建築への挑戦
このインタビューは、一定方向に進まない。特異性と不確定性の間を行き来する会話は、逆行するような事実や問いにあふれて、その一部は1997年製の—すでに50万キロを走破した—BMWによって記録されている。
Johan Sandberg
本特集に登場する衣服とアクセサリーはすべてプラダのもの。
ここは、オランダ、ロッテルダム。私たちは、レム・コールハース率いるOMA(Office for Metropolitan Architecture、レム・コールハースの建築スタジオだが、匿名性の高い社名で創業者の威光を隠している)とAMO(OMAの研究部門で、建築分野を超えたプロジェクトを扱う)の本拠地にいる。建物の設計者は、オランダ人建築家H.A.マースカント。コールハースはというと、同じ市内にDe Rotterdamを設計した。旧港地区にある3つのタワーが特徴的な、多目的ビルだ。マースカントは第2次世界大戦後のロッテルダムを再建したが、コールハースは中国中央電視台本部ビルからミラノのプラダ財団まで、世界のあらゆる場所にアイコニックな建築物を完成させた。
プリツカー賞建築家でハーバード大学教授でもあるコールハースは、現在80歳。建築家になる前は、ジャーナリストとしてキャリアをスタートさせた後、脚本家に。著作家、そして理論家としても名をはせ、その考え方は建築界における基本的原理となった。彼はまた、プラダのランウェイをデザインし、現在ヴェネチアのカ・コルネール・デッラ・レジーナで開催中の「Diagrams」展もつくり上げた。ドーハでも、新たな展覧会が予定されている。
OMA/AMOでは、多くの若者が働く。コンクリートと静寂に包まれ、ヘッドホンをつけた専門家たちが模型の形を整えている。白く長いデスクが平行に並び、その上には何本も赤のBicボールペンが置かれているが、コールハースはここ数年、青のボールペンも使っているそうだ。
Johan Sandberg
あふれる田舎への関心
エスクァイア(以下、ESQ):OMA/AMOがキュレーションし、2020年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催された「Countryside: The Future」展以来、田舎に対する関心を明らかにされています。いわば都市の設計者であるあなたですが、田舎に対する気持ちは強いのでしょうか。
レム・コールハース(以下、RK):個人的な興味から始まった変化だったのですが、やがて仕事がからみ、ついにはイデオロギーに近いものに発展していきました。たとえば、スイスでは、臭いがなくなることで牛が姿を消したことに気づくなど、意図せずとも、これまでの人生で多くの田舎と関わってきました。幼少期にはインドネシアを訪れ、段々畑を目にしました。1970年代にはロシアに滞在しています。ここでは、田舎は切り分けられ、国民に分け与えられていました。ウズベキスタン、中央アジア、アフリカへは1980年代に。車に乗り、街には停車せず、5000キロを駆け抜けました。
ESQ:この展覧会を新しく企画するにあたり、開催地にドーハを選んだのはなぜですか?
RK:魅力的な誘いだったんです。これまで、砂漠で仕事をしたことがありませんでしたから。今回は、アフリカ、中東、それから中央アジアに焦点を定めました。
Johan Sandberg
ESQ:2020年に開催された前回の展覧会と今回の間には、コロナの世界的流行や火事、洪水といった自然災害が起きました。影響はありましたか?
RK:コロナ禍において、田舎は注目を集めました。ヨーロッパでは、まるで『デカメロン』(1348年のペスト流行の際に、フィレンツェから郊外に逃れた男女10人が、退屈しのぎに語り合う物語。ボッカチオ著)のような世界が広がっていました。一方、アフリカでは若者が意識を高めるきっかけになりました。特にケニアの若者は部族構造からの解放を望んでおり、田舎は政治変革の場といえます。この地域は45℃の日々が続くので、未来の地球の姿を見ることもできますね。
ESQ:田舎において、建築は人間以外の生物にとっても役立つのでしょうか。
RK:建築物の中にいる動物について思いを巡らせるのが、面白くなってきました。それから、田舎のためのロボットやテクノロジー設備についても考えたいです。
ESQ:それでも、あなたは都市で働き続けています。
RK:都市に反対しているわけではありません。そんな考えは、ばかげている。ただ、商業的な高層ビルには、興味がなくなってきました。
ESQ:建築家の作家性について、どのようにお考えですか?
RK:私の初期作品のひとつ、オランダ国立ダンス・シアターは取り壊されてしまいました。建築が永続性と本質的な関係を持っているという考えは無意味です。一方で、フランスに建てた「ボルドーの家」は、完成と同時に国の文化財に指定されました。私が言いたいのは、建築は1人の力で成し遂げられるものなどではないということ。質問に戻ると、私は自分が設計図に書き起こしたものに、作家性を信じています。
Johan Sandberg
執筆活動と「冷たいペン」
ESQ:続いて、著作として「書いたもの」についてお聞かせください。あなたは都市について多くの文章を発表されてきました。執筆にあたって苦労したことなどあればお聞かせください。
RK:西欧諸国に対する説明ですね。その規範やスキームがもはや適切でないと伝えるのが、難しかった。建設のスピードや密度はそれまでと同じではなく、建築の主軸は、公共部門から民間へとシフトしていました。1980年代、私はアメリカやヨーロッパが、こうした発展の状況を自国の価値観と比較し、否定的に判断することを憂慮していました。
ESQ:『Haagse Post』誌でジャーナリストとして活躍されていた際も、同じアプローチでしたか? 感情に訴えることのない「冷たいペン」といわれていました。
RK:私の自己が形成されたのは、16歳から26歳にかけて。1960年代は、ヒッピーたちがいかに社会秩序を崩壊させたかという軸で語ることができます。しかし、ミケランジェロ・アントニオーニやモダニズムの思想家たちは、「クールである」ことの美学を創造した。マイルス・デイビスを思い浮かべてください。ダンディーとは何か—それは、臆することも、偉ぶることもなく、ただ観察する人。私は、ニュートラルな視点から、善と悪両方を見つめることに強さを見いだしたのです。
ESQ:あなたこそ「ダンディー」です。それは、生まれながらの資質ですか? それとも、つくられたものなのでしょうか。
RK:1960年代を含め、16年もイタリアで暮らした経験があれば、立ち居振る舞いも身につきます。オランダに、いいモデルはいませんでした。若い頃は、フランスやイタリアの少年たちがうらやましかった。彼らに引かれ、自分の中に取り入れていったのですが、おそらく素地もあったのでしょう。
ESQ:あなたは親ヨーロッパ主義者でありながら、ヨーロッパ中心主義的な考えに対しては批判をされています。この相反する立場のバランスを、どのように取っているのでしょうか。
RK:大事なのは、現実主義であること。建築でもそうですが、ヨーロッパの価値観は、ヨーロッパが、それ以外の地域における現実の特性に目を向けることを妨げてきました。私たちはロシアと中国を敵に回してしまいましたが、これは理解しがたく、危険なことです。カタールが、ガザ・イスラエル停戦で果たした役割と、トランプ大統領によるゼレンスキー大統領への対応を比較してみてください。カタールの外交は、他では見られないほどきめ細やかで的確でした。
ESQ:(EU参加国の国旗をバーコード状に並べ、コールハースが新たな欧州旗として提案した)「EUバーコード」をデザインされた2001年から今まで、EUへの関与は継続しているのでしょうか。
RK:もちろん。ただ、これは私の必死で一方的な関与でもありますが。
教育と交差する「Diagrams」展
ESQ:30年間にわたり、ハーバード大学や北京の中央美術学院で教壇に立たれてきました。現状に疑問を呈する姿勢は、一貫しているのでしょうか。
RK:それが、私の基本的な姿勢です。1995年に『Small, Medium, Large, Extra-Large』という書籍を発表したのですが、これをきっかけにハーバード大学からオファーがありました。これに対して、私はこう答えたんです。「何かのやり方を教えるつもりはありません。ただ、大きなテーマを研究する手助けなら、させてください」。ちょうど大学の国際化が進んでいた時期で、多様性を受け入れる必要があったのです。このアプローチで、AMOも生まれました。建築だけでは世界の複雑さに対応できないという意識が強かったのです。
ESQ:2014年に「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」の総合ディレクターを務められた際は、ハーバード大学を巻き込みました。今回は、ヴェネチアのプラダ財団と共に「Diagrams」展を手掛けられましたが、この企画は個人的な思いから生まれたのでしょうか。
RK:個人的なものではありません。ただ、Diagram(ダイアグラム)つまり図には言葉がないので、とても興味深いとは思っています。議論の余地のない、洞察—そこには、論証すら必要ありません。1978年に発表した『Delirious New York: A Retroactive Manifesto for Manhattan』以来、物事の本質を明らかにするものを見つけることのほうが、混乱やレトリックが潜む言葉を使うより重要なのではないかと考えるようになりました。
ESQ:2025年のビエンナーレの総合ディレクター、カルロ・ラッティは、環境災害の観察を起点としました。私たち人間は、これまで何をしてきたのでしょうか。
RK:私たちの動きは遅く、無責任でしたね。私がアメリカに到着した1972年、ローマクラブは「成長の限界」というリポートを出しました。環境悪化と人口増加が緊急事態にあることをつまびらかにする、明快な報告書でした。50年を経て、私たちはパニックに陥っています。けれど、今はこの事実に誰もが気づいている。望むと望まざるとにかかわらず、私たちには、この問題に取り組む義務があるのです。
ESQ:解決策を実行へと移すにあたって、緊急性は正当な理由となりうるのでしょうか?
RK:人々は、「きちんとやっている」と周囲に示さねばならないというプレッシャーにさいなまれています。美徳の伝達ですね。すべての建物は、環境に配慮したものでなくてはいけません。懐疑的な見方もあるかもしれませんが、それが象徴的なものであったとしても、(目に見える形で解決策が導入されているのは)ポジティブな動きだといえるでしょう。
ESQ:建築界では、今何が起きているのでしょうか。
RK:抜本的な変化が起きています。建築家はかつて、建造物の構造の問題に興味を持っていましたが、今の主役はメカニズム。「空調はどうなのか」「サステナビリティの視点はどうなっているのか」というふうに考えます。興味深いのは、建築において新たなものを発明する必要がなくなって久しいことですね。この30年間、あらゆる面で決定権を持っていたのは経済であり、経済は同じやり方を続ければ前に進めると考えていたのです。
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ESQ:あなたは、どのような状況にも可能性を見いだします。
RK:建築家は、楽観的でなければいけません。それなくして具体的な介入をしても、何もうまくいかないでしょう。
Johan Sandberg
プラダ財団との長期的パートナーシップ
ESQ:「Diagrams」展の会場をデザインされたことで、プラダ財団との結びつきがより堅固になりました。ミラノではプラダ財団を設計し、街の地理に変化を加えました。
RK:ミラノに関しては、場所はすでに決まっていたし、そこには多くの建造物がすでに存在していました。可能な限りそれらを残し、必要な場合には新しいものを加えるというやり方が興味深く思えました。そのとき、すでに「保存する」という行為に引かれていました。「contrarian(天邪鬼、逆張り)」といわれる私のアプローチについて物語っています。(反対のことを言っているようでいて)未来の問題を早い段階で認識しているのです。
ESQ:プラダ財団との協働は、1999年から始まっています。このとき、ニューヨークでPrada Epicenterを設計されたわけですが、ここはパフォーマンスやイベント会場として機能していました。ショッピングという体験を別次元へ引き上げるものだったのか、それとも消費に付随する罪悪感を覆い隠すのが目的だったのでしょうか。
RK:私たちは、偶然にもそのとき『The Harvard Guide to Shopping』を制作中でした。販売という行為に対する凝り固まった概念を崩し、別の方向性を示したいと思っていたのです。ショッピングの存在が肥大化していくことの危険性を察知し、単一的でない対策を模索していました。
ESQ:それは、ちょうど建築家たちが仕事を得るため、公共事業ではなく、民間企業からの依頼によるプロジェクトに重きを置きはじめていた時期でした。知的誠実さと商業性の間でバランスを取ろうとする試みだったのでしょうか。
RK:目の前にある問題を避けるより、実際に取り組んでみて、それが対応可能な問題なのかを見極めたかったのです。
ESQ:ファッションと建築を比べたとき、ファッションが劣る点はありますか?
RK:ファッションを軽視したことはありません。10代の頃、ファッションデザイナーになることも考えたけれど、オランダでは意味がなかった。そして、何もないところから崇高なステートメントを生み出すファッションのスピード感には、やはり感心させられます。ある種の羨望さえ感じる。
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ESQ:あなたは26年間、プラダのランウェイをデザインしてきました。レム・コールハースは、ミウッチャ・プラダ、ラフ・シモンズに次ぐ、3人目のクリエイターと言っても過言ではないのでは。
RK:プラダにとって私は、コレクション全体がもたらす効果を設計するパートナー。ミウッチャ・プラダとは、1920年代的な言葉や自転車、共産主義的なスポーツといった要素からイメージを膨らませていきました。
ESQ:2012年にメトロポリタンで開催された「Impossible Conservations」展では、ミウッチャ・プラダとエルザ・スキャパレッリの「不可能な会話」を披露しました。あなたにとっての不可能な会話とは?
RK:ありえない会話はたくさん経験があります。現実のものですが。サルバドール・ダリやアンディ・ウォーホルと。彼らとは、真剣な話ができました。地に足のついた人たちでしたよ。
ESQ:ダリもそうですか?
RK:私も、まともな会話などできないのではと思っていました。けれど、とても話しやすく、信じられないようなことはなかった。相手を、同じレベルに置いてくれるのです。
ESQ:今、執筆されているようですね。
RK:自分が体験した、異文化との関わりについて書いています。私は、ロシアに中国、カタールと、国を問わず働くことができた時代にキャリアをスタートさせました。
ESQ:執筆の過程で、何を学びましたか?
RK:感謝することですね。
ESQ:幸運な時期にキャリアをスタートさせたとおっしゃいましたが、ノスタルジックな気分になりますか?
RK:そんなことはありません。ただ、今を生きる人をうらやましいと思わないのも確かです。昔は何でもできたし、卒業証書の提示を求められることもなかった。誰とでも会うことができたし、世界は手に届くところにあった。
ESQ:待ってください。あなたは、卒業証書というものを重要視しないのですか?
RK:卒業証書を信頼していないわけではありませんよ。けれど、それがなくてもいろいろなことができたのは幸運でしたね。ジャーナリストや脚本家になるための学位など持っていませんでした。私は建築の学位を持っていますが、それも副次的なものですし。
Styling Assistants / BERNADETTE VAN WIJLEN, BILAL MOURCHID
Digital / OLOF ÖSTERLIND
Production / SABRINA BEARZOTTI
※本特集に登場する衣服とアクセサリーはすべてプラダのもの。
出典:『Esquireイタリア版』2025年5月号
※雑誌『Esquire Japan』2025年10月号より転載