え、自分は正しいじゃない うん。うん。 私は正しいということじゃない方法。相手も相手として正しいっていう風に思ってるわけだから。うん。 そのままさに間ですよ。 そうですね。 うん。だ、間っていうあのプロジェクトすごいと思うんだけど はい。 その間をどうするかっていうことが これからは問われると思う。 うん。はい。ありがとうございます。はい。 では時間になりましたので、え、これで 終わりにさせていただきますが、あの、 ブックウェアというものが、ま、ある意味 ではOSになって、で、その上で編集って いうものが載った時に改めて、ま、AIも 1つの、え、ツールとして考えた時の本当 の編集力みたいなものが発動していくん じゃないかと。まさにそれは逆に言えば 機械であると非常にあの心を強くしました し、もっとブックウェアの使い方を考えた いった方がいいなっていう風に僕自身思い ましたし、なんか編集と合われから も頑張っていければと思います。では以上 で対談の終わりにしたいと思います。 田中学長安藤さんどうもありがとうござい ました。ありがとうございました。

イシス編集学校 第89回感門之盟「遊撃ブックウェア」では、田中優子学長と編集工学研究所社長・安藤昭子が対談しました。
進行はイシス編集学校[守]基本コース師範の奥本英宏。

「なぜ本を読むのか」「本はなぜ大切なのか」――それぞれの読書の原風景も交えながら語り合います。
感門之盟ならではの熱気ある雰囲気とともに、お楽しみください。

#編集工学 #イシス編集学校 #田中優子 #安藤昭子

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