ニコ・ピロスマニ《女優マルガリータ》1909年、油布・油彩、117×94cm、ジョージア国立美術館蔵
Photo Art Media/Heritage Images/Scala, Florence
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簡素な絵画の深遠
今夏(2025年)は、日本列島の夏の様相が変わってしまうほどの熱暑が続いた。北も南も気温に大差がなく、冷房のない北海道は危険だろう。北海道の北見で7月24日に39.0℃を観測、群馬県伊勢崎で8月5日、41.8℃を記録し、国内最高気温を更新した。さらに熱せられた海によって雲ができ、雨も穏やかに降ってくれず、九州には線状降水帯が容赦なく発生する。日本列島の四季は巡ってくるのか。ふと、照り返すベランダに目をやると、鉢植えの小さなバラが淡いピンクホワイトの花を三輪咲かせていた。暑さに耐えた証なのか、バラの生命力に感心した。
「百万本のバラ」という歌がある。貧しい画家が女優に恋をしたストーリーで、加藤登紀子のヒット曲で知られる。歌の主人公の画家は、ニコ・ピロスマニという実在の人物だそうだ。《女優マルガリータ》(ジョージア国立美術館蔵)が代表作というが、どのような絵画なのだろう。
本に掲載された作品を見てみると、縦長の画面中央に、全身白のドレスに黒いロングヘア、ふっくらした頬、太い眉、大きい瞳の白い肌の女性が、大きく胸元を開けて堂々と立ち、正面を向いて遠くを見ている。女性は縦プリーツのスカートと横縞のタイツをつなぐように、長いベージュ色のサッシユを締め、両腕とドレス、小さな両足をハの字に開き、すべてを受け止めようとしている。背景は、陽が昇る前の空に暗い草はら。上下で明と暗が分かれており、動と静、天国と地獄を暗示するようだ。簡素な絵画だが深遠を感じる。
この作品から創作のインスピレーションを得るアーティストが多いと聞いたことがある。創作者たちはこの絵から物語を紡ぎ出したくなるのだろう。《女優マルガリータ》の見方を、画家であり、絵本作家でもあるはらだたけひで氏(以下、はらだ氏)に伺ってみたいと思った。
はらだ氏は、著書『放浪の画家ニコ・ピロスマニ』(冨山房インターナショナル、2011)や『放浪の聖画家 ピロスマニ』(集英社、2014)を書かれ、長年ピロスマニについて考え続けてこられた。東京・国分寺の喫茶店で話を伺うことができた。
はらだたけひで氏
畏怖を感じた
はらだ氏は1954年東京都小平市に生まれた。将来について思い悩んでいた高校時代、表現することを渇望していたはらだ氏は、信州を転々と彷徨(ほうこう)し、独学で絵を描いていた。コンセプチュアルアートの松澤宥(ゆたか。1922-2006)の作品に興味を持ち始め、現代思潮社が運営する「美学校」へ入り、現代美術の教鞭を執る松澤に師事した。やがて松澤夫妻には結婚式の仲人をしてもらうなど、長野県の下諏訪に住んでいた松澤とは家族ぐるみの付き合いとなった。
1974年20歳のとき、美学校と同じ神田にある岩波ホール(2022年に閉館)で働かないかと誘われ、アルバイトを始めた。翌1975年にはらだ氏はエキプ・ド・シネマ★の活動を始めたばかりの岩波ホールに正式に入社した。以降、2019年に岩波ホールを定年退職するまで、およそ44年間、総支配人の高野悦子氏のもとで企画広報等を担当し、約60カ国、約260作品の映画の日本公開に携わることになった。
はらだ氏にはこれまで自身を支えてきた3つの出会いがあるという。17歳のときの『空と夢』の著者ガストン・バシュラール、19歳のときにフランコ・ゼフィレッリ監督の映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』を通して知ったアシジの聖フランチェスコ、そして24歳のときに出会ったニコ・ピロスマニである。
はらだ氏が、ピロスマニの絵に初めて出会ったのは、1977年東京国立近代美術館
で開催されていた「素朴な画家たち展」だった。そこにこの《女優マルガリータ》は出展されていなかったが、ピロスマニの絵には、どれも洗練されたアンリ・ルソー(1844-1910)とは大きく異なるユーラシアの土の深くから生まれてきたような存在感があり、強い印象を受けたという。
翌年1978年の秋、正社員となって3年目、ジョージア映画『ピロスマニ』が岩波ホールで公開された。担当者になったはらだ氏は、その映画に自身を重ねて、束縛を嫌い、誇り高く、純粋で、澄み切ったピロスマニの魂に心を奪われたという。来日したギオルギ・シェンゲラヤ監督から「ピロスマニを知るためには、ジョージアを知らなければならない」と諭すように言われたはらだ氏は、1981年妻と共に初めてジョージアを訪れた。新婚旅行だった。
東西冷戦のさなかのジョージアは、15あるソビエト連邦の共和国のひとつで、まだグルジアと呼ばれていた時代。はらだ氏は、シェンゲラヤ監督と息子ニクシャに迎えられ、連日眠る間もないほどジョージア文化を味わった。はらだ氏はジョージアの民族文化の虜になり、帰国後の1986年、同好の識者とともに「日本グルジア友の会」を設立した。同年、西武美術館では「グルジアの放浪画家ニコ・ピロスマニ展」が開催され、《女優マルガリータ》など、厳選された50点が展示された。
はらだ氏が《女優マルガリータ》を初めて見たのは、グルジア時代の1981年で、国立グルジア共和国美術館の展示室の正面に掲げられていたときだった。その第一印象は「怖い。畏怖を感じた」であった。
★──岩波ホールを拠点に未公開の内外の名作を一般に紹介する映画上映運動。「映画の仲間たち」を意味するフランス語。
戦争と芸術の国
ジョージアは、日本では2015年まで「グルジア」というロシア語からの呼称であった。ジョージア語では「サカルトヴェロ」という。しかしソ連邦解体後、ジョージアからの要請で英語呼称の「ジョージア」となったという。北はコーカサス山脈を境にロシアと接し、南はトルコとアルメニア、東はアゼルバイジャン、西は黒海。ヨーロッパとアジアが交差する地域である。面積は日本の約5分の1、人口は約370万人、首都はトビリシ。公用語はジョージア語で、宗教は主としてジョージア正教である。いまも国土の約20%にあたるアブハジアと南オセチアがロシアの占領下に置かれている(2025年8月現在)。
自国について「戦争と芸術の国」と答えたのは、2019年に来日したサロメ・ズラビシュヴィリ大統領だった。戦争と芸術が隣合わせの国なのだろうか。
はらだ氏は、ジョージアの固有の文化を3つ挙げるならば、ひとつ目は、キリスト教(ジョージア正教)で、4世紀初頭にカッパドキア出身の女性、聖ニノによって、アルメニアに次いで世界で2番目にキリスト教を国教と定めた。2つ目は、言語と文字。5世紀頃、聖書を翻訳するために考案されたといわれているジョージア語と文字。カルトゥヴェリ語族(南カフカス語族)に含まれており、現在の文字数は33でブドウの蔓を思わせる曲線が特徴的。3つ目は、ブドウとワイン。ワインがジョージア人のアイデンティティそのものであり、キリストの血の象徴でもあるように、キリスト教信仰と深い関わりをもつ。ジョージアのブドウは500種以上ある。東部のカヘティ地方は名高いジョージアワインの産地で、なだらかな丘陵の畑が広がる。侵略者たちは、真っ先にジョージアの象徴である民族的伝統と精神に深く結びついているブドウの木を切り払ったが、ブドウは繰り返し再生してきた。
また、ワインから派生した文化に、スプラ(ジョージア式宴会)とポリフォニー(多声音楽)、舞踊がある。スプラでは最初に宴会の長であるタマダが選ばれる。タマダは人々に尊敬される人格者で美しい乾杯の辞を述べる詩人、そして酒豪でなければならない。ジョージア人はスプラを通して、神を尊び、客人をもてなし、ひとときに、永遠の歓びを求める。この国の人々の思いが結実した民族文化と歴史を抜きにしてピロスマニの作品は語れない。
「百万本のバラ」の主人公
ニコ・ピロスマニは、帝政ロシア下のグルジア(現ジョージア)東部カヘティ地方ミルザアニ村で、貧しい農家に生まれたと言われている。ピロスマニについて残されている記録は少なく、いまだ真実は不明で異説が多い。生年は長く1862年とされてきたが、近年は1863年から66年までさまざまな説があり、出生地もアルメニア国境近くのシュラヴェリという説がある。
ピロスマニの本名はニコロズ・ピロスマナシヴィリ。愛称はニコ、ニカラ、ニコライ。父はアスラン・ピロスマナシヴィリ、母はテクレ・トクリカシヴィリ。2人の姉マリアムとペペ、兄ギオルギがいた。一家は、ミルザアニ村からシュラヴェリにあるカランタロフ家のブドウ畑へ移る。ピロスマニがまだ幼い8歳ごろ、兄、父、母が相次いで亡くなり、カランタロフ家が母の遺言に応えて、ピロスマニを引き取ることになる。
富裕なカランタロフ家は1880年前後に、シュラヴェリからティフリス(現トビリシ)へ移住する。ピロスマニは、大家族の一員として可愛がられ、読書や絵を描く少年時代を過ごす。しかし、20代半ばの頃、一家の三女で年上の未亡人エリサベトに恋文を出したことから騒動になり、ピロスマニは家を出た。友人と看板屋を始めたが倒産。1890年にザカフカス鉄道会社に就職。貨物列車の車掌としてコーカサス地方一帯を旅する。しかし、生来の風変わりな性格と崩しがちな体調で、1894年クビ同然で辞めることになった。その後、退職金を元手に友人と乳製品の店を開いた。店は繁盛したが、元来の気ままな性格、浪費癖で友人との関係は破綻してしまう。
その後、ピロスマニはティフリスの街なかを転々と放浪し、その日の食事や酒と引き換えに、店の看板や壁に飾る絵を描くようになる。絵を描ければどんな仕事も厭わず、寝られるならばどんな場所でも良かった。居酒屋の主人たちが主に面倒をみてくれたが、背が高く黒いフェルト帽に背広というピロスマニの西洋風の服装から「伯爵」とからかわれた。
1905年、フランスからマルガリータ・ド・セーヴルという女優が、ティフリスに巡業でやってきた。伝説では、ピロスマニはマルガリータに恋をし、女優の泊まっていた宿の前を所持金をすべて使って買った花で埋め尽くした。女優はピロスマニに知らせることなく次の巡業地へと旅立ち、恋は実らなかった。そしてピロスマニは《女優マルガリータ》を描いた。この切ない恋を裏づけるのは、ピロスマニの知人パピアシュヴィリの「ニカラ(ピロスマニ)はホテルに滞在していたフランス人女性と1年間交際していた」という証言だけである。この逸話については後日談があり、1969年にパリの装飾芸術美術館で開催された「ピロスマニ展」にマルガリータ本人が現われて、自分の絵の前に立ち、当時は彼の愛がわからなかったと語ったらしい。
はらだ氏によると、現代ロシア語の名文を著す作家コンスタンチン・パウストフスキーの代表作『生涯の物語』の第五部「南へ」(1959-60)のなかにピロスマニとマルガリータの物語が書かれており、詩人アンドレイ・ヴォズネセンスキーはこの本からインスピレーションを得て、「百万本のバラ」の作詞をしたという。
ジョージアを代表する国民的画家
1912年にピロスマニの才能を見出したのは、詩人のイリヤと画家のキリルというズダネヴィッチ兄弟と、画家ミハイル・ル・ダンチュだった。3人はモスクワの仲間に画家ピロスマニの存在を知らせ、新聞記事に掲載されるよう努めた。1913年彼らはピロスマニの絵4点をモスクワで開かれた前衛美術展「標的」に展示し、ピロスマニは一躍注目される。1914年第一次世界大戦が勃発。1916年5月5日の1日のみ、ティフリスのイリヤ・ズダネヴィッチのスタジオで、初の個展が開かれ約80人が来場した。
ジョージア美術協会に招待されたピロスマニは、「街の中心の、誰からも近い所に、みんなが集える大きな木の家を建てましょう。大きなテーブルと、大きなサモワール(湯沸かし器)を買って、お茶をたくさん飲みながら、そこで絵や芸術のことを語り合うのです」とスピーチをした。そして10ルーブルの援助金が贈られた。ピロスマニは「私はこのお金で絵具を買い、絵を仕上げてまた戻ってきます」と言った。サハルホプルツェリ新聞はピロスマニの肖像写真と、約束を果たして協会に寄贈した作品《ジョージアの伝統的結婚式》を6月19日に掲載した。
しかし、ひと月も経たない7月10日、同紙にピロスマニを揶揄する戯画が掲載され、ピロスマニはどん底に突き落とされた。周囲から笑いものにされた彼は深く傷つき、再び孤独な生活に入り込む。以前にもまして深酒となったが、絵を描くことは止めなかった。
1917年ロシア革命によりロシア帝国は崩壊する。1918年春、復活祭の日、近くに住む靴職人が病身のピロスマニをモロカニ通り(現在のピロスマニ通り)29番地の半地下の穴倉の中で発見。病院に搬送されたが死亡。共同墓地に埋葬したといわれているが、裏付ける資料はなく死亡についても諸説ある。
ピロスマニは素朴派にくくられることが多かったが、正面性、対称性、内在する精神世界と民族性などから、現在では既存の流派ではなく、独自の世界を目指したひとりの天才画家として語られるようになっている。パブロ・ピカソ(1881-1973)は1930年代の早い時期に、ピロスマニの絵を見ていて、知人に「ジョージアに私の絵は必要ない。なぜならピロスマニがいるから」といい、1872年にはピロスマニがキャンバスに向かう姿を銅版画に描いた。
自由を渇望していたピロスマニは、生涯に人物や動物、農村風景、伝説など1,000点から2,000点もの絵を描いたと言われ、1983年のカタログでは217点が確認されており、ジョージア国立美術館ではそのうち146点を所蔵している。いまではピロスマニはジョージアを代表する国民的画家として人々に尊敬され、愛されている。演劇やミュージカル、交響曲にもなり、映画や歌もある。彼の姿や絵は紙幣や貨幣にもなり、街のいたるところで絵の複製を見る機会がある。
女優マルガリータの見方
①タイトル
女優マルガリータ(じょゆうまるがりーた)。英題:The Actress Margarita
②モチーフ
女優マルガリータ、花束、鳥、切株、空、草はら。
③制作年
1909年と言われる。当時は、帝政ロシア下で、ピロスマニ推定47歳頃。
④画材
油布(Oilcloth:綿や麻に油や合成樹脂を塗布して防水性を持たせた布地)・油彩。
⑤サイズ
縦117×横94cm。大画面であるため、注文者がいたと思われる。
⑥構図
縦長の画面中央に、真正面を向き、直立した女性を天地いっぱいに配置している。背景には雲の湧き立つように青空の下に、草はらの地平線を描く。女性の垂直線と草はらの水平線によって作られる十字形が、安定した対称形構図をなし、大胆な構成の中に女性の包容力、存在感が強調される。
⑦色彩
白、青、茶、黄、緑、黒など多色。絵具を節約していたピロスマニは、限られた色数しか用いなかった。
⑧技法
油彩。ムシャンバと呼ばれる黒地の油布を使い、下描きをせずに直接市販の油絵具で平面的に描く。絵具は簡素に薄塗りで、筆跡を通して画面のところどころが透けており、油布の黒色が見える。女性は黒い輪郭線でモニュメンタルに描かれ、背景から浮かび上がっている。
⑨サイン
ロシア語のキリル文字で画面左下にタイトルが、右下にピロスマニのサインが入っている。英語にすると左がThe Actress Margarita、右がN.Pirosmanashvili。ピロスマニの残存作品のなかで、タイトルとサインがある作品は少なく、本作からはピロスマニの自信のほどが伺える。
⑩鑑賞のポイント
よく知られている伝説では、ピロスマニは1905年、カフェの音楽会でフランスから巡業で訪れた女優マルガリータと知り合った。歌と踊りが上手く、若々しいフランス生まれのマルガリータに恋心を抱き、彼女が働く店に通いつめた。ある日、所持金すべてを使って、街中の花を買い、マルガリータの宿の前を花で埋め尽くした。マルガリータは感動してピロスマニと会う約束をするが、その約束の日を前に、ピロスマニに知らせることなく、次の巡業地へと旅立っていたと言われている。この絵は、生涯独身であったピロスマニが残した数少ない特定の女性を描いた肖像画である。1969年3月、パリ装飾芸術美術館でヨーロッパ初のピロスマニ展が開催された。マルガリータと名乗る女性が3日間続けて姿を見せ、絵を眺めては涙を流していた。関係者がピロスマニの愛を伝えると、ピロスマニのことを覚えていて「それなら、はっきり言ってくれれば良かったのに」と答えたという。本作は、愛・希望を表わす黄色い小鳥[図1]と、断たれた夢や絶望を暗示する草はらに残された木の切株[図2]をつなぐように女性が立っている。白い衣装と白い肌と白い花束が不思議な役割を演じており、生きている人間を超えた存在感は、人形のように冷たい表情をたたえている。粗末な靴下や安物の衣装を身に着けて、純潔や貞操を暗示する花束を手に持ち、初々しい花嫁の姿にも見える。限られた色彩と巧みな構成、原初への郷愁に触れる謎に満ちたピロスマニの代表作である。
図1 黄色い小鳥
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図2 草はらに残された木の切株
圧倒的な存在感
《女優マルガリータ》の見どころについて、「ピロスマニの作品の特徴であるモニュメンタルな絵への志向、イコンを思わせる人物画の要素がよく表われていると思う。私は正直なところ、この絵に畏怖のような感情を抱いている。彼独自の黒いキャンバスに描く手法によって深い海の底のようにも見える青を背景に、白い色が際立って強く迫ってくる。堂々たる体躯で正面を向き、しっかりとした黒い眼差しで見る者の心を捉えている。そして大理石のような白い肌、白い衣装に白い花束。内奥から白く冷たく発熱しているような、あたかも古代エジプトの豊穣の女神であるイシス神、あるいは観音菩薩を思わせる、原初の異教的な、圧倒するエネルギーを感じる。一方で、彼の女性への愛を暗示させる黄色い鳥が彼女にまとわりつくように飛び、断ち切られた2本の木が痛々しく、彼のマルガリータへの一途で純粋な愛を想像せずにはいられない。この絵は1909年の作とされており、フランスから来たマルガリータがジョージアを訪れた4年後のことである。2人の間に何があったにせよ、彼女の存在は4年の歳月を経て、崇高な絵画に昇華されたと私は考えている」と、はらだ氏は語った。
はらだ たけひで(はらだ・たけひで)
画家・絵本作家・ジョージア映画祭主宰。1954年東京都生まれ。都立高校卒業後、現代思潮社「美学校」へ入学し、松澤宥氏に師事、現代美術を学ぶ。1974年岩波ホールのスタッフとして働き始め、翌年正式入社。主に企画広報担当として約60カ国、約260作品の映画の日本公開に携わる。1978年公開の映画「ピロスマニ」を担当したことを機に、ジョージア映画と同国の画家ピロスマニに関心を深め、ジョージア文化の紹介に努める。2019年定年退職。その他、創作絵本や挿画の制作などの活動も注目されている。主な賞歴:産経児童出版文化賞入賞(絵本『パシュラル先生』)、ユニセフ=エズラ・ジャック・キーツ国際絵本画家最優秀賞(絵本『フランチェスコ』)、ジョージア政府より文化功労賞「ジョージアの友」授与(2022)、在日ジョージア大使館より感謝楯が贈られる(2024)。主な著作:絵本『パシュラル先生』(すえもりブックス、1989)、絵本『フランチェスコ』(すえもりブックス、1992)、絵本『大きな木の家 わたしのニコ・ピロスマニ』(冨山房インターナショナル、2007)、『放浪の画家ニコ・ピロスマニ──永遠への憧憬、そして帰還』(冨山房インターナショナル、2011)、『放浪の聖画家 ピロスマニ』(集英社、2014)、『グルジア映画への旅』(未知谷、2018)、『ジョージア映画全史──自由、夢、人間』(教育評論社、2024)。
ニコ・ピロスマニ(Niko Pirosmani)
ジョージアの画家。1862?~1918?。帝政ロシア下のグルジア(現ジョージア)東部カヘティ地方ミルザアニ村の農家に生まれたとされる。ピロスマニの生涯は、多くが謎と伝説に包まれている。本名はニコロズ・ピロスマナシヴィリ。愛称はニコ、ニカラ、ニコライ。父はアスラン、母はテクレ。2人の姉と兄がいた。8歳の頃、兄、父、母を相次いで亡くし、貴族カランタロフ家に引き取られた。20代半ばの頃、一家の三女で未亡人のエリサベトに恋文を書いたことから騒動になり家を出た。友人と看板屋を始めたが倒産する。1890年ザカフカス鉄道会社に就職、体調を崩しがちで1894年に辞職。その後、友人と乳製品の店を開いた。繁盛していたが2人の関係が悪化して店を離れる。その後、街なかを転々と放浪しながら、その日の食事や酒と引き換えに、店の看板や壁に飾る絵を描くようになる。1905年フランスからマルガリータという女優がティフリスに巡業でやってきた。ピロスマニは彼女に恋をし、《女優マルガリータ》を描いたと言われている。1912年詩人と画家のズダネヴィッチ兄弟、画家ミハイル・ル・ダンチュの三人によって、ピロスマニの才能が見出され、新聞記事となる。1913年モスクワで開かれた前衛美術展「標的」に4点が展示される。1914年第一次世界大戦勃発。1916年5月イリヤ・ズダネヴィッチのスタジオで初個展。同月ジョージア美術協会に招待されて「大きな木の家を建てましょう」とスピーチ。7月サハルホプルツェリ紙にピロスマニを揶揄する戯画が掲載、深く傷つく。1918年春、半地下の穴倉で重い病の状態で発見されて病院に搬送され、その1日半後に死亡したといわれている。代表作:《女優マルガリータ》《キリン》《小さなキント》《小鹿のいる風景》《座る黄ライオン》《収穫期》《カヘティの叙事詩》。
デジタル画像のメタデータ
タイトル:女優マルガリータ。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:ニコ・ピロスマニ《女優マルガリータ》1909年、油布・油彩、縦117×横94cm、ジョージア国立美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:ジョージア国立美術館、Scala、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式29.0MB、300dpi、8bit、RGB。資源識別子:scala_K515080.jpg(Jpeg形式29.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:(株)DNPアートコミュニケーションズ。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:ジョージア国立美術館、Scala、(株)DNPアートコミュニケーションズ。
画像製作レポート
《女優マルガリータ》の画像は、DNPアートコミュニケーションズ(DNPAC)へメールで依頼した。後日、DNPACからのメールにより、作品画像をダウンロードして入手(Jpeg、29.0MB、300dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。トリミング2点、掲載は1年間。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。書籍『ニコ・ピロスマニ 1862-1918』を参考に画像の色味を調整した(Jpeg形式29.0MB、300dpi、8bit、RGB)。
ジョージア国立美術館単独のホームページがなく(2025年8月12日現在)、また本作品《女優マルガリータ》の画像を美術館が公開していないのか、Web上に美術館コレクションの画像を発見することはできなかった。そのため、書籍掲載の《女優マルガリータ》を基に色調整を行なった。大伴の作品図版だった『ニコ・ピロスマニ 1862-1918』(交遊社、2008)を参考にしたが、はらだ氏から助言を得て明度を少し上げた。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。
参考文献
・図録『グルジアの放浪画家ニコ・ピロスマニ展』(西武美術館、1986)
・はらだ たけひで『大きな木の家 わたしのニコ・ピロスマニ』(冨山房インターナショナル、2007)
・ニコ・ピロスマニ著、木村帆乃編『ニコ・ピロスマニ 1862-1918』(交遊社、2008)
・大野正美「うたの旅人 貧しい画家のかなわぬ恋/加藤登紀子『百万本のバラ』」(『朝日新聞』be on Saturday-Entertainment、朝日新聞社、2008.11.1)
・鴻野わか菜「ニコ・ピロスマニとティフリス──ロシア・アヴァンギャルドのアルカディア」(図録『青春のロシア・アヴァンギャルド:モスクワ市近代美術館蔵』、アートインプレッション、2008、pp.98-99)
・はらだ たけひで『放浪の画家ニコ・ピロスマニ──永遠の憧憬、そして帰還』(冨山房インターナショナル、2011)
・はらだ たけひで『放浪の聖画家 ピロスマニ』(集英社、2014)
・はらだ たけひで「ニコ・ピロスマニ(ニコ・ピロスマナシュヴィリ)」(DVD『放浪の画家 ピロスマニ』ブックレット、アイ・ヴィー・シー、2017、pp.6-9)
・Takehide Harada:Memories of Paradise, Niko Pirosmanashvili:A Study of His Life and Art(Unicorn Publishing Group、2024、pp.524-525)
・はらだ たけひで『ジョージア映画全史──自由、夢、人間』(教育評論社、2024)
・Webサイト:「Niko Pirosmani House Museum」(『Georgia.to』)2025.8.5閲覧(https://georgia.to/en/places-to-go/kakheti/niko-pirosmani-house-museum/)
・Webサイト:「Georgian National Gallery」(『Georgia.to』)2025.8.5閲覧(https://georgia.to/en/places-to-go/tbilisi/georgian-national-gallery/)
・Webサイト:『Georgian National Museum』 2025.8.5閲覧(https://museum.ge/)
・Webサイト:「Niko Pirosmanishvili, The Actress Margarita」(『Scala Archives』)2025.8.5閲覧(https://search.scalarchives.com/id/01929044)
掲載画家出身地マップ
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2025年8月