第七十六回「届く声 届ける声~れろの会の朗読~」
届く声、届ける声。こんにちは。栗原け子 です。さあ、朗読をお届けしましょう。 語りは農型レロの会の皆さん。 8月や6日9日15日。 戦争を忘れないようにという気持ちを込め て読まれたとされています。俳育の世界で は知られた一区とされていますが、この国 は不の気持ち、絶対に戦争を起こしては いけない。また戦争のことを忘れてはいけ ないという思いが込められていると思い ます。8月を漢じ1文字と例えるとする ならば下う母上の簿だと思います。 大切な人を思う心。大切な人に伝えたい心 。 8月はレルの会全員が選んだ1作品をお 送りします。 朗読は高野れ子さんです。 ネクまさか咲大人になれなかった弟たちに 僕の弟の名前はひ雪と言います。僕が小 学校4年生の時に生まれました。その頃は 小学校と言わずに国民学校と言っていまし た。僕の父は戦争に言っていました。太平 洋戦争、大東亜戦争の抹中です。空衆と 言ってアメリカのB20区という飛行機が 毎日のように日本に爆弾を落としに来まし た。夜も落ち落ち寝ていられません。毎晩 暴空号という地下室の中で寝ました。 地下室と言っても自分たちが掘った穴です から小さな小さな部屋です。僕のうちでは 畳をあげて床の下に穴を掘りました。母と 僕で掘ったのです。父は戦争に行って留守 なので家族は僕と母と祖母と妹と弟の5人 です。5人が座ったらそれでいっぱいの穴 です。 ことは生まれてまもないのですが、いつも 泣かないで1人で大なしく寝ていました。 母は穴を掘りながら ひ雪が大人なしいから助かると言ってい ました。 その頃は食べ物が十分になかったので母は 僕たちに食べさせて自分はあまり食べませ んでした。でも弟の広雪には母のお父が 食べ物です。母は自分が食べないのでお乳 が出なくなりました。 広雪は食べるものがありません。思いと 言っておかゆのもっと薄いのを食べさせ たり、ヤギのミルクを遠くまで買いに行っ て飲ませたりしました。でも時々配給が ありました。ミルクが一感。それが広雪の 大切な大切な食べ物でした。 みんなには到底わからないでしょうが、 その頃甘いものは全然なかったのです。雨 もチョコレートもアイスクリームもお菓子 は何にもない頃なのです。食し坊だった僕 は甘い甘い。弟のミルクはよだれが出る ほど飲みたいものでした。母はよく言い ました。ミルクは広雪のご飯だから、広雪 はそれしか食べられないのだからと。 でも僕は隠れてひ雪の大切なミルクを盗み してしまいました。これも何回も僕には それがどんなに悪いことかよく分かってい たのです。でも僕は飲んでしまったのです 。僕は弟が可愛くて可愛くて仕方がなかっ たのですがそれなのに飲んでしまいました 。あまり空がひどくなってきたので母は 疎会しようと言い出しました。それである 日、祖母と4歳の妹に留守番を頼んで、母 が弟を恩部して僕と3人で親戚のいる田舎 へ出かけました。ところが親戚の人は 春バル出かけてきた母と弟と僕を見るなり うちに食べ物はないと言いました。僕たち は食べ物をもらいに行ったのではなかった のです。引っ越しの相談に行ったのに、母 はそれを聞くなり、僕に帰ろと言って くるりと後ろを向いて帰りました。その時 の顔僕は今でも忘れられません。強い顔 でした。でも悲しい悲しい顔でした。僕は あんなに美しい顔を見たことはありません 。僕たち子供を必死で守ってくれる母の顔 は美しいです。 僕はあの時のことを思うといつも胸が いっぱいになります。母は行ったことも ない山の中の親切な人に頼んでやっと疎会 先が決まりました。 とりあえず必要な荷物だけを持って 引っ越しすることになりました。それでも 荷物は馬車1台ありました。僕と母と祖母 と妹。それに弟はその馬車の荷物の上に 座ってゆらわりゆらりゆられながら朝家を 出て南に向かって旅立ちました。福岡から 南へ20kmくらい行った石川という山合 の村です。馬車の上で昼のお結びを食べ、 昼過ぎには綺麗な渓に沿って山へかかり ました。美しい青空桃の花が咲く三尊橋の 上からはあの泳ぐのが見られます。生まれ て初めて見る。それは当言鏡でした。これ から始まる苦しい生活など僕にはまだ 分からない年頃でした。ですから毎日あの 愛を取って置かずにすれば母が喜ぶだろう と思ったりしてこれからの生活に胸を弾ま せました。 僕たちがお世話になる農家はすぐ裏の山が 頭の上に覆いかぶさるような山にありまし た。 その農家の庭に面した六城の一部屋を借り ました。 家の前の渓流には飛び石が大岸に続き、 大雨の日は渡れません。火流の橋を渡って 学校に行きました。母は生まれて初めて 田上を手伝い、昼に出されるご飯を僕たち に残して持って帰ってきました。その頃に なると米の配給はもうありませんでした。 それで母は自分の着物を持っていき、近所 の農家の人たちにお願いしてコメット交換 してもらっていました。 母の着物はなくなりました。 疎会しても広雪のお父には困りました。 隣村にヤギを勝っている農家があると聞い ては母が着を風呂しに包んで出かけました 。 ひ雪を恩して僕はよく川い遊びに出かけ ました。僕は弟が欲しかったのでよく 可愛がりました。広雪は病気になりました 。僕たちの村から3時くらい離れた町の 病院に入院しました。 僕は学校から帰ると毎日薪と食べ物を祖母 に用意してもらい、母と弟のいる病院に バスに乗って出かけました。 10日間くらい入院したでしょうか? 広雪は死にました。 電気の下で小さな小さな口に綿に含ませた 水を飲ませた夜を僕は忘れられません。 泣きもせず弟は静かに息を引き取りました 。母と僕に見守られて弟は死にました。 病名はありません。栄養失張です。 弟を母がお母して、僕は片手に夜間、 そして片手に広い木の身の周りのものを 入れた小さな風呂包みを持って家に帰り ました。白い乾いた一本道を3人で山の村 に向かって歩き続けました。バスがあり ましたが、母は弟が死んでいるので他の人 に遠慮したのでしょう。 の道を歩きました。空は高く高く青く住ん でいました。ブーン ブーンというB20の独特のエンジンの音 がして青空にキラキラっと期待が美しく 輝いています。道にも畑にも一影はあり ませんでした。歩いているのは3人だけ です。 母が時々ひの顔に飛んでくるハエを手で 払いながら言いました。 ひゆは幸せだった。母と兄とお医者さん、 看護婦さんに見取られて死んだのだから 空州の爆撃でばみんなバラバラで死ぬ からもっとかわいそうだった。 では祖母と妹が泣いて待っていました。 部屋を貸してくださっていた農家のおじい さんが杉板を削って小さな小さな感を作っ ていてくださいました。弟はその小さな 小さなカに母と僕の手で寝かされました。 小さな弟でしたが感が小さすぎて入りませ んでした。 母が 大きくなっていたんだねと広息の膝を曲げ て缶に入れました。その時母は初めて泣き ました。 父は戦争に行ってすぐ生まれたひ雪の顔を とうと見ないままでした。 弟が死んで9日後の8月6日に広島に原始 爆弾が落とされました。その3日後に長崎 に。そして6日経った1945年8月15 日に戦争は終わりました。 僕は紐かったことと弟の死は一生忘れませ ん。 後書き 戦争ではたくさんの人たちが死にます。 そして老人、女、子供と弱い人間から飢え て死にます。私はそのことを忘れません。 でももっと忘れてはならないことがあり ます。私の弟が死んだ太平洋戦争は日本が 始めた戦争なのです。そして朝鮮、韓国、 中国、東南アジアの国々、南方諸島の人 たちをどんなに苦しめ悲しましたこと でしょう。それは私たちが苦しみ悲しんだ 以上のものです。そのことを私たちは忘れ てはならないと思います。そのことを忘れ て私たちの平和は守られないでしょう。 3年
2025年8月18日放送
案内人:栗原景子氏(かたりね代表)
朗読者:石松一葉氏・高野玲子氏
毎週月曜日 11:30-11:45
FMちょっくらじお(86.1MHz)にて放送中。
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