1964年3月13日、当時のジョアン・グラール大統領がブラジルのリオデジャネイロで組織した集会の場に到着した数百人の兵士たち。この集会は、21年間に及ぶ軍事独裁政権へとつながった1964年のクーデターのきっかけの1つになったとされている。(PHOTOGRAPH BY ARCHIVE/AGÊNCIA ESTADO/AE)

1964年3月13日、当時のジョアン・グラール大統領がブラジルのリオデジャネイロで組織した集会の場に到着した数百人の兵士たち。この集会は、21年間に及ぶ軍事独裁政権へとつながった1964年のクーデターのきっかけの1つになったとされている。(PHOTOGRAPH BY ARCHIVE/AGÊNCIA ESTADO/AE)

 1971年、南半球のブラジルでは真夏にあたる1月のある暑い朝、私服の保安職員が海辺で暮らす元国会議員ルーベンス・パイバの家のドアをノックした。パイバは車に押し込められ、武装した護衛によって連れ去られ、そのまま行方知れずとなる。あとには妻と5人の子どもたちが残された。

 これが軍事独裁政権下のブラジルでの実話に基づいた映画『アイム・スティル・ヒア』の大まかなあらすじだ。同作品は2025年、第97回アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した。日本では8月8日に公開される。しかしウォルター・サレス監督が描いたのは、独裁者の地下牢でも、あまりにも恐ろしい国家による暴力でもない。

 映画はパイバの妻エウニセに中心に展開していく。彼女は夫が拉致されたあと5人の子どもたちを苦労して育てる一方、約50年にわたり軍事政権の行いに対して粘り強く正義を求め続けた。これは、当時の国民の多くが抱いていた社会に対する不安や喪失感、そして回復力を映し出した作品だ。

 映画の時代背景もストーリーと同様、悲惨なものだ。

ギャラリー:映画『アイム・スティル・ヒア』の裏にある軍事政権の悲惨な歴史 写真4点(写真クリックでギャラリーページへ)

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ブラジル政治社会秩序局の記録保管所には、21年間に及ぶ軍事独裁政権時代に調査された市民、社会集団、社会運動などについて詳細が記されたフォルダーが残っている。こうしたフォルダーは1万3500冊ある。(PHOTOGRAPH BY LIANNE MILTON/PANOS PICTURES/REDUX)

軍事独裁の始まり

 ブラジルの軍事政権への道は、第二次世界大戦後の国際的な野心が潰えたことから始まった。

 第二次世界大戦では連合国側で参戦し、ヨーロッパにも派兵したブラジルに対して、戦後の米国が冷淡な態度、とりわけブラジルの国連安全保障理事会入りを支持しなかったことに、ブラジル政界は衝撃を受けた。

 このことからブラジルは明確に反米的な独自の外交政策を追求することになる。だが時は冷戦時代。この方針転換を、当時すでに不穏さを増していた軍部は危険視し、左派のジョアン・グラール大統領を封じ込めようとした。議会は拒否し、ブラジルはさらに憲政の危機に向かった。

 そして1964年3月31日、軍部はクーデターを起こす。グラール大統領は失脚し、米国の支援の下、ブラジルには戒厳令が敷かれた。

 ブラジルの軍事独裁政権による人権侵害を調査した「真実委員会」は2014年、軍事政権時代の5人の大統領の下での死者・行方不明者は434人にのぼり、およそ2000人が拷問を受けたと報告している。それでも南米の他の独裁政権と比べれば、ブラジルの21年間におよぶ軍事政権は穏健なものだったと言えるかもしれない。

 軍事政権下のチリでは、3000人強の反体制派が殺害されたか行方不明となっており、3万8000人余りが投獄されている。アルゼンチンに至っては、1976年から1983年にかけて軍事政権が行った「汚い戦争」で1万人から3万人の左翼ゲリラや反体制派などが殺されるか行方不明となっている。(参考記事:「終わりなき自由への闘い」)

 とはいえルーベンス・パイバの拉致と殺害は、ブラジルの軍事独裁政権の長い歴史の中でも悲劇的な転換点となった。

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