2025年9月16日更新
2025年9月19日より新宿バルト9ほかにてロードショー
戦後沖縄の「声なき声」に耳を傾ける長大な抒情詩
映画「るろうに剣心」5部作(2012~2021)がもたらした剣戟バトルの刷新は、谷垣健治を中心とするアクションチームと、なにより同シリーズを演出した監督・大友啓史の鋭意な創造性によるところが大きい。だが、そんな氏が真藤順丈の直木賞受賞同名小説を映画化すると聞いたとき、さすがに負うテーマの重積に身のすくむ思いがした。戦後27年間に及ぶアメリカ統治下の沖縄。その沈黙と怒りの歴史に、フィクションとはいえ真正面から挑むことになるのだから。
しかし実際に出来上がった作品は、自分が想定していた「社会派叙事詩」であるより、劇中の若者たちの「青春抒情詩」としての成立を実感させる。義賊“戦果アギヤー”の中心人物・オン(永山瑛太)が忽然と姿を消したことから、彼の行方を追うグスク(妻夫木聡)やヤマコ(広瀬すず)、そしてレイ(窪田正孝)たち主要キャラの人生は分岐し、やがて沖縄最大の民衆蜂起「コザ騒動」で結合していく。そうしたミステリー群像劇の放熱量に圧倒されるうち、我々は自然と沖縄現代史の只中に立たされるのだ。本作がテーマ主義重視なら、むしろ観客を遠ざけたのではないか? そこで大友は脚本を一度白紙に戻し、歴史叙述ではなく感情のドラマに賭けたのだ。誰もがその場に立てば、グスクやヤマコのように行動するはず、という共感性に魂を込めたのである。
(C)真藤順丈/講談社 (C)2025「宝島」製作委員会
特に印象的なのは、監督が取材で語った「声なき声」に対する意識だ。彼が現地で耳にした方言「なんくるないさ」の本義、すなわち「自分たちが受けた屈辱に比べれば、なんてことはない」という諦念の背後には、米軍の強権による、沖縄の人々の押し殺された怒りがある。本土の人間は、その痛みにどれほど無関心だったのか。映画はその沈黙を、観客の深層に直接叩きつける。そこには抑圧された者の叫びを届けるという、大友のドキュメンタリー出身者ならではのジャーナリズム精神が、この映画化をエンタメ大作へと昇華させている点で心を動かされる。
さらに特記すべきは、リアリティを追求する姿勢だろう。本作は600カットという、「ゴジラ-1.0」(2023)に比肩するVFXを駆使しながらも、観客にそれを見ているという意識を与えない。俳優が触れられる環境を重視し、あくまで人間の肉体と感情を基に置き、視覚効果を最小の補助とする。そこには「感情はCGでは創造できない」という監督の確信が込められている。冒頭の嘉手納基地でのチェイスやコザ騒動の群衆シーンも、生身の役者が息づいているからこその説得力だ。グリーンバックに閉じ込められた演技では、この熱量は得られない。
とはいえ、3時間11分に及ぶランニングタイムが、挑戦的かつリスキーなのは否めない。だが5時間以上かけて伊ファシズム闘争史を描いた「1900年」(1976)に心酔したという大友の言葉を借りれば、時代と文化を伝えるには悠然とした時間が不可欠であり、観客の集中力を理由に上映時間を短く刈ることの是非を本作は問いただす。長尺を(共同配給の)ソニー・ピクチャーズにたしなめられたと監督は笑って誇張したが、歴史を生きた者の感情を追体験するための時間が、ここには存在する。
自分は世代的にも精神レベルにおいても、国際海洋博を舞台背景にした「ゴジラ対メカゴジラ」(1974)あたりに沖縄返還の匂いを覚えるのがせいぜいだった。しかし、これからはこの「宝島」がそれを強く紐づける。同作は沖縄の近現代史をスクリーンに刻んだだけでなく、キャラクターたちの生きざまを媒介にして「声なき声」を現代へと響かせる。人の感情を中心に据えたこの長大な抒情詩は、今も基地問題に揺れる沖縄のことを、そして日本全体が捉えるべき歴史的な責任を、我々に再確認させるのだ
(尾﨑一男)