【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話048「音楽界の大谷翔平」
先日、氷川きよしのライブを観た。あっという間の2時間20分だった。MCではちょくちょくボケて爆笑をかっさらう姿は、歌手としてのストイックさに人間味あふれる魅力を際立たせ、あっという間に私は釘付けとなった。
圧倒的な個性、シンガーとしてのずば抜けた実力、そしてパフォーマーとしてのワンアンドオンリー感、立ち振る舞いやプライベートのエキセントリックさ…、その圧倒的な存在感から、私は「氷川きよしは日本のレディー・ガガだよな」と思っていた。もちろん両者は全く別物だし、彼は曲を書いているわけでもないし、そもそも同意を得られるはずもないと思っていたので口にはしていなかったけど、そんな思いを確かめる心持ちで会場に向かった。
実際にライブを堪能し、その最強の存在感をもって感じたのは「レディー・ガガじゃないや、大谷翔平だわ」という感想だった。
氷川きよしは「演歌とポップスの二刀流」を実現させていた。演歌とポップスを違和感なく両立できている人がどれだけいるだろうか。もちろん桁違いに歌のうまい人はたくさんいて、演歌でもポップスでもなんでもこなしちゃう歌うまシンガーは珍しくない。歌怪獣の島津亜矢の絶品さなんて、誰もが認めるところだ。
でも自らの持ち曲をもって演歌とポップスの世界を自由に行き来し、どちらも自らのアイデンティティとして超一流の完成度で表現しうる人は他に見たことがない。ド演歌や股旅もの、祭囃子といった世界を着物やハッピを纏い、礼節尊ぶ滑らかな身のこなしで表現する。と思えば、ラスベガスのようなドレスを身にまとい、きらびやかなポップスをダイナミックに描き、スポーティな衣装とアクションで激しくもキャッチーなロックミュージックを歌いこなす。どちらもひとりの人間で。
もしかしたら、シームレスながら本人の中では大胆な切り替えが行われているのかもしれない。演歌の世界を描くのは氷川きよし、ロック~ポップスの世界を描くのはKIINA.というアーティストだからだ。そこに明確な壁があるのか、切り替えスイッチのようなものがあるのかはわからない。衣装と音楽が変わるだけで十分なのかもしれない。
「KIINA.」とは、活動休止期間に自分らしさを見つける中で生まれた、新しい自分を象徴する新たな愛称だ。「kiyoshi」と、ありのままでいたいとする「natural」という言葉をつなげた「KIINA.」名義が生まれたからこその「二刀流誕生」なのかもしれない。が、この振れ幅を自由に行き来するスキルと経験値が重なれば、さらなる冒険やまだ見ぬ音楽の旅が始まる可能性すら見えてくる。
先日の24時間テレビでは、氷川きよしはレディー・ガガの「Born This Way」をカバーし、先日のライブでもアカペラで披露してくれた。「自分を愛し、自分らしくそのまま進めばいい」と鼓舞する「Born This Way」は、氷川きよしの琴線を大きく震わせたことだろう。今の氷川きよしが立っている局面は、「Born This Way」を歌うのは「氷川きよしでもKIINA.でもどちらでもいい」という垣根を超えた表現レイヤーにも見えた。
いずれにしろ、日本が生んだとんでもないエンターテイナーだった。音楽の壁を超え、言語の壁を超え、性別の壁を超え、今世界が求めているボーダレスな生き方を、身を持って先導しているワンアンドオンリーなアーティストであることを実感した。
文◎BARKS 烏丸哲也
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