誰も書かなかった「原節子」の真実
あそこはハンターでございます。 皆さんそんなことなすとって何の話になり ましょう?私はいいよでございます。武官 を開くのは何かのになるとかならないとか そんな単純な理由からじゃないわ。このお 家が勇者あるこの安城家が夢のように消え てき念じゃない。考えてもご覧なさい。 家族の中でも名門を歌わったこの王家一がまるで嘘のようなくなるんじゃない。 お姉様のように消えていくとおっしゃるけど家族という特権がどうして消えていかなければならなくなったかということ。少しも素人はなさらないのね。 私たちの生活を猫そしてきてきた時代の流れを分かるとはなさらないの? そんなことない。これでやっと普通になってきたの。今まで男はずいたのよ。 しっかりしっかり。 お前そんなこと思ってるからいつ前とに行けないんだ。 行けないんじゃない?行かないの?行こうと思ったらいつでも行け。 山さん、実はこの頃男の学生の名前で寺沢し子さんに手紙が来たんです。が、その筆跡をよく調べてみますとその手紙を書いたのはこの同じクラスの人だということが分かりない。 心から喜んで あなたと結婚しようと思った気持ちも 決して嘘でも偽でもございます。 私の本当に心からそう思ったことなんで ございます。 [音楽] 結婚の条件に 色々とお金のことがまつわりついて 私の気持ちが見にくいように重いかも わかりませんけど それは私のうが落ちれて私の上に 振りかかっていたやを得ない事情なんです 。 決して私の心から割り出したことでは ございません。 もしそのためにあなたがお苦しみになったりごにお感じになるようでした。どうぞ今度のことお断りになってくださいます。 お前さんどうも どうって りだよ いい方じゃないの? うん。 ああ いうのはピースとしてどうなんだろう。 いいでしょ。きった。 いいかい? 優しいし。 そうか。そうだね。 ずるいんです。 いやあ、ずるはない。 え、ずるいんです。そういうこと。お母様には申し上げられなかったんだ。 ええんじゃよ。それでやっぱりあんたはええじゃよ。正直で とんでもない。 我が心の人です。このコーナーでは他の人とは違う新しい世界を気づいた方をご紹介しています。今日は女優の原せ子さんです。 原瀬さんは大正9年1920年横浜生まれ です。昭和10年14歳で女優デビューし ました。そして小安次郎黒沢明瀬 三き夫といった巨匠たちの映画に数多く 出演し、日本を代表する女優として高い 評価を受けました。 しかし昭和37年の映画中倉を最後に公け の場にも姿を見せなくなり、伝説の女優と して謎に包まれた存在となってしまいまし た。 昨年平成27年9月5日亡くなられました 。95歳でした。 ゲストはこれまでの原子さんの インタビューやゆかりの人たちの言葉を 丹念に取材し原子 の真実という本を出版なさった ノンフィクション作家の石井太子さんです 。 スタジオにはノンフィクションの石井太子 さんにお越いいただきました。 石井さん、こんばんは。 こんばんは。 もう目がキラキラと石井さんもちょっと女優のような まさかまさか 印象を受けますけれども、どります。 あの、今日はこれから石井太子さんに はい。 女優の原せ子さんについてのお話を伺ってまいりますが はい。 まさに今日 はい。 原瀬さんのお誕生日と いうことですね。 そう。はい。 去年はちょうど、ま、本当に暑い日だったんですけれども、花束を伺えて原せ子さんのオタクまで伺いまして、 うん。なんかその日のこと自然と思い出してしまいます。 石井さんがおかになった 原せ子の真実という本の 前書きのところがまさに そのお誕生日に はい。はい。 原せ子さんが、ま、引退した後ずっとお住まいだった。 鎌倉の家を尋ねるということが書かれてますね。 はい。はい。 え、この数年お誕生日にお花を持って伺う ということを重ねてきたんですけれども、 ま、原瀬さんはどなたのインタビューもお 風景にはならないんですね。 ですが、あの、一緒にお住まいになっているご親戚の方が丁寧に戸口まで出てきてくださって、花束は受け取ってくださって、あの、必ず渡しますとおっしゃってくださって、 ええ、 もう私もあまり多くのことは伺いなくて、ま、お元気でしょうかと伺うのが精一杯だったんですけれども、あの、つも元気ですとおかげ様で元気にしておりますとはい。そういう風に教えてくださいました。 大久さんにとってもこの6月の17 日という はい。 日日っていうのはこうちょっとご自分の記憶の中で 大切な人いますか? そうですね。はい。うん。なんか今年は原せ子さんのい 6月17 日なんだなという風になんか思えてならないんですけれども。 だからもしお元気でいらしたら はい。 96歳の今日はお誕生日。 うん。そうですね。 で、これからあの石井さんに原せ子さんのことをゆっくり伺いますけれども、あの原せ子さんを取材したい、原せ子さんのことを本にしたいと いうのはどういうことから だったんでしょうか? はい。あの、これはなんというか、ま、最初のきっかけはあの出版社からのご提案であの原せ子さんを書いてみないかという風に言っていただいたんですね。 でも、あの、私ももちろん原瀬さん存じ あげてるし、映画も見てたんですけれども 、こう、ま、大ファンで、あの、 追いかけるように映画を見てるとかそう いったことはではなかったので、ま、 ちょっと私にかけるだろうかとちょっと いたしまして、でもちょっとお引き受けし て調べ始めたら、ま、大変引き込まれて いったというか、あの、夢中になって、ま 、ちょっと時間かかってしまったんです けれども、その間に原せ子さんご自身が 亡くなられてしまうということもあってう うん。ま、その原瀬千塚さんの塩をまたいで 3年半ほどかけてはい。書き上げました。 はい。本当に年には 取材なさって はい。 ま、本人に本当は会えないきゃいけないんでしょうけど、もうそれは無理だと。 うん。あの、ま、ノンフィクションの作る あの当事者の方のお話を聞くというのは もう基本中の基本なんですけれども、ま、 原子さんに限ってはもうそれは絶対に望め ないことで、ま、今までいろんな方もあの 心みて皆さんを断られて断念なさってきて あのですので、ま、ご本人に会うことは できないと、ま、でもそれでも書いてみ たいなという風に思いました。 で、まあ、資料ですとか、ま、え、何人かの証言者の方との出会いがあって、どうにか書き上げることができたというか、 [音楽] いろんな方が例えば当時おかきになった はい。 こうインタビューであったり、あとご本人が取材で答えている雑誌のインタビューであったり、調べられる限りのことを 石さんお知べになったんじゃ。 そうです。そうですね。 あの、できることは全部やったつもりなんですけども、ま、どうでしょう?ま、まだ至らないところもあるかもしれませんが。 はい。で、この原せ子さんのまずはプロフィールという辺りからご紹介いただきますが はい。はい。 ご出身は横浜と はい。そうです。 いうことだそうですね。 はい。 ま、正確に言うと横浜の隣駅の谷というところなんですが、あの、元々日本橋に与台続いたキトド屋で、あの、お父様の台で横浜に移ってこられたという、そういうご一家ですね。で、 え、 あの、随分暮らし向きは、ま、原せ子さんが生まれた当時は良かったようで、あの、裕福な、ま、横浜商人のご家庭という、あの、そういったお家にお生まれになっています。 1 番下のお嬢さんだった。はい。24条の 末えっこさんですね。とってもあの科目で で、また人見知りも強いあのどちらかと いうと内光的な方だったようです。で、 あの同級生の方の証言が残ってるんですが 、ま、皆さん美少女ぶりでご記憶になっ てるかと思いましたら、あの、そうでは なくて、あの、大変頭がいい優等生だった と。それであの、だったという風に おっしゃる方が多いですね。そしていつも 本を読んでいたと。 でも目立ちくっきりで目立ってるっていうことでも うん。なかった。 そうなんですね。あの、ま、当時の写真も見たんですが、私の目から見ると、ま、あの、当時から随分な美少女だと思うんですけれども、とっても痩せてたそうなんですね。 あ、 で、あと、ま、これはあの、ま、途中からちょっと暮らし向きが悪くなってしまったこともあって、あんまり綺麗なお洋服を着られない時期があって、ま、そんなこともあって、同級生の方々には綺麗で目立っていたっていう印象はなかったようですね。 はい。 何かお父様の商売がうまくいかなくなってしまったという いうことも大きな影を脅してるんでしょうね。 うん。うん。そうですね。 あの世界大教皇の影響で、ま、キーとあの海外に輸出するお仕事をなさっていたので、ま、その煽りをもに受けてしまって突然生活があの暮らし向きが悪くなってしまったようです。 [音楽] でも勉強ができて勉強がお好きなんでしょうから。 その頃はどういう希望を持ってたんでしょうか? 2 つ夢が終わりだったようで、 1 つはあの学校の先生になりたいと。で、ま、それは現実な夢で、で、もう 1 つは、ま、あの、横浜なせいでしょうけれども、海外に行ってみたいと、 海を超えて、 あの、外国を見てみたい。その 2 つの夢をずっと抱いていたという風に書いてますね。原せ子さん自身が、 [音楽] ええ、 よくあの横浜の港に遊びに行って外国戦を見ていたそうなんですね。 それで一体あの国はどういう国なんだろうって、そういう想像を働かせていつか行ってみたいという風に思っていたようです。 海の向こうにはどんな未知の世界があるのかしらと。うん。はい。 うん。うん。 で、実際に学校の先生になるために、 あの、当時の県立工場ですか?県立横浜第一工場南観光だそうですね。 うん。そうですね。神奈川県のもう県1の 南校で、ま、各小学校から西女が集まって くるという。でも、あの、原説子さん抜群 の成績だったので、ま、先生方もまた同級 生もあの原説子さんが落ちるということは ありえないと、もう絶対に入れると。で、 多分ご本人もそう思ってたと思うんですね 。ま、ところが10 件日に高熱を出してしまって受験に失敗してしまうといこのあ 彼女の人生がこう大きく変わっていくというか、 もうまさかの当日体調が悪くて受験に失敗という、 ま、最初の挫折みたいなことでしょうかね。 女優っていううん。 ことはもう彼女のその小さい頃の夢にはないってことですね。 あ、はい。 もう全くあのそういうことは考えてなかったってあの繰り返しおっしゃってますね。 どういうことから女優の道へ進むことになるんでしょうか? はい。彼女の上のお姉様が 2 番目のお姉さんなんですけど、フェリスを出た後なぜか女優になってるんですね。 ともあの女優になるのが目的だったのか、脚本会になりたくて入社してたまたま女優になったのかちょっと定かではないんですけれども、あの女優になられていてそしてあの日活という映画会社の女優さんだったんですがそこで女監督だった熊という方と結婚して、 [音楽] ま、映画監督の奥様になっていて、そのお姉様夫婦の進めに従って女優になっていくんですけれ もちょうどあの女学校、ま、1年間過ごし たとこで春休みになって、その時にあの 京都にいた義兄2番目のお姉さんの一家が 京都から東京に天勤になって一家で 引っ越してくるんですね。 で、その時に久しぶりに末の妹の原せ子さんに会って、ま、大変美しく成長してるのを見て、ま、これは女優にいいんじゃないかという風に思われたようで うん。 それで、ま、原せ子さんの方も受験に失敗して市立の小学校に通ってるっていうこともとっても親に申し訳ないって思っていた時期だったんですね。ですから、あの、学校やめて女優になった方が親高校になるって説得されて うん。 お姉様夫婦に、ま、その意見に従って女優になるんですけれども。 はい。ま、だからデビューは 10代の半ば前ぐらい。 はい。そうですね。当時まだ14 歳ですね。 はい。14 歳の時に住められて女学校中大してしまってもう、 ま、約1年後にデビューしてる 形です。 でもその人見知りな光的な 少女だったわけですよね。 その女優として、しかもまだ 10代半ば どうだったんですか?デビューの頃という。 ええ、もうとってもあの苦痛だったようですね。で、本当にあの、ま、映画会って、ま、今もそうかもしれませんけど、当時ま、あの、完全な男性社会で女の人なんて働いてないですよね。女優さんがちらほらいいらっしゃるぐらい。ま、そう、そういう撮影所に通うのが恐ろしくて恐ろしくってならなかったと。でも本当に逃げて帰りたかったと。 [音楽] もう泣きながら通ってたようなことをおっしゃってますね。 はい。 なりたくてなったわけじゃないというのは繰り返し、あの家族の経済を救うために病なく選んだ道だという風に戦後もおっしゃってます。 はい。でもやはりあの顔立ちがとにかく華やかですよね。背も高かったようですし。うん。うん。ええ、そうですね。 で、ところがあのデビューした当時はそれほど話題にはならなかったんですね。 はい。 なんかもっと別の女優さんたちの方がスタとして売り出されていて、あんまり会社からも期待されてなかったようで、ま、しばらくは、ま、長ず飛ばずという感じだったんです。意外なんですけれども。 でもそれが客行を浴びるということが はい。はい。 あるんですね。なんとあの ドイツ はい。 と日本が一緒になって作る映画うん。はい。 大抜擢というは はい。そうなんです。あの日あの合作映画新土のヒロインに突然抜擢されて、 ま、これは本当に大抜擢だったんですね。 これはあの監督はあの世界的に有名だったドイツ人のアーノナルドファンク監督でファンク監督が偶然撮影所に来てその時ちらっと原せツ子の姿を見かけてまぼれというか でどうしても自分の今度作る日合作映画にはあの少女を使いたいって言ってまは大反対するんです。あの全く無名の新人だから話にならないと思う。 で、もっとあの、田中さんとか江高子さんとか、ま、そういうスターを使った方がいいって説得するんですけど、あの子じゃなきゃダめだってファンク監督が押し切るんですね。 うん。 何かそのドイツの ファン監督ひらめきを感じたんですかね。ひらめきというか。 え、で、実はこのあの新土という映画は、ま、あの、完全な国策映画で、ま、当時あのドイツと日本は軍事協定を結ぼうとして日暴協定を実際その後結ぶんですけれども、ま、その下準備としてドイツ人に日本人のイメージをアップさせるような はい。 映画を作って見せようと、そういうことをナチスが考えて、ま、ナチスがお金を体金を出してファンク監督を日本に送って作らせた映画なんですね。なので、あの、ファンク監督は その映画を見たドイツ人が自然と日本人を好きになるような映画を作らなきゃいけないっていう使命を追っていて、ま、そのためにはとにかく魅力的な女優が必要だと。 あの、日本人が見て美しいと思う女優ではなくて、ドイツ人が見て納得する、美しいと思う女優でなければいけないと。 それであの原せ子じゃなきゃだめだって言うんですね。 ええ。 はい。 もうだから非常にこう政治的な意味合いもある。 はい。 ま、日本とドイツの有効に はい。 重要な役割を うん。 持った映画と はい。でも原せ子さんは はい。うん。大抜擢って話が来てどん、 え、な感じだったんですか? むしろ、あの、他の女優さんたちは、ま、必死で売り込みに行くんですけれども、映画会社の人と一緒に私を使ってくださいという感じで、ま、原せ哲子さんは全くそういうことはもちろんしていないし、あの、初めそういう話をもらった時もとてもやる自信がないと言っても知り込みして、 ま、それ映画会社に得されて引き受けるんですけれども、え、 だから、ま、彼女はもうわけも分からないうちに引き受けてしまったんじゃないでしょうか。 で、そのロケは日本で行われて、 その映画を今度はドイツに持ち帰って映と そうなんです。 あの、日本でも公開、また直後にドイツでも公開んですけれども、ま、その公開時にはもうナジスの交換がみんな観覧に来るっていう、ま、大変な大掛かりなプレミアが行われて、 映画の評判はどうだったんですか? そうですね、あの、ドイツ国内でもあの、記録を乗り換えで大ヒットしたという風に、ま、当時の日本の新聞は伝えてます。ま、ただそれよく調べると、ま、ナチスが、ま、同員をかけてるんですね。見に行くようにという風に。 [音楽] はい。で、実際に その 原せ子さんも招かれてドイツに行っているんですね。 はい。そうですね。ドイツでの交換に合わせてあの満州経由でベルリに入って舞台挨拶をもう何百と はい。 なさったんですね。もうあのそれは大変な評判だったようで、ま、あの映画の内容は去っておき、ま、原せ子は美しいっていうあのそういう評価だったようですね。 もこの時本当にあの日本を背負って一に行ってあの自分がしっかりとしなければあのいけないっていうま強い使命を持っていたようですね。 当時そういう海外を体験なしったって大変なことですね。 うん。そうですね。しかもあの 16歳から17 歳というあの多敢な時期だったので原子さんまとっても大きな刺激を受けたんじゃないかと思います。 ハリウットにも出したと。 はい。はい。そうなんです。 で、ハリウットでは、あの、有名なプロデューサーに、あの、ここに残らないかと 自分が絶対にスターにしてあげるからってず随分熱心に言われたようで、ま、でもあの、ま、それを断って帰告するんですけれど、 女優丸レネDトレヒとも はい。 出会いがあったと。 はい。そうですね。 ハリウッドで出会って一緒にお食事をしているんですけれども、その時あのとっても原せ、あの、マリネトリヒのあの移風堂々とした姿に胸を打たれてなんて立派なんだろうと自分もこういう人になりたいっていう風に憧れたようです。 [音楽] だから、ま、日本でのその女優っていう仕事の立場っていうのとおそらくハリウッドね、見た女優たちの立場っていうのは随分違って見えたんでしょうね。 うん。ええ。女優もそうだし、他の映画 監督、ま、他の映画人全て含めて何か日本 とは違うともっとこうみんな芸術家として ほり高く生きているとで人格も血な人が 多いと共養も深い日本の映画ももう ちょっと向上しなきゃいけないじゃないか とそんなような思いを抱いたようです。 で、自分もやはりもっと多くを学んで立派な女優にならなければいけないな。そんな風に感じたようですね。 はい。 だから女優に対する味方っていうものがこう世界を旅することで はい。はい。 随分変わったかもしれませんね。 はい。世界の女優さんを見ていや違うと日本の映画会も変わっていて私たちもああいうものを目指したらいいんだと海岸して帰ってくるんですね。 はい。 でもそうして戻ってきた日本の現状ってのはやっぱり うん。 原瀬子さんにとっては違うなっていうとこあったんでしょうか? そうですね。あのまたあの原せ子さんがあの新聞記者にインタビューされて正直にそういう自分の思いをま述べてしまうんですね。 [音楽] 日本の映画ももっと向していかなければいけないみたいなことをこう 話してしまって、ま、それがなんだということになって ちょっと外国に行ってきて西洋かれして生意きなことを言うようになったと高女優府不勢が、 ま、ものすごくバッシングされるんですね。 うん。でも 非常に正直で プライドも高くあのきちんと行きたいという方なのかなっていう気がしますね。 ええ。はい。 あの、役柄では、あの、映画の中ではこう、ちょっと控えめな女性を演じることも多かったんですけれども、実際の原せ子さんというのはどちらかといえば気象も激しくって思ったことを、思ったままに口にするようなあの、潔ぎの良いところのある人で、それが、ま、生意だと言って叩かれた原因でもあるんですけれども、自己失人ですね、本当にあの、 戦う女優という言い方がぴったりするようなか かなりことであの戦ってるんですよね。 マスコミとも戦ってますし、映画館の中でも例えばあの水着写真やかを撮ろうとする人たちに対してあの役柄の中で必要なら水着にもなるけれども単にブロマイドで水着になるのは嫌だとか、ま、そういうことも言って、ま、それもまた叩かれるんですけれども、そういう意味では国校の人で、ま、また物事の本質っていうの自分で突き詰めて考えるタイプの人だったんだなと思いまし。 [音楽] で、またそこがとっても魅力的だなと私は感じたんですけれども、 まあ、ちょっと生まれた時代が早かったというのか。ええ、 はい。 色々自分で多分 あの演じたい役とか ええ、 こういうような生き方をしてみたいっていう風なことは色々終わりだったんでしょうね。 はい。自分に与えられる役がメそメそしたような役、うじうちしたような役ばっかりで本当に嫌になるって言ってるんですね。 でも私はこういう生き方をする女性は好ま ないと。私はもっと自分の手で自分の人生 を切り開いていくような女性でありたいし 、そういう女性を映画の中でも演じたいと 。ま、そういう思いはとっても強かった ようですね。でもなかなかそういう ヒロインは日本映画の中で描かれることが ないし、原瀬さんに振り当てられることも ないし、あの出演作にはだいぶ不満を持っ ていったようで、それはあのもうとも意外 でした。 あの、ま、原せ子さんていうとオず映画がおず安次代郎監督の作品が代表作という風に言われてるんですけれども、彼女はあのオず映画に対しても非常に冷やかで代表作を聞かれてもオズ映画は絶対にあげないんですね。 [音楽] あら、そうなんですか。 はい。むしろあの黒沢明監督の我が主に悔なしとか、ま、そういうのあげることあっても絶対に大勢映画はあげない。 また、あの、今まで演じて 1 番気に入ってる役は何ですか?ま、度々聞かれて、ま、後半の方は、あの、もっと激しくって、今まであの、私は出たいと思って出たは 1本もありませんとか そこまでおっしゃる。 これ、あの、はい、監督が聞いたらちょっとお冠りになるんじゃないかと思うんですけど、そのぐらい正直に発言していて、ま、しょうがないから引き受けて演じたけれども、あの、納得のいく女性像がなかったというようなことも言ってるんですね。 で、ま、日本映画会はあの、初詮女を男性の冷物として描くと はい。 私はそれはあの気に食わないというようななんかそういうことも言ってもっとうん。 意思を持った性のある女性を演じたいってもそれは繰り返しま引退のマギアまで言ってます。 あ、そうですか。 確かにオ監督の映画に出てくる原瀬さんの役柄っていうのは そろそろお嫁に行かせないとみたいなことをなんかお父さんのお友達やら何やらみんなだ彼女がどうしたいのかっていうこととはうん 全く はい 関わりのないところでいやもうそろそろ埋めに行かなきゃみたいなことが次々とええそうです るというそれであのまヒロインもそのそれに反発するでもな ええ、あっり結婚してまという。え、 ま、それは特に春のノり子っていうのは、あの、ま、まさにそういう役ですけれども、ま、とても不満だったようで、あの役は好きじゃないというようなことまで言ってます。男性にとっての 1 つの理想的な女性像だと思うんですよね。 よくあの、あんな娘が欲しいとかそういう ことおっしゃる男性の方多いし、ま、あの 映画のファンも、ま、大体男性が多いん ですけれども、ま、原説子さん自身は、ま 、その映画に出て高く評価されるわけです けれども、あんまりあの、その評価も含め て納得はしてなかったように私には見受け られます。うん。ええ、どんな役を演じ たかったんでしょうか。うん。なんか もっと激しい役とか、あの、あるいは悪女 でもはい。 と、あの、強い女性を演じたい。 え、 そして、あの、ま、具体的には、あの、細かしを演じたいって、もうこれはもう 10 年間ぐらいずっと言い続けてますね。細川者を私に演示させてほしい。 ああ、あの、気象の激しい女性をやってみたい。 うん。 な、そういうことを繰り返しおっしゃってます。 でもそれは実現することはなかったわけですね。 そうなんです。 あれだけの大女優さんがあれだけ熱心に企画を望んで、あ、それでも叶えられなかったんだっていう、ま、ちょっと残念な感じが作ってあげたら良かったのになと 思ったりしましたけれども、 女優をやめてしまったっていうのは うん。はい。 女優が嫌いだったっていうことでもない でしょうか? そうですね。あの、ま、私、あの、元々 女優は好き、女優を好きでやっていたわけ ではないという言い方は何度もしてるん ですけれども、でも一方で何かこうある べき女優の姿みたいなものをずっと追求し てた人でもあると思うんですね。だから 理想を追い求めすぎてそれがあの実現し なくて、ま、疲れてしまったというか、ま 、そういうところがあったんかなという風 に思います。でもなぜやめてしまったん でしょうかね。で、しかもうん くその大けの場に姿を見せることもなくなってしまったというのは あ、ええ、なんかあのそれはあのよくあの昭和の謎だっていう言い方をされてきたんですけれども、ま、私もあのその謎を解明してくださいというようなことを週の方にも言われたりもしたんですけれども、ま、ただ私はあの書いていってだんだんやもそも謎なんてないんじゃないかなという風に思ったんですね。 原子さんの性格と、ま、当時の社会状況と 、ま、映画会のあり方と考えると、ま、 もう原子さんがそれ以上映画館にとまって 女優をやるという必然性がなかったような 感じがします。 で、ま、あの、ま、そういう自分が望むような役は結局やらせてもらえないし、ま、だんだん原せ子さんも 40代、30代、後半40 代となって出演作がていくと、ま、結局もう自分はあの、望まれていないと必要とされていないんじゃないかということ自覚なさったというのもあるでしょうし、そこにこだわってい続ける必然性というのが私から見てもないし、ま、原せ子さん自身見つけられなかったんじゃないかなと。 [音楽] 他にもあのちょっと体を体崩していたり、 ま、いろんなことが重なって、ま、そう いう決断に至ったんだと思うんですね。 と、ま、女優時代ずっと、ま、マスコミとは戦い続けていて、全く事実向こうのことを書かれたり、そういうことを繰り返し、経験してるので、ま、 一切そういうものと縁を切って静かに暮らしたいっていうのは、ま、そんなに変わった選択ではないんじゃないのかなって私は 思うんですけれども、あの、原せ子さんは本名相田正さんっておっしゃるんですけれども、相玉正さんが原せ子を、ま、演じてたとも言えるんですね。 でも原せ子の役割は終わったという風に 相田正井さんが判断したんじゃないか。 それで、ま、戦前から戦後、特に戦後は もう敗線に打ちがれた人たちを晴らせつ子 という存在がもうあのこして癒して 引っ張ってきたところもあったと思うん ですけれども、もうその役割をもう自分は 果たし終えたと。で、もう自分を誰も干し ていないと。ま、ようやくこれで戦後が 終わったんだと。 自分の役割、原せ子の役割だと、ま、そういう思いもあったんじゃないかなと。それにあたってもあの間として腹を完全に封じるというか、 ほう。 うん。ま、区切りをつけるというか、腹にふさわしい最後を自分が与えなきゃいけないという風に、ま、なんかそんな風にお考えになったんじゃないのかなと。ま、これ私の想像も入ってますが はい。もうとにかく全てを立ち切ると はい。いうような、 ええ、で、いろんなことに、あの、原せ子はもういませんからと、私は相玉祭ですからと。だから原せ子知り合った方は、ま、 23 人の例外はありますけれども、ま、ほとんど縁を切ってしまう、私はもう原せ子じゃないから、 原せ子のお知り合いで、原せ子に会いたがってる方とはお会いしませんっていう、 ま、そういう、 ま、考え方だったのかなという風にも思ったりします。 でもその本名間正さんとしては鎌倉でどういう暮らしをなさってたんでしょうか? はい。 まあ423 歳であの、ま、引退をして、ま、それから 50年以上ですよね。 私は引退後は、ま、ま、変装してても例えば海外旅行とか色々なさってたんじゃないかなと想像してたんですが、 ま、原せ子さんが亡くなられてから、ま、少し親族の方からあの色々話が伺ったりして分かったことですが、もうずっと鎌倉の家にこもりきりでもうほとんどあの旅行らしい旅行はなさらず、しかもとっても失素な生活をなさって、あの、お金はもう大変、あの、終わり [音楽] [音楽] だったんですけれども、ま、贅沢をしたらいけないというのが口癖で、 ええ、 ま、切るものも失で食べるものも失で本をとにかく読んでいたと。で、あとはあの社会情勢や何かにはとっても興味が持っていて はい。 興味深くテレビや何かで見ていた。あと新聞もなくなっていたようですがあっそりとお過ごしにもうあの本の中に生きていたって言うんでしょうかね。 [音楽] あの、読量は大変なものだよで、 もうなんかある種のイント生活じゃないですけど、 そうですね。もう本当に完全なイント生活だと思います。 で、私、あの、ま、本書いてる時もよく 思ったんですけれども、もう原子さんの 障害ってあのブッの言葉で、あの、良き得 られなければ孤独に歩め、悪をなさず 求めるところは少なく林しの中の像のよう にっていうあのブッダの言葉があるんです けど、なんかもうそれをいつも思い出して しまうんですね。 で、原せ子さんはこの言葉に従って生きたようで、 ま、良きを得られなければっていうのは、ま、単にあの結婚相手とかそういうことだけじゃなくて仕事であったり映画に置き換えることもできると思うんですけれどもうん。 [音楽] ま、それを得られなければ孤独に歩めと悪 をなさず求めるところ少なく林の中の像の ようにとなんか この後半は本当に林の中に進んで入って いって式を迎える像のようだなって 思ったんですね。でもよっぽど強い気持ち を持ってないと はい。その40代からずっとそういう 暮らし方 できないですよね。 ええ、 でもだから逆に言うとよっぽずその華やかな生活というのが小に合わなかったのかなと思う。 むしろ後半の生活の方が原せ子さんの賞にはあったもので うん。幸せな時間だったんじゃないのかなとも思ったりします。 はい。 うん。 で、しかもその間正さんとしてはあの土地を購入したりとか株を所有したりとか あのきちんとご自分の暮らしの設計ってのも将来にわって はい。 考えてらしたんですね。 はい。はい。あの、それはあの、若い時に 女優さんになられて、その自分の先輩女優 の方々が、ま、女優としてこう派手な 暮らしぶりをして、それであの、だんだん 後半にあの、経済的に行き詰まって、え、 しまうっていう、そういう姿を間近に見て いて、とっても考えたようなんですね。 それであのなんとか人を頼ったりしないで映画がでまた引退してから復帰するというようなことしないで住むにはどうしたらいいんだろうって随分考えたようでそれでもう若い頃から接世と直近をして遊んだりしないで贅沢をしないで でそれをまあのま土地に変えどなたかのアドバイスで土地に変えたり株に変えたりで決してその築材っていうことであの儲設けようと思ってなさったことじゃないようなんですけれども ま、困らないようにという将来困らないようにということで、あ、そういう風になさったようですね。だから本当にしっかりした うん。そうですね。 将来展望を持ちになった女性なんですね。 はい。他にこういう生き方を知った方っていらっしゃらないと思うんですけれども、 ま、本当に意思が強くてよしっかりしてないとなかなかこういう生き方はできないかなと。つくづく思いました。 はい。石井さんをずっと 3年あり追いかけて で、殺のこの本ができて、この本の表紙の はい。 原せ子さんのお写真というのがちょっとこう杖をついて 斜めの方からこうじっと はい。 でも何かしっかりした顔つきですよね。 うん。うん。そうですね。あの、これ本当に腹せなのってよく言われるんですけれども、あの、私はもうどうしても表紙にはこの写真を使いたくって うん。ま、今まで一般に知られてる原子 さんの写真っていうのは大体映画の中の 役柄を演じている写真なんですね。から、 ま、オズ映画の中のの、のり子さんでこう ニっこり笑ってるような写真ですとか、ま 、そういったものを皆さんあのご覧になっ てると思うんですけれども、ま、それは 原せ子さんの自身というよりは、ま、役に 手るわけですね。表情から何か。 でもこの私が標心選んだ 1 枚はなんか原せ子さんの内面が滲み出ているようでその高校さとか ええ なんか意思の強さとか 冷静さとか 資慮深さとかなんでしょう人を拒絶するような真差しとかでもあの写真自体まとても傷んでいて あの修復に随分あの手間ったんですけれども 目の強さが そうですね 力がありますよはい。 うん。なんかこう問いかけられてるようなそれでいいのと言われてるようななんかそんな気持ちにさせられるんですね。 あなたちゃんと自分に責任を持って生きてますか?みたいな。 はい。はい。 はい。でもずっとあの石井さんはこの原せ子さんの取材に はい。3 年あまり過ごしてどうでした? はい。そうですね。あのうん。もう油な時間でしたね。それでとても [音楽] うん。 な、何言うん
誰も書かなかった「原節子」の真実
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あの頃の「輝き」と「トキメキ」、覚えていますか?
光と影が交錯した激動の時代…「昭和」。
『懐カシノ昭和チャンネル』は、ただ昔を懐かしむだけではありません。
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昭和を駆け抜けた世代の方には「あの日の感動」をもう一度。
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