悲しみを抱えた期間工の青年の日常と秘密を描く、第16回小説 野性時代 新人賞受賞作『降りる人』(木野寿彦著)が、9月26日(金)に発売となりました。
今年3月に行われた選考会では選考委員の方々から非常に高く評価され、発売前より書店員さんからの熱いコメントも続々寄せられている本作。その発売を記念して、冒頭の第1章「春」を特別公開いたします。
力強くもなく、寄り添うわけでもない。でも否定せず、あなたの隣にいてくれる。この小説に救われる人が必ずいる。そんな確信をもってお届けする、一筋の光のような人間賛歌です。
新たな才能の門出に是非ご注目ください!

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木野寿彦『降りる人』試し読み(4/4)

 部屋に帰り、食事や風呂を済ませた。浜野に「作戦会議をしよう」とショートメールを送ったが、「相手がどう出るかわからんのにやっても無駄だ」と返された。
 九時五十分に浜野の部屋のチャイムを鳴らした。五分ほどして浜野が出てきた。手に残業パンを持っている。
「なんでそんなもの持っているんだよ」
「手土産にいいかな、と」
「刺激するだけだからやめておこう」
 浜野がパンを部屋に放り投げた。
「いやしかし、自慰の最中にチャイムが鳴ると、息子の角度が120度くらいになるな」
「そんなに余裕なら君が話してくれよ」
「口下手なのは知っているだろう。お前がメインで話してくれ。適宜サポートする」 
 田中さんの部屋は壮絶に汚れていた。衣類が何枚も折り重なり、雑誌や食べかけのジャンクフードがそこら中に散らばっている。そして、菓子パンの袋が滓おりのように積もっていた。
 迎えた田中さんの顔はアルコールで真っ赤だった。なんとか座るスペースを確保して、我々は田中さんの敵ではないが、ひとまず残業時の諍いさかいをやめてもらえないかとお願いした。
「お前ら、俺について何か聞いているか?」
 田中さんはこちらのお願いを無視してそう言った。なんと答えていいのか言いよどんでいると、田中さんに指さされた浜野が「田中さんには良くない気質があると聞いています」とハキハキと答えた。
「なんだそれ、オブラートに包んだつもりかよ」と苦笑した後、「やっぱりそうか」と言って田中さんはうつむいた。
 浜野を見ると、そわそわした様子で部屋の中を見回している。田中さんがいらだちをにじませながら尋ねた。
「なんだ、俺の部屋に文句あるのか?」
「いや、散らかっているなと思って」
「お前に関係あるかよ」
 田中さんの機嫌が見る間に悪くなっていく。しかし、浜野は落ち着いた様子で言った。
「今夜燃えるゴミの日ですよね。まだ間に合うんで俺がゴミ出ししてきますよ」
 田中さんはしばらく考えて、「勝手にしろ」と言った。浜野は落ちていたゴミ袋に手近なゴミを突っ込むと部屋を出て行った。パンの袋はそのまま残っていた。メロンパンとあんパンの袋ばかりだった。
 田中さんは、頭をかいて「あいつらには一度理屈を聞かせようと思うんだ」と前置きして続けた。「結局盗みっていうのは、所有者が決まっているものをかすめ取るってことだろ。あのパンの所有者は誰だよ。それは手に取った者だろ」
「…………」
「一人一個の権利しかない。一つ手に入れたら権利を失うっていうんなら、ちゃんと明記しておけよな。どこにも書いてないだろ」
「僕もルールを誰かから聞いたことはないですし、書いてあるのを見たこともないですね」
「そうだろ!」
 田中さんの唾つばを顔面に浴びながら、とりあえずうなずいた。
「あんたもよくないんだよ。いらないならいらないって、俺に譲渡しますってはっきり意思表示してくれなきゃ。はじめからそうしてくれていれば何の問題もなかったんだよ」
 返事ができなかった。田中さんがいくら持論を述べたところで聞く人はいないだろう。社員が求めているのは議論ではなく、謝罪と服従なのだ。
 扉が開いて浜野が帰ってきた。田中さんは浜野に「あんたもそう思うだろ」と言った。浜野は「へへえ」と返事した。
「あんたもここに座ってくれ」と言われたが、浜野は「せっかくなんでここらの全部持っていきますよ」と言って、ゴミを再度集めて出て行ってしまった。
「赤城がなんでパンのこと言い出したか分かるか?」
「いいえ」
「俺が休み時間明けに注意したんだよ。時間ぴったりに作業始めるのがルールだろ。それは社内でみんなが守っていることだ。だけどあいつはチャイムが鳴ってもへらへらおしゃべりしながら準備始めやがったんだ。俺はとっくに一個作り終えて待ってたから『遅おせえぞ』って言ってやったらふてくされやがった。それの仕返しなんだよ」
「今まで何も言われなかったのに急にどうしたんだろうとは思っていました」
「そうなんだよ。ふざけやがって。あいつらは俺たちをなめてんだ」
 田中さんは飲み干した発泡酒の缶を握りつぶした。
「あんたも分かっているだろう。あいつらは俺たちを徹底的に馬鹿にしている。あんたはさ、なんで俺たちがやるような単純作業を機械にやらせないと思う? 人間が必要なんだよ。クソみたいな昼夜逆転シフトに耐えるためには、目の前に見下せる人間がいないと正気を保てないんだよ。要するに、俺たちはあいつらの正気のためにいるんだ」
 田中さんの言葉を考えてみた。確かに、社員から馬鹿にされたりなめられたりしていると感じることは多々あった。だが、それは期間工だからではなく、個人の資質によるものだと思っていた。
 田中さんの理屈は被害妄想に近いものかもしれないが、確かに今回のことで、社員と期間工の間の身分意識が浮き出てしまった。それが現れたままでいる状態は、何らかのトラブルや事故を誘発しかねない。班長は平和的に解決を、と言った。そうだ、平和的解決を目指さなければならない。
「僕は、個人個人の関係性はもっとグラデーションがあると思います。ただ、今、パンの話をすると、どうしても社員対期間工の構図になってしまうと思うんです。だから、ひとまず、班長や赤城さんとは距離を置いてもらえませんか」
「嫌だね」
 間髪容いれず田中さんが答えた。さらに説得しようと考えていると浜野が帰ってきた。部屋のゴミを探すようにきょろきょろしている。
「おう、座れよ。これでも飲んでくれ」
 田中さんは135ミリリットルの発泡酒を僕らの目の前に置いた。飲まないといけない雰囲気なので蓋ふたを開け、口をつける。
「どうだ。だいたいわかってくれたか」
 と田中さんが尋ねた。
「おおむね同意できます」
 と浜野が答えた。
「じゃ、あんたたちが社員に言ってやってくれよ」
「何をですか」
「それはあんたたちで考えてくれ。俺の言いたいことは全部わかってくれているみたいだし。俺が直接言うと喧嘩になるだろ。そこをあんたたちならあいつらも話を聞くと思うんだよ。ついでにパンを残業時間に食うなって若い奴らに説教してやってくれ」
「そんな」
「なんだよ。お前、人から物もらっておいてただで帰ろうってのかよ。あいつらは俺のメンツをつぶしたんだ。だからきっちり謝らせろよな」
 田中さんは興奮で手を震わせていた。浜野は呆ほうけた顔をしている。この部屋にいるのも限界だった。部屋を辞した。
 自分の部屋で、今夜のことを反はん芻すうした。一年近く一緒に働いているが、田中さんについて何も知らなかった。今日までろくに話したことすらなかった。ひょっとしたら、彼は借金や悪癖により経済的に困窮しているのかもしれない。残業パンで腹を満たすことで食事を一食浮かせているのかもしれない。だが、正直に言えば彼にさほどの関心はなかった。田中さんもこちらに関心はないだろう。田中さんと相対していると、人が他者に関心を持たないことは自然なことに思われてくる。
 田中さんは、生身のまま傷を受け、生身のまま攻撃しているようだった。彼を見ていると、人間には自分を守るための被膜のようなものが必要なのだと感じられた。部屋の隅の麻袋を見た。麻袋を開けて中身の写真を撮った。日記を書こうかと思ったが、何を書いていいか分からなかった。いや、何を書かないでいるべきかが分からなかった。書かないでいれば、存在しないことにできるのだろうか。布団に横になった。発泡酒のアルコール成分が嫌な具合に体をめぐり、眠りの訪れを妨げ続けた。

 翌日、休み時間に、浜野と二人で赤城さんと鬼木を呼び出した。田中さんの主張を、なるべくマイルドな表現で説明した。
 赤城さんは驚きよう愕がくの表情だった。
「マジでそんなことのために呼んだんですか?」
「はい」
「あんたら、馬鹿ですか。あんなやつに謝るわけないでしょ」
「では、僕らのパンを田中さんにあげてもいいですか?」
 赤城さんは口元に手を当ててうつむいた。自分だけで判断してよいものか即決しかねているのだろう。
「まー、別にいいっすよ。でも、目の前でやられると気分悪いんで帰りのバスで渡してください」
「そうします。ありがとうございます」
 思わずお礼を述べた。それから鬼木に向き直った。彼は冷ややかな目つきで見下ろしていた。対たい峙じするだけで暴力の襞ひだに触れたような恐怖感がある。それでも、言わなくてはならない。
「パンは残業時間の前でなく、仕事が終わってから自分の部屋で食べてもらえませんか?」
 鬼木は赤城さんを見た。赤城さんはとっさに視線をそらせた。赤城さんが何も言わないのを確認して、鬼木は短く「嫌だ」と答えた。そのまま二人は歩き出した。
「あ、でも」と追いすがると、大きな手で突き飛ばされた。壁に衝突し腰をしたたかに打った。鬼木ははじめ事態に驚いていたが、「ダサッ」と吐き捨てた。
「謝れ」と浜野が言った。
 鬼木が威嚇するように浜野をのぞき込んだ。浜野は同じ調子で「謝れ」と繰り返した。鬼木と赤城さんは無視して去っていった。
「大丈夫か」と浜野が立ち上がらせてくれた。
「派手に倒れちゃったけれど、さほど痛くないよ」
「そうか。前から言おうと思っていたが、お前ポケットに手を入れる癖があるだろ。あれ、工場内でやると危険だぞ」
「そうだね、気をつけるよ」
 午後の就業前に、田中さんに状況を伝えた。彼は不満そうだったが、黙ってうなずいていた。
 残業前休み時間になった。鬼木はあえて期間工側を見回し、袋を開けてパンにかぶりついた。僕がパンを手に取り長椅子に座ると、田中さんが手を差し出していた。
「田中さん、バスで渡しますので」
「今渡すのも一緒だろ」
「一緒じゃないです」
 社員側を見る勇気がなかった。誰もがこちらに注目していることだろう。
「泥棒」
 と誰かが言った。田中さんが僕の手からパンをもぎ取り投げつけた。パンはテーブルをすべり真ん中あたりで止まった。社員たちが立ち上がった。全員、立ちあがった。いくつもの黒い瞳ひとみが、こちらを狙っていた。銃口のようだった。始めたのはお前らだ。こっちはいつでも撃つ準備ができているぞ。どの顔にもそう書いてあった。机上のパンが彼らを一つにした。班長を見た。背を向けるようにしてパソコン作業をしている。
 期間工側は、ほとんどショック状態だった。もともと何の結束も連帯感もないのだ。田中さんは戦意を喪失したように顔を伏せていた。
 ゆっくりと動き出す人間がいた。あまりにも緩慢な動きであったため、かえって誰も反応できなかった。
 鬼木だった。彼は自分だけの時間をまとっているかのように、その場の空気を無視することができた。大きな体を揺らしながらテーブルに近づくと、パンを人差し指と親指だけでつまみ上げた。汚物でも見るようにパンを眺めると、彼は地面にそれを落とした。
「拾えよ。あんたのだろ」
 と鬼木は僕を見据えて言った。黙ったままでいると、田中さんを見て「じゃ、あんたのか。泥棒のおっさん」と顎あごをしゃくった。
 田中さんに背中を押された。体勢を崩し、テーブルの間に歩み出てしまった。一メートル先に、パンがあった。憎かった。こんなものがあるから面倒な事になるのだ。
「拾うな」
 という声が聞こえた気がした。浜野の声のようでもあり、初日の先輩の声のようでもあった。落ちたものは無価値だ。落ちているものを拾ったら仕組みがほつれる。そんな声が耳の中で反響した。
 だが、声はあまりにも遠かった。事務所内の空気が、重力となって体にのしかかった。床の上に膝ひざをついた。目の前に、無価値なものが落ちていた。顔を近づけると、原材料名が目に入った。ショートニング、発酵風味液、塩化マグネシウム含有物。床に向けて手を伸ばした。地面のもっと下に触れた気がした。
 気がつくと、パンを握っていた。顔を上げることができなかった。予鈴が鳴った。いくつもの足が、顔の傍を通り過ぎていった。誰かがしゃがみこみ、耳元で「ダサッ」とささやいた。
 残業時間、作業をしながらも全身が戦慄わなないていた。恐怖なのか怒りなのか分からなかった。何かに押しつぶされたような感覚だった。
 視界を横切る社員たちは、どこかすっきりした顔をしていた。彼らは業務後、僕のことをネタにして笑うだろう。今晩だけじゃない。今後繰り返し、あの光景を思い返しては愉たのしむだろう。
 不満のエネルギーの解消のために消費されたのだと思った。恐ろしいのは、これですべてが終わったわけではないということだ。今回のことで、今までのルールが壊れてしまった。明日以降、どういった秩序が築かれるのか、まだ未知数だ。今日の余韻を味わうために、しばらくネタにされ続けるかもしれない。今回のことがきっかけで、いじめてもよい存在と認定されるかもしれない。しかし、どうやったらそれを避けられるのか分からなかった。
 掃除の時間になると、浜野が「班長に報告に行こう」と言った。
 業務後、僕たちを迎えた班長は完かん璧ぺきな微笑を取り戻していた。僕から奪ったもので補修したようだった。
 僕たちが一言も発しないうちに、
「ご苦労様です。後はこちらで引き取ります」
 と班長は言った。
 事務所の人間たちが、僕をちらちらと盗み見ていた。僕が顔を向けると、さっと視線をそらした。罪悪感もあるかもしれない。だが、その罪悪感のほとんどは、甘味料として使われるだろう。
 アパートの部屋に戻っても、不安が去らなかった。今以上に社員から辛く当たられたら、もう工場には行けないかもしれない。でも、ここを辞めてどこにいくのだ。なぜこんなことになったんだ。頭が混乱してまとまらなかった。眠れないので、特に買うものはなかったがコンビニに出かけた。
 店の中を歩いていると、パンのコーナーが目についた。そこに、王様がいた。フランクフルトのパンが、他のパンに押しのけられるように、隅っこに置いてあった。購入し、イートインの椅子に座った。袋を開けて、噛んだ。ぶよぶよした食感だった。マスタードとケチャップもほとんど味がしなかった。原形がなくなるまで噛み砕きすり潰つぶしてから嚥えん下げした。
 翌日の業務連絡時に班長が「最近問い合わせがございますパンについてですが」と話し始めた。朝の弛し緩かんした空気の中にわずかに緊張が走った。相変わらず機械音で聞き取りにくかったが、みんなが耳を澄ましているのが感じられた。
「確かにルールとして明記されているわけではありません。しかし、皆さんルールをきちんと守ってきました。今後とも、この方針でよろしくお願いいたします」
 これだけだった。
 全員があっけにとられ、それから各々ものを考えるような顔つきになった。僕もまた、班長の言葉の意味を考えた。だが、いくら考えても班長が何を言おうとしたのか理解できなかった。おそらく、班長に業務連絡時の発言の意味を尋ねても、同じ言葉が返ってくるだろう。全員に馬鹿にしたような笑みが浮かんだ。もう誰も、以前あったルールというものに想いを馳はせなかった。これから作られるであろうルールにも、それが適切なものかを考える気持ちを失った。これは、考えることを放棄させる言葉だ。班長が投げた言葉を、作業者全員で完成させた。
 残業前休み時間が来た。相変わらずパンはそこにあった。次々と手が伸ばされ、パンはなくなっていった。鬼木はむしゃむしゃパンを食べた。彼はぺろりとパンを食べ終わると、残ったパンを一つ取り、それも食べ始めた。誰も咎めなかった。咎める空気ですらなかった。テーブルの上に、一つだけパンが残っていた。それに手を伸ばした人がいた。田中さんだった。辺りを気にしながら、小さなパンを手にするその姿は、泥棒のようだった。

(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)

作品紹介

書 名:降りる人
著 者:木野 寿彦
発売日:2025年09月26日

「しれっと生きればいいだろ」 選考委員感嘆の小説 野性時代新人賞受賞作
〇「滑稽でもあり哀れでもある主人公が、実在の人物に思えるほど描写が自然で的確」(冲方丁/選評)
〇「名作が名作として読者の心に届く瞬間を目の当たりにできた思いで胸が熱くなった。」(辻村深月/選評)
〇「選評を書いているいまも、得がたい余韻がつづいている。」(道尾秀介/選評)
〇「淡々とした、ときにはユーモラスな語り口ながら、最後の一行まで緊張感が失われないのは、主人公の根源的な戦いを、緻密に、正確に、描いているからだ。感銘を受けた。」(森見登美彦/選評)
〇「こういう人の、こういう日々こそを、青春と呼びたい。いや、呼ばせてください。」(尾崎世界観)

心身ともに疲弊して仕事を辞めた30歳の宮田は、唯一の友人である浜野から、期間工は人と接することの少ない「人間だとは思われない、ほとんど透明」な仕事だと聞き、浜野と共に工場で働くことに。
絶え間なく人間性を削り取られるような境遇の中、気付けば人間らしい営みを求めるようになっていく宮田だったが、実はある秘密を抱えており――。
選考委員の胸を打った、第16回小説野性時代新人賞受賞作!

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