と〈とも〉に半島へ
本年3月22日、「SIDE COREとともに『能登半島に行く』」に参加した。じつのところ、2024年の能登半島地震発災以降、能登半島に行くのは初めてのこととなる。もっとも、SIDE COREはこれまでも「誰かと、どこかに一緒に行く」ことを主眼とするイベントを数多く実施しており、わたし自身、その一部に参加してきた。
なかでも記憶に残るのが、東日本大震災で甚大な被害を出した宮城県石巻市街地から牡鹿半島までを主会場とする「リボーンアート・フェスティバル2017」で体験した、市街地を回る「ナイトウォーク」だ。なぜ夜なのか。「これは、かつて私たちが夜中にひたすら街を歩き回りながら作品を制作していたことに由来」(当日に配布された冊子より引用。以下同)する。ただし今回は夜ではない。「発災後の能登半島が気になりつつも訪れる機会がなかった方々が、今後足を運ぶきっかけを見つけることを目的としたビジティングプログラム」(第1回目)だからだ。
もっとも、能登半島そのものには過去に数度、足を運んでいる。とりわけ1年延期のうえ、コロナ禍での感染防止対策を積極的に取り入れて開催された「奥能登国際芸術祭2020+」(実施は2021年)で珠洲市内の各所を見て回ることができたのは深い印象に残っている(そのときのことについては同芸術祭の公式カタログに寄稿したので、関心のある方は一読されたい)。にもかかわらずなぜ、発災後の能登半島を訪ねることがなかったのか。「奥能登国際芸術祭」の魅力を伝えるキャッチコピーは「最涯の芸術祭」であったが、その「最涯=サイハテ」であることが反作用したのだろうか。
もしそうなら、これまでの震災と比べて復旧・復興が遅れていると言われがちな能登半島地震に対して、わたしも心のどこかでそう(能登半島=最涯)見なしていたのかもしれない。SIDE COREによる今回のプログラムは、わたしにとってそのような批評的な自問自答を促すものでもあった。
スパイスカレーとコーヒーの店「いかなてて」(珠洲市狼煙町)の糸矢章人に話を聞く
ただし、ビジティングプログラムについては手練れと言ってよいSIDE COREにしても、今回の企画について慎重を期したことは随所にうかがえた。もっとも大きいのは、SIDE COREみずから「昨年末に被災地で活動する人々と話をした際に、『少しずつ受け入れの体制が整ってきたので、より多くの人に現状を見てもらいたい』という声を聞くことがありました。その言葉が、この企画を始める大きなきっかけとなりました」と記している通り、受け入れ体制の問題だ。
少人数により密度濃く練られた「ナイトウォーク」と異なり、今回はアートのプログラムである以前に、おのずと求められる一般性が高くなる。実際、今回募った参加者の人数は数十人規模となり、安全面から現地での移動は交通会社が運営する観光バスとなる。念頭に置かれているのは、あくまで「きっかけ」であって、アートとしての作品性は最小限に抑制されている。実際、「奥能登国際芸術祭2023」に出品作家として参加しているSIDE COREにしてみれば、その際に作品を設置した珠洲風力発電所に焦点を当てることもできなくはなかったはずだ。けれども、かれらによる「能登半島に行く」の行程にそこは含まれず、冊子で簡単に概要がふれられているだけだ。
そのかわり、当日配布された冊子には、その日訪ねる場所についてのより踏み込んだ情報に加え、被災後の各所で鍵となる活動を続けている、しかし表立って名前の挙がることが少ない、具体的には珠洲市民にいち早く無料開放された「海浜あみだ湯」の代表でアーティストの新谷健太、「外浦の未来をつくる会」の会員でボランティア・リーダーを務め、俳優でもある坂口彩夏といった方々が記されている。
ほかにこの冊子には「SIDE CORE的メモ」と題して「奥能登芸術祭、お勧めの野外設置作品」「お勧めスポット(今回訪れない場所)」「お勧めの食事」「便利情報」までが記載されている。わたしはSIDE COREがつくってくれた「きっかけ」を通じてその後、間髪おかず能登を再訪することになった際をはじめ、いまでもこの冊子を重宝している。だが、おそらくはそこにこそ今回の「SIDE COREとともに『能登半島に行く』」ならではの核心があるのだ。
炭化処理した廃材を用いて描かれた、SIDE COREによる壁面 ドローイング(金沢21世紀美術館プロジェクト工房内)
炭化された解体廃材とSIDE CORE
実際、今回のプログラムでSIDE COREの作品そのものにスポットが当たるのは、能登半島から金沢市内に戻り(すでに19時半であたりは暗い)、今回のプログラムの担当キュレーターでもある金沢21世紀美術館の学芸員、髙木遊の手引きで美術館敷地内のプロジェクト工房とその前庭で催された「SIDE COREとともに『野焼き』」まで待つことになる。
ちなみにこの「野焼き」で使用された土は、先にふれた大谷地区で大規模土砂崩れがあった際に「私たちが泥かきを行った住宅の軒下には粘土質の土砂が流れ込んでおり、坂口さんが『これを陶芸に使えるのではないか』と考え、分けてくださ」ったものが素材となっている。
「SIDE COREとともに『野焼き』」の様子
「SIDE CORE」とともに『野焼き』」で焼成された陶芸作品
かように、SIDE COREによる今回のプログラムでもっとも肝心なことは「この機会はあくまで『きっかけ』として考えていただき、皆さんが今回得た繋がりを今後の活動で何らかの形で活かしていただければ幸いです」の言葉に集約されている。
ということもあり、今回訪ねた場所からわたしが受けた具体的な印象については、また別の機会に譲りたい。というのは、わたしが今回のレビューで強調したいのも、主観的な印象よりも「つながり」のほうだからだ。事実、3月22日に行われた一連のプログラムは翌日に引き継がれ、金沢に残った参加者たちによる(参加の動機も出自も関心も見解もよい意味でバラバラな)ディスカッションが午前から正午にかけて持たれた。
こうして「SIDE COREとともに『能登半島に行く』」に強い印象を受けたわたしは、その「つながり」をさらに別の者へとバトンタッチすべく、すぐに能登半島への再訪を計画し、前回と同様にSIDE CORE と髙木遊の力を借り、ただし今度は人数を絞って、わたしも籍を置く多摩美術大学のアーティスト、雨宮庸介や東北芸術工科大学の三瀬夏之介、写真家の砂守かずらたちに声をかけ、前回とは違って珠洲市内に宿を取り、2日間にわたって珠洲市と輪島市を中心に現地を見て回った(4月13日~14日)。
海浜あみだ湯の新谷や大谷地区の坂口にも再会したが、新たに偶然の出会いもあった。この出会いは、また別の出会いへと引き継がれていくに違いない。それがどこまで連携されていくかはまだわからないが、発端が3月22日の「SIDE CORE とともに『能登半島に行く』」がつくってくれた「つながり」にあることには変わりがない。
偶然といえば、SIDE COREたちと能登半島に向かったわずか3日後の3月25日、わたしは別の案件で大阪、此花区を拠点とするアートプロジェクト「水門(みなと)」で開催された梅田哲也の個展を訪ねた。じつはわたしは事前にくわしい下調べをしておらず、梅田に個展を案内されて初めて気がついたのだが、SIDE COREと同じく梅田も「奥能登国際芸術祭2023」の出品作家で、今回の個展も芸術祭でのとある出会いが「きっかけ」で制作されていた。ほかに海浜あみだ湯との「つながり」もあるという。加えて会場の軒下には珠洲から燕の巣が移されて、新たな宿主の到来を待っていた。そんなところに偶然、梅田の個展を訪ねて珠洲からの来客まであったのだ。いったい「つながり」とはなんだろう。この梅田展と能登との「つながり」については、また機会を改めなければならない。
写真提供(すべて)=金沢21世紀美術館
(『美術手帖』2025年7月号、「REVIEW」より)