編集委員 丸山淳一

 戦後80年の節目となる終戦の日に、実在した「奇跡の不沈艦」を描いた映画『雪風 YUKIKAZE』(配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント/バンダイナムコフィルムワークス)が公開された。雪風艦長・寺澤一利を竹野内豊さん、寺澤を補佐して下士官をまとめる先任伍長・早瀬幸平を玉木宏さんが演じる。

竹野内豊さんが演じる雪風艦長、寺澤一利(左)。冷静沈着で神がかった操艦で、敵の攻撃を避ける(C)2025 Yukikaze Partners.竹野内豊さんが演じる雪風艦長、寺澤一利(左)。冷静沈着で神がかった操艦で、敵の攻撃を避ける(C)2025 Yukikaze Partners.玉木宏さんが演じる先任伍長の早瀬幸平(C)2025 Yukikaze Partners.玉木宏さんが演じる先任伍長の早瀬幸平(C)2025 Yukikaze Partners.

 「雪風」は日本海軍の駆逐艦で、16以上の作戦に従事し、九つの海戦に参加しながら激戦をくぐりぬけ、終戦まで沈まなかったのは史実だ。だが、この映画はその史実を基にしたフィクションで、太平洋戦争中の雪風の艦長4人の中に寺澤一利という名前の艦長はいない。

 映画の中で寺澤艦長は艦橋のハッチ(
天(てん)蓋(がい)
)から顔を出し三角定規を使った神がかった操艦を見せる。天蓋から顔を出す操艦は他の艦長もやっているが、三角定規を使ったのは5代目艦長の寺内正道(1905~78)しかいない。寺澤艦長のモデルは寺内なのかと思ったが、映画を見ていくと、どうも彼だけがモデルではないな、と気づく。

数々の修羅場をくぐり抜けた奇跡の不沈艦、雪風(C)2025 Yukikaze Partners.数々の修羅場をくぐり抜けた奇跡の不沈艦、雪風(C)2025 Yukikaze Partners.1人で引き受けた劇中の寺澤

 寺内は体重86キロの巨漢で無類の酒好き、豪放
磊落(らいらく)
な性格で、ついたあだ名は「ねじり鉢巻きのダルマさん」。劇中の寺澤は端正な外見で、とてもダルマには見えない。寺内は終戦前に艦長から退いているのに、寺澤は戦後に復員輸送船となった雪風の艦長も務めており、これも史実と違う。

 映画では寺澤が夜間も艦内を見回って乗員に声をかけていたが、これは第3代艦長の飛田健二郎の逸話だろう。映画の終盤には輸送船となった雪風の艦内で引き揚げ者が出産したり、激務が続いた寺澤が倒れたりするシーンもあるが、艦長室での無事出産を喜んで生まれた男児に「博雪」と名づけ、心臓
脚気(かっけ)
に見舞われて艦長を辞したのは第8代艦長の佐藤精七だった。

 つまり、劇中の寺澤は、歴代雪風艦長の個性を1人で引き受けている。海軍では艦長の在任期間は1年から2年程度が普通で、映画がそれを史実通りに描けば20分ごとに艦長が変わってしまい、観客が感情移入しにくいという事情があるのだろうが、この映画が伝えたいメッセージとも関係があるのではないか。

「私が艦長の間は沈むことはない」雪風乗員に着任のあいさつをする寺澤艦長(C)2025 Yukikaze Partners.雪風乗員に着任のあいさつをする寺澤艦長(C)2025 Yukikaze Partners.

 直木賞作家で海軍軍人でもあった
豊(とよ)田(だ)穣(じょう)
(1920~94)は著書『雪風ハ沈マズ』の中で、寺内が雪風に着任した時に「この寺内が艦長の間は、本艦はいかに敵艦や飛行機がやってきても絶対に沈むことはない。心配せずに持ち場で働け。なぜ沈まんかと言うと、それはわしが艦長をするからだ」と豪語した、と記している。寺内の前任の第4代艦長、菅間良吉も乗員たちに「この雪風には幸運の神が宿っている」と話していたという。

 いずれも本当にこんなことを言ったのか、やや怪しい面もあるのだが、奇跡の不沈艦を象徴するような話ではある。ところが寺澤は映画の中で「これまで通りやってくれ」というごく簡単なあいさつしかしていない。歴代艦長の気概を示すにはもってこいの、この口上をしていない。

 太平洋戦争中に雪風を任された艦長のうち、飛田、菅間、寺内の3艦長はいずれも卓越した操艦技術を持っていた。映画の中の寺澤も神がかった操艦能力を持っていたが、豪傑でも自信家でもなく、自分より先に戦死していった同期たちの写真を見ながら苦悩する。寺澤を支える乗員たちもそれに従い、熟練した動きと連携で自らの責務を果たすことに全力を挙げる。

 寺澤も雪風の乗員も、あえて楽観的な不沈神話に背を向けるのは、生きることが奇跡だった時代に葛藤した人々を描くことで、当たり前のように生きる日常の尊さを訴えるためだろう。

 太平洋戦争を通じて雪風乗員の死者は9人にとどまっている。実在した雪風とその乗員たちは、どのようにこの葛藤を乗り越え、生き抜いたのか、史実の雪風を見てみよう。

「何でも屋」のように酷使された佐世保沖を航行中の竣工直後の雪風(1940年1月、米海軍歴史遺産司令部蔵)佐世保沖を航行中の竣工直後の雪風(1940年1月、米海軍歴史遺産司令部蔵)

 雪風は全部で19隻が建造された「
陽炎(かげろう)
型駆逐艦」の8番艦として、昭和15年(1940年)に就役した。駆逐艦はその名の通り、味方の戦艦や空母などの主力艦に近づいてくる敵の小型艦や潜水艦を魚雷や爆雷で「駆逐」する、艦隊決戦の
先鋒(せんぽう)
としての役割を担っていた。

 ロンドン海軍軍縮条約から日本が脱退し、駆逐艦を含む補助艦艇に対する制限がなくなり、海軍は小回りがきいて航続距離も長い基準排水量2000トン級の駆逐艦の建造を急いでいた。「陽炎」を1番艦とする陽炎型は、当時の日本海軍の技術力の粋を集めた画期的な最新艦だったが、太平洋戦争では航空戦力による戦いが主流となり、日本が望んだ艦隊決戦の機会はなかなか訪れなかった。

 このため、駆逐艦は駆逐以外にもさまざまな任務に就いて、「何でも屋」のように酷使された。貨物船やタンカーなど民間輸送船団の護衛はもちろん、自らドラム缶をえい航する「
鼠(ねずみ)
輸送」にも従事した。ガダルカナル島からの撤収では多数の兵員を運んでいる。

雪風は沈没した僚艦の乗員を多数救出する(C)2025 Yukikaze Partners.雪風は沈没した僚艦の乗員を多数救出する(C)2025 Yukikaze Partners.

 「勝ち戦」に参加したのは開戦から半年ほどに過ぎず、それ以降は大破した味方の船に魚雷を撃って沈めたり、撃沈された船の兵を海上から助け上げたりする「敗戦処理」が主な任務となっていく。負け戦の後始末をするのは多くがいつ敵に攻撃されてもおかしくない危険な海域。ギリギリまでその海域を離脱することは許されない。

 雪風が参加した主な作戦や海戦を地図に照らし合わせると、日本周辺からミッドウェー、ガダルカナル、サイパンまで、太平洋各地で休みなく戦い続けていることが分かる。その戦場の多くで雪風の乗員は、艦を沈められて波間を漂う兵士たちに「がんばれ」「死ぬなよ」と声をかけ続けたのだ。

 海戦では戦艦や空母の盾となり、休む間もなく護衛や輸送任務を続けた駆逐艦は、戦局が不利になるにつれて次々に敵に「駆逐」されていく。陽炎型19隻のうち、終戦時に海に浮いていられたのは雪風1隻だけだった。

敵の魚雷をぎりぎりで回避する雪風(C)2025 Yukikaze Partners.敵の魚雷をぎりぎりで回避する雪風(C)2025 Yukikaze Partners.謎の「栗田ターン」

 雪風は最初から幸運だったわけではない。開戦直後の昭和16年(1941年)12月にはフィリピン・ラモン湾上陸作戦に参加して被弾し、ダバオの基地で修理中に米軍の爆撃の標的になっている。映画でも描かれているが、この時雪風は機関部を稼働させていたため素早く基地から逃げ出すことができ、爆撃を回避している。

 昭和17年(1942年)11月の第3次ソロモン海戦は夜間の艦隊戦となり、同士討ちが起きる乱戦となった。雪風は敵の攻撃で航行不能寸前まで損傷するが、運よく発生したスコールを利用し、雨雲に守られて生還している。

 爆撃時に機関部を動かしていたのは運というより、「常在戦場」の精神によるものだろう。天候の急変をも味方につけることができたのも、変化への対応力があったからだ。運を呼び込んだのは的確な判断で、それは訓練や整備が行き届いていなければ生まれない。訓練や整備を欠かさなかったのは、この戦争を生き抜く強い信念があったからだろう。

謎の「栗田ターン」を命じた栗田健男(米海軍歴史遺産司令部蔵)謎の「栗田ターン」を命じた栗田健男(米海軍歴史遺産司令部蔵)

 フィリピン奪還を目指す米軍を撃退すべく行われた昭和19年(1944年)10月のレイテ沖海戦では、映画では藤田宗久さんが演じる栗田健男中将(1889~1977)が率いる「大和」などとともにレイテ湾突入を図る。だが、栗田が突入直前にUターンを命じたため、雪風も敵を目前にして反転を余儀なくされた。「栗田ターン」と呼ばれるこの反転の理由は諸説あるが、いまだに謎とされている。

 だが、雪風はただ反転・離脱したわけではなかった。発電機の故障で十分な速度が出せなくなっていたにもかかわらず、敵駆逐艦「ジョンストン」を撃沈している。しかもボートで漂流するジョンストンの艦長や乗員が丸腰とわかると銃の発射を止め、敬礼している。米軍は日本の漂流船を容赦なく銃撃していたにもかかわらず、だ。

当時最大の空母だった「信濃」のイラスト(米海軍歴史遺産司令部蔵)当時最大の空母だった「信濃」のイラスト(米海軍歴史遺産司令部蔵)

 レイテ沖の激戦の1か月後、雪風は空母「信濃」の護衛を命じられる。信濃はほぼ完成していたが、細部の工事を呉(広島県)で行うため、横須賀(神奈川県)から回航されることになっていた。寺内は「米軍の潜水艦が網を張っており、夜間の移動は危ない」と進言したが聞き入れられず、世界最大級の空母だった信濃は米潜水艦に魚雷を撃ち込まれ、海戦に参加することなく竣工からわずか10日で海の
藻(も)屑(くず)
となった。

 雪風は他の駆逐艦とともに計1400人を救助したが、790人が死亡した。信濃に搭載していた人間爆弾・桜花が浮き輪代わりになって多くの人が助かるという皮肉なできごとが起きたのもこの時だ。寺内艦長は波間に漂う乗員を見ながら「なれっこになったな。こういう光景に」とつぶやいたという。敵に武士の情けを見せる一方で、危険を予測しつつ味方を死なせてしまった。雪風の乗員の思いは複雑だったのではないか。

「この雪風を沈めてなるものか」

 映画では描かれなかったが、寺内ら雪風乗員の生への強い思いを示す逸話がある。昭和20年(1945年)4月の戦艦大和の海上特攻作戦(天一号作戦)に参加した時のことだ。雪風は他の駆逐艦とともに大和を護衛するが、映画では中井貴一さんが演じる第二艦隊司令長官の伊藤整一(1890~1945)は、出撃前から大和と運命をともにする覚悟を決めていた。

中井貴一さんが演じる第二艦隊司令長官の伊藤整一(C)2025 Yukikaze Partners.中井貴一さんが演じる第二艦隊司令長官の伊藤整一(C)2025 Yukikaze Partners.坊ノ岬沖で米軍に攻められる大和(『報道写真にみる昭和の40年』国立国会図書館蔵)坊ノ岬沖で米軍に攻められる大和(『報道写真にみる昭和の40年』国立国会図書館蔵)

 他の艦も乗員が遺書を書き、通常なら駆逐艦はつけられない菊の紋章を煙突に描いてこの作戦に臨んだが、寺内は遺書も菊の紋章も禁止し、出撃の前日に乗員にその理由を打ち明けている。

 「死にゆく特攻には俺は不賛成だ。明日はアメちゃん(米軍)の飛行機が殺到するだろうが、この雪風を沈めてなるものか。俺は部下を自殺させるようなことはしない」

 坊ノ岬沖海戦で寺内艦長は、いつものように艦橋のハッチに顔を出し、三角定規で爆弾の落下位置を読みながら操舵士の肩を足で蹴って
面舵(おもかじ)
、取り舵を指示し続けた。ロケット弾の直撃を受けたが不発に終わったともいわれる。神がかった操艦で示した生への思いが天に届いた、とも思いたくなる。

 大和が火だるまになると、伊藤は「もう十分だろう」と作戦の中止を命じる。大和の乗員救助の命令が出ると、雪風は敵に攻撃される危険をいとわず、数時間にわたってくまなく波間を探索して生存者を救助している。だが、雪風の乗員は、救助された生存者が
安堵(あんど)
の色を浮かべると「これから沖縄で戦わなければならんのだ。甘えるなっ」と一喝したという。「たとえ1隻になっても沖縄へ突っ込む」と考えていたようだ。

 特攻の継続は「生き抜く」ことと矛盾するようにもみえるが、寺内や雪風の乗員は、目的地の沖縄まで何が何でも生き抜いて、沖縄の人々を1人でも救いたい、という決意を固めていたのだろう。「雪風が沈まないのは、戦いから逃げているからではない。われわれは戦って生き抜くのだ」ということを示したかったのかもしれない。

雪風の艦橋。寺内はハッチから顔を出して操艦した(1947年5月撮影、米国立公文書館所蔵)雪風の艦橋。寺内はハッチから顔を出して操艦した(1947年5月撮影、米国立公文書館所蔵)雪風の操舵室(米海軍歴史遺産司令部蔵)雪風の操舵室(米海軍歴史遺産司令部蔵)

 終戦後も雪風の戦いは終わらなかった。武装を外されて仮設の住居が設けられ、復員のための特別輸送艦として、外地に取り残された1万3056人の日本人を本土に送り届けた。その中には後に戦争を題材にした漫画を描いた漫画家の水木しげる(1922~2015)も乗っていた。

 その後は賠償艦として中華民国の国民党に引き渡され、
丹陽(タンヤン)
と名前を変えて中国共産党と戦うことになった。丹陽は中華民国連合艦隊の旗艦となり、就役から30年を経て解体された。
錨(いかり)
と舵輪は日本に返還され、広島県江田島市の海上自衛隊第1
術科(じゅつか)
学校に展示されている。

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