2025年8月26日更新
2025年8月29日よりTOHOシネマズ日比谷ほかにてロードショー
ゲームにはない“映画”なるものの特性をいかした意外な展開
ある土地に初めて訪れた時は、住み慣れた街に比べて方向感覚が鈍ってしまうもの。それは、街の規模に関係なく覚えるものだが、周囲を散策するうちに脳内地図が構築され、繰り返し同じ道に迷い込むような失敗が徐々に緩和されてゆくものでもある。人間は建物や標識、道端の特徴を認識することで、平面的にも立体的にも街の構造を理解してゆくからだ。「8番出口」(2025)は地下通路から地上へ向かった男性(二宮和也)が、いつまで経っても出口に辿り着けないという不条理を描いた作品。無機質で白く同じような通路が続いてゆくため、構造を認識しにくいという前述の例との違いがある。大都市の地下街で迷ってしまったという斯様な経験は誰しもあるはず。つまり、その“共感度”こそが、今作における設定の基盤となっているのである。
原作の同名ゲームは主観で進行してゆくため、プレイヤーが“見ようと試みたもの”のみが画面に映し出されるという特徴がある。同様に、今作では迷える男の姿をカメラが追いながら、彼が“ヒントを見つけようとする”姿を映し出してゆく。基本的に地下通路は、同じデザインの通路が右や左に曲がりながら作られている。さほど差異がないため方向感覚も鈍ってくるのだが、やがて同じ通路を繰り返し歩いていることを悟った男性は、無限回廊に閉じ込められているのではないか? との疑念を抱くようになるのである。重要なのは、状況を明確にしないことで、観客に対しても道に迷っている感覚を訴求させている点。それによって迷える男性も観客も、脱出するための<謎>を解くべく数少ない情報に注視し始め、本来は受動的な芸術であるはずの“映画”なるものに対して、無意識のうちに能動的になってゆくという(ゲームに興じることと近似した)快感を導いているのである。
(C)2025 映画「8番出口」製作委員会
とはいえ、迷える男性が徐々に8番出口へと近づいてゆくプロセスを見せるだけで、95分の上映尺をもたせることは困難だ。そこで、川村元気監督と共同脚本の平瀬謙太朗は、プレイヤーの主観によって進行するゲームとは異なる、“映画”なるものの特性をいかした奇抜な展開を今作に施してみせている。その映画的表現の源には、“映画”におけるいくつかのアーキタイプ(元型)の存在が欠かせない。例えば、状況のループ。同じ時間や同じ状況が反復する「恋はデジャ・ブ」(1993)のような<タイムループ>ものは昨今人気のジャンルだが、反復させることで劇中の登場人物だけでなく観客も同じように状況や設定を推し量ってゆくという物語構造は、今作にも活かされていることを窺わせる。
次に、撮影によって視覚的にも状況を提示する<長回し>。例えば、ポール・トーマス・アンダーソン監督の「ブギーナイツ」(1997)や「マグノリア」(1999)では、移動ショットの<長回し>によって建物の構造そのものを観客の脳裏に焼き付けるという効果を生んでいたが、今作のショットにも同様の効果を散見させる。他方、リドリー・スコット監督が「ブラックホーク・ダウン」(2001)で描いた市街戦のように、あえて方向感覚を麻痺させるような演出も“映画”なるものが得意とするものだ。或いは、遭難した人間を描いた「キャスト・アウェイ」(2000)や「127時間」(2010)のように、ひとりの登場人物によって物語が進行してゆくような“映画”の例もある。主人公の記憶や思い出を挿入させながら、極力台詞を削いでゆくという今作の演出。それは、これまで製作されてきた“映画”の表現を組み合わせた、ハイブリッドのような趣を感じさせる由縁なのだろう。
(松崎健夫)