夜のテレビ番組『ピンク・オペーク』を通じて心を交わすオーウェンとマディ。A24製作、異色の青春スリラー『テレビの中に入りたい』が9月26日から日本公開される。『物語とトラウマ―クィア・フェミニズム批評の可能性』『養生する言葉』などの著書で知られる岩川ありさを聞き手に迎え、監督に話を聞いた(構成:後藤美波[編集部])

映画『テレビの中に入りたい(原題:I Saw the TV Glow)』が、9月26日から全国公開される。

人気スタジオA24製作の本作は、アメリカ郊外を舞台に、謎めいた夜のテレビ番組『ピンク・オペーク』に魅せられた孤独な若者オーウェンとマディの姿を、ポップでメランコリックな映像で描き出す異色のスリラー映画。現実を忘れさせてくれる唯一の居場所のような『ピンク・オペーク』にふたりは自分自身を投影し夢中になるが、ある日突然マディが失踪。残されたオーウェンは葛藤を抱え込む。物語はオーウェンの子供時代である1996年からスタートし、少年期から青年、中年期まで時間軸が進んでいく。

解釈の余地の多いミステリアスな世界観だが、この作品が本質的に描くのはクィアやトランスジェンダーの若者の経験、アイデンティティの不確かさのなかで自分自身と向き合うこととその恐怖や不安についてだ。監督・脚本を務めたのは、トランスジェンダー女性でノンバイナリーであることを公表している、1987年生まれの新鋭ジェーン・シェーンブルン。監督は自身の経験をもとに、物語という繭のなかで生きることの危うさも掘り下げ、不可思議で唯一無二の映画を作り上げた。ここでは、現代日本文学やトラウマ研究、クィア批評などを専門とする文学研究者の岩川ありさを聞き手に迎え、本作とクィアやトランスジェンダーの経験の関わりを軸に話を聞いた。【Tokyo Art Beat】

『テレビの中に入りたい』予告編

*本記事は、映画の結末に関わる記述を含みます。ネタバレを気にする読者の方は、映画の鑑賞後にお読みになられることをおすすめします

物語を1996年から始めること、思春期の変化を描くことが重要だった

──物語の最初のパートは1996年が舞台ですね。私は当時16歳だったのですが、いまのようにインターネットの存在が当たり前ではなく、クィアの人々にとってほかのクィアの人々と出会うことが小さな街では容易でなかったことを思い出しました。90年代と現代の違いをどのようにとらえていますか? 本作の制作にあたり、メディア環境の違いについて意識することはありましたか?

その違いは、間違いなくこの映画が意識しているテーマのひとつです。1996年から物語を始めるという決断は、個人的な理由によるものでした。その年、私は9歳で、ちょうど記憶が芽生え始めた頃でした。作中のオーウェンのように、放課後に学校へ投票に行ったことやビル・クリントンの時代だったことを覚えています。そして、自分というものがはっきりしてきて、親の家の外にも世界があるんだと気づき始めたことを覚えています。

映画をそこから始めたのは、オーウェンというキャラクターの旅の出発点だからです。つまり、親が見せたがらないテレビ番組や、クィアであることの何らかの気配のようなもの、家を出て探しに行かなければならない「何か」が存在することに気づく、その始まりです。

『テレビの中に入りたい』

そして物語が1996年から1998年へと飛ぶ2年間に起こるのは、思春期です。オーウェンはティーンエイジャーに成長します。その時期を描くことはとても重要でした。というのも、私自身、まさにその時期から何かがおかしくなり始めたというか、そんな感じだったんですね。子供の頃はまだ無垢で、作られた二元論に性別を分ける大人の世界から自由でいられます。けれど思春期を迎えると、自分では理解できないかたちでその違いが際立ち始めます。

1990年代、少なくとも私が育った郊外では「性別違和」や「ノンバイナリー」といった言葉を耳にすることはありませんでした。だから、自分はどこかおかしい、ほかの人と違うのではないかという、つかみどころのない感覚を抱きます。もしかするとテレビを通してその違いを意識するかもしれません。でも、それが何だったのかを振り返って解きほぐすには、何年、何十年もの時間が必要になるのです。

ジェーン・シェーンブルン

この映画を作ったとき私は32歳で、ちょうどトランスジェンダーとしてカミングアウトしたばかりでした。トランジションのプロセスに入り、人生を変えるためのあらゆる変化を始めていました。そうした急激な変化が一通り起こったあとで、そこに至る旅路を描く映画を作りたいと思ったのです。また私は90年代に育ったミレニアル世代でもあるので、この作品には当然その視点が反映されています。

ただ同時に、私のようにテレビの時代に育つことと、SNSやインターネットの時代に育つことのあいだには、確かな違いがあると思います。本質的な部分──自分に対してカミングアウトする前にトランスであることと向き合うことの痛みや恐怖は変わっていないかもしれません。でも、もし自分が10年遅く生まれていたら、30代ではなく10代のうちにカミングアウトに必要な言葉を持つことができていたのではないか、とも思うんです。

『テレビの中に入りたい』テレビ番組がコーピング・メカニズムとなって築かれたオーウェンとマディの親密さ

──すごくよくわかります。とても伝わるものがありました。私は映画のなかでマディとオーウェンが互いを知り、理解し合う過程に心を動かされました。フットボール場の席で会話するシーンで、マディはオーウェンに「私は女の子が好き」と言い、その後に大事なやり取りを交わしますね。そしてオーウェンは「僕はテレビ番組が好き」と言います。私はそこで、ふたりのあいだに親密さを築くきっかけが生まれたように感じました。

また、ふたりは『ピンク・オペーク』について語ることで、束の間でも異性愛規範やシス規範、恋愛伴侶規範から解放されることができます。番組を見て話すことで、アイデンティティに関わる大切なことを発見し、互いの違いや共通点を確認します。このようなふたりの関係を、どのように作り上げていったのでしょうか。

マディとオーウェンの関係は愛に満ちていて、互いの人生において静かに重要な役割を果たしています。ふたりはずっと自分の中に感じていた「違い」のようなものを共通のものとして認め合い、それによって結ばれているんです。ただし興味深いのは、結局のところ、ふたりはお互いよりもテレビ番組に夢中だという点ですよね。これはティーン映画でよく見られる関係とは違います。ふたりが結びつき、つながるのは、かれらが共有する番組への愛情やそこに見いだすもの、番組とのつながりを通してなのです。

『テレビの中に入りたい』

これは私にとってとてもリアルだし、セクシュアリティやジェンダーといった根本的な部分で自分のことを理解していなかった頃の私にも通じます。私は、本当の意味で自分自身でいられて、つながりを感じられるような関係、相手も自分らしくいられる人とのあいだで何らかの性的・感情的な親密さを持つような関係に踏み出す準備ができていませんでした。そうした関係を受け入れるための言葉すら持たなかったので、実際にできるようになるまでに何十年もかかりました。

映画で実際に描いているのは、ふたりの人間がそれを試みている姿です。つまり、ダンスに行ってキスを交わすような、ほかのキッズが高校でするようなことを、ふたりもやろうとしているのです。ただ、かれらはテレビ番組をほとんどコーピングメカニズム(対処手段)のように使って、現実とは切り離された方法をとっています。そこは愛情やアイデンティティ、親密さやセクシュアリティを投影できる場所。自分自身や自分の実際の身体から切り離されたところで、そうしたことができる場所なんです。

ジャスティス・スミス演じるオーウェンジャック・ヘヴン演じるマディ

オーウェンが「僕はテレビ番組が好き」と言うとき、それは「自分を好きでなく、まして自分を理解もしていないのに、どうして誰かを好きになれるだろうか」という感覚を表す言葉を必死に探しているのだと思います。テレビはふたりが結びつき、ある種の親密さを築くための場所になりますが、マディはそこにも限界があることに気づいて「私は自分の中に本当のものを探しに行く」と言い、オーウェンは「僕はテレビの再放送を見続け、隠れ続ける」と言うのです。

物語の中に自分を見出すことと、物語の世界に隠れるのをやめること。ふたつの視点から作品が生まれた

──自分の人生を自分の物語として語るのはとても難しく、私たちはときにフィクションの助けを借りて人生を語ろうとします。ですが、フィクションに深入りしすぎるのは少し危険です。フィクションはクィアの人々を勇気づけるいっぽうで、現実の人生を覆い隠してしまうこともあるからです。このようなフィクションの可能性や危険性については、どう考えますか。

それは私の作品における中心的な問いのひとつだと思います。最初の映画『We’re All Going to the World’s Fair』でもこの問いについて探究しましたし、本作でも非常に深く掘り下げています。

私はこの問題に個人的な視点と政治的な視点の両方から向き合っています。個人的なレベルでは、自分自身を見つけられる多くの場所を持たない孤独な子供だった私にとって、フィクションの中に自分を探すというプロセスは非常に重要でした。芸術家がフィクションを通して自分の感情を正直に表現し、そのシグナルを受け取った誰かが自分をよりよく理解するようになる。この関係こそ、私が信じ、人生を捧げているものです。それは美しいコミュニケーションであり、ケアのあり方だと思います。

『テレビの中に入りたい』

しかし、私たちはフィクションが体験を不健全なまでに媒介してしまっている世界に生きています。政治的な現実の作られ方においても、エンターテインメントやフィクションに過度に依存している点においても。この世界があまりにひどく、窮屈で、自分らしく生きることを許さず、人間らしい現実を与えてくれないために、フィクションが人々の欲望を満たすための手段になってしまっているのではないかと感じることがあります。それらは金儲けや何かを売ろうとする人々によって作られていて、その力関係には多くの悪意や潜在的な搾取がある。

私の作品はこの両方の視点から生まれているのです。芸術の力やそこから生まれるつながり、自己理解を本気で信じる孤独な子供としての視点と、本当に自分を見つけるためには、エンターテインメントやフィクションの世界に隠れるのをやめ、自分の現実がどのようにフィクションになっていたかを見つめ直す必要があったという視点です。

『テレビの中に入りたい』

──90年代は現在と比べてポリティカル・コレクトネスへの意識も低かった時代ですが、私たちクィアは、テレビ番組の中に明確なコードを見つけようとしてきました。そして様々なコンテンツに簡単にアクセスできるようになった今日のクィアの若者も、新しいメディアの中に同じようなコードを探しているかもしれません。あなたは素晴らしい映画を作りましたが、それでもなお、クィアがこの世界で生き延びるための物語は十分ではないと感じることがあります。どうしたらそのような物語や芸術を作ることができるか、お考えがあれば聞かせてください。

端的に答えるなら、制度的にクィアの人々が芸術作品を作れるようにすべき、ということです。誇りを持ってオープンにクィアであるアーティストで、作品制作の十分な資金を得られている人は本当に少ない。その背景には同性愛嫌悪やトランス嫌悪が多く存在しています。それは現在進行形の「トランスやクィアは嫌いだ」という感情であったり、私たちの物語が「ニッチで専門的な市場向けのものだ」という制度的な偏見であったりします。ハリウッドではいまなおそのような考えが根強く、もっとも商業的で市場性があるとされるのは、男性が男性について描いた物語なのです。これは変わらなければなりません。

『テレビの中に入りたい』

また、私自身も、自分の作品がたんに「多様な声」として扱われるのではなく、アーティストとして真剣に受け止めてもらうためにつねに闘っていると感じます。トランスの人を登場させて「ほら、トランスの人が出ているでしょう、これで満足でしょう」とするのではなく、感情の核心にある謎に対して忠実な作品を作ろうとしています。「トランスであるとはどういうことかを説明してあげよう」ということでもなく、「この世界での私の体験を正直に映し出して、それが誰かの心に響けばいいな」という思いで作っているんです。その「誰か」がトランスの人であっても、ほかのマイノリティ的な経験を持つ人でも、あるいは個人的に共感できなくても作品が表現するものと交感できる人でも良いのです。

それこそが私がこの作品でもっとも誇りに思うことです。 観客がトランスであるかどうかに関係なく、多くの人々と大きな共鳴を生みました。この作品では、トランスであることについての言語を拡張し、「胸が欲しかった」といったわかりやすい話ではなく、もっと深く、内面的で感情的なトランスの経験を表現しようと試みました。

ただし、これは私が答えるべき問いというより、すべての映画スタジオが答えるべき問いですね。私のように個人的な物語を語る機会を求めている素晴らしいクィアのアーティストはたくさんいて、かれらにはその権利があるのですから。

「Sorry」という言葉の中にある、自分の存在そのものに対して謝りたいと感じてしまう感覚

──変化につなげていくことの大切さは本当に感じます。それが難しい現状にはあるけれど、すごく必要であるということをあらためて考えました。

私が本作でとくに印象に残っているのは、オーウェンが「Sorry」という場面です。それに対してマディは「謝らないで」と言います。でも映画のラストでオーウェンは「Sorry」と言い続けている。私はオーウェンに「謝らなくていいよ」と言ってあげたい気持ちになりました。オーウェンが現実と向き合うということは、本作のひとつの軸だと思いますが、このラストとオーウェンが現実に直面するということについてどのように考えていましたか。

この映画を書き始めたのは、私の身体的トランジションの初期段階でした。すでにカミングアウトをしていて、その辛い部分をすべて経験していました。家族と疎遠になっていく過程にあり、すべての人間関係や世界における自分の立場が二度と同じにはならないとわかっていました。これはとくに私の年齢でトランス女性としてカミングアウトする人の多くに当てはまる現実です。

私は最近ホルモン療法(HRT)を始めて5周年を迎えたのですが、初めて処方箋を受け取り薬を使い始めて「ここにたどり着くまでどれほどだったか」と思ったことを覚えています。それはトランジションの始まりでしたが、そこまでに人生の半分をかけるほどの勇気が必要でした。その瞬間に至らないままの、より悪いバージョンの人生がいくつもあり得たので、身の引き締まる思いがしました。そして自分に言ったんです。「これだけで1本の映画に十分だ」と。この映画はトランジションについての物語ではないし、これから私の人生に起こるであろう出来事を描いたものでもありません。そこに至るまでの感情を描いた作品なのです。

『テレビの中に入りたい』

そして、私がとても重要だと感じた感覚のひとつは、トラウマは一晩で消えるものではない、ということでした。人生の半分のあいだ、私は「やめておけ」「もしトランス女性としてカミングアウトすれば社会から罰せられる」というシグナルを受け続けていたので、自分がトランスであると理解する以前に、すでにその恥や人々に謝りたいと感じる感覚を内面化していました。これはトランジション初期の人に非常によく見られることだと思います。自分の存在そのものに対して謝りたいと感じてしまう。私は、それが1日で消え去るものではないということを正直に描きたかった。オーウェンは旅の途中にいて、映画の終わりで私たちが彼を見送るのは、その旅の始まりの地点なのです。

もちろん私もマディと同じで「謝らないで、自分を誇りに思って」と言いますし、それを観客に受け取ってほしいと願っています。でも同時に、彼は自分の内側がテレビの光で満たされていて、地獄のような次元にいて、地下でゆっくりと窒息しかけていることを知ったばかりです。それなのにそんな彼の最初の反応は、たくさんの人のところに行って謝ることなのです。存在していること自体を謝らなければならないと感じる、その理不尽さには何かほとんど滑稽なものがあります。それは心をざわつかせることですが、真実だとも思います。私はこの映画を真実に感じられるかたちで終わらせようとしたのです。

*本文中の映画の登場人物の代名詞は、監督の発言に基づき翻訳し、記載しています。

ジェーン・シェンブルン
ノンバイナリーの映像製作者であり脚本家。個人的なクィア映画の製作と支援に尽力している。『テレビの中に入りたい』、『We’re AllGoing to the World’s Fair(原題)』、『A SelfInduced Hallucination(原題)』、テレビのパンクロック・バラエティー番組『The Eyeslicer(原題)』を手掛けた。初の小説がまもなく完成する。新年の抱負は“沈黙にもっと慣れること”。

『テレビの中に入りたい』

2025年9月26日からヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開
監督・脚本:ジェーン・シェーンブルン
出演:ジャスティス・スミス、ジャック・ヘヴン、ヘレナ・ハワード、リンジー・ジョーダン
配給:ハピネットファントム・スタジオ
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公式サイト:https://a24jp.com

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