PROFILE: 南奈未
PROFILE: (みなみ・なみ)アメリカの大学でマーケティングを専攻し卒業。米国や日本にて外資系企業などを経て、クリスチャン・ディオールに入社。その後ダミアーニ、ドルチェ&ガッバーナに転職。2004年に「ルイ・ヴィトン」で、ウィメンズとメンズのPRを担当。12年、マイケル・コースのコミュニケーション・ジェネラルマネージャーに就任。17年、ドルチェ&ガッバーナに復職し、PR&コミュニケーション ディレクターに就く。24年10月退職 PHOTO:MAKOTO NAKAGAWA(magNese) HAIR&MAKE UP:KIKKU(Chrysanthemum)
ファッション業界において、花形職とされるPR。そのトップに就くPRディレクターは、ブランドの“縁の下の力持ち”や“影の立役者”として認識されるほど、目立たずともブランドの大きな役割と責任を担っている。特にラグジュアリーブランドにおいては、常にVIP顧客やメディア、デザイナーやチームの中核的存在だ。交渉術やコミュニケーション能力も必要とされる。南奈未さんは約20年間、ファッションシーンをリードする数々の海外ブランドの日本法人のPRを統括。日本はもちろん、グローバルでその手腕を発揮してきた言わずと知れた人物だ。この10年でデジタルやマーケティングの概念が多様化する中、ファッションラグジュアリーの世界は大きく様変わりしているという。この連載では数回に分けて、南さんが培ってきたファッションPRの仕事そしてその裏側について語る。第4回は、デザイナーとブランドの愛情、そしてメガイベントの醍醐味について。
デザイナーの思いに寄り添い、ともに時代を切り開く
「ルイ・ヴィトン」2012年春夏メンズのショーのフィナーレで DOMINIQUE MAITRE/WWD © FAIRCHILD PUBLISHING, LLC
「ルイ・ヴィトン」12-13年秋冬メンズのショーでは、マーク・ジェイコブスがショーを観覧(写真中央、南さん撮影)
「WWDJAPAN」2011年07月04日号の表紙を飾ったキムによる「ルイ・ヴィトン」メンズのデビューショー
南奈未:ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」在籍時代、アーティスティック・ディレクターだったマーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)がメンズ部門をキム・ジョーンズ(Kim Jones)にバトンを渡した時のこと。キムがデビューした2012年春夏シーズンのショーには、フィナーレにマークも登場して観客をわかせましたが、次の12-13年秋冬では、ショー開始前の客入れをしている最中、なんと会場にマークがいるではありませんか!(写真参照:ちなみによく見ると今は亡きイヴ・カルセル社長がスージー・メンケス女史と歓談中の貴重な写真ですね)。
実はキムがショー開始前のバックステージで嬉しそうにこそっと教えてくれていたのですが、実際に目にするまで私も信じられない思いでした。フロントローでショーを優しく見守るマークの姿とランウエイに照れながら挨拶に出て来たキムが誇らしく印象深い瞬間でした。2人とも才能溢れる天才でありながら、人格的にも優れていてリスペクトを常にお互いに持って周りへの感謝を忘れない、業界でも稀有なデザイナーなのではないでしょうか。私個人としてはファッション界の歴史的瞬間に居合わせることが出来て本当に幸せでした。
キムは非常に多才で、アートへの理解やコラボレーションに対する姿勢はマークに通じるところがありましたね。ブランドへのリスペクトを持ちながら、伝統と革新をバランス良く融合させていた当時の「ルイ・ヴィトン」は、まさにラグジュアリーファッションの黄金期だったと思います。2人の革新的なアイデアは、今のファッションにも色濃く影響を与えていると感じています。
「ルイ・ヴィトン」パリのショー後に、ショーピースだった帽子をかぶってPRチームと記念撮影
現代アーティスト、村上隆さんとのコラボ
その象徴的な例で言うと、当時マークによる現代アーティストの村上隆さんとのコラボレーションや、東京でのファッションショー開催はPRチームにとっても大仕事でした。村上さんと「ルイ・ヴィトン」のコラボは今年の3月にもリエディション・コレクションが発売され話題を呼びましたが、その第1弾は2002年のこと。当時は今のようにファッションとアートが結びつく実例がほとんどなくて、アートと日本が好きなマークはその可能性を信じて自らオファーしたんでしょうね。
村上さんご本人もマークからの突然のメールに「驚いた」と雑誌のインタビューで話されていましたが、彼のまっすぐな情熱が伝わったのかと思います。アートへの深い造詣を持ち、デザインに対する姿勢は本当にすばらしくて、当時“時代の寵児”とよくメディアでも呼ばれていたことは決して過言ではなかったと思います。その後は私の上司だった齋藤牧里さんが仲介し、「ルイ・ヴィトン」と鬼才アーティストの大型コラボが実現し、現代にも通じる大きなインパクトを残しましたよね。
私が担当したのはモノグラム・チェリーで、ランウエイに登場した時のことはかなり衝撃的だったのでよく覚えています。当時は、カジュアルな見た目だけど実は特別な加工が施されていたので価格が少々高めでした。ある程度のボリュームで若い世代に欲しいと言ってもらわないと難しいのかもと実は頭を悩ませていました。たまたま行ったネイルサロンで担当してくれていた20歳のネイリストがモデルの岩堀せりさんの大ファンだと興奮気味に話すのを聞いて、他でもリサーチしたところいろんな若い世代からも名前を耳にして、彼女を起用し新雑誌創刊のタイミングに合わせて付録を付けたり大々的にキャンペーンを実施したりなど、さまざまな試みをしました。もともと商品力があった事もあり結果は大成功でした。
あの時からラグジュアリーブランドが雑誌と付録を始めていく事につながったのではという自負があります(勝手にそう信じています。笑)。今思うと、「ルイ・ヴィトン」で創刊雑誌の付録なんてありえないアイデアだったのですが、当時の上司の懐の深さに頭が下がります。プロジェクトが大きいと必ずハレーションが起こるものなのですが、当時もブランドのイメージにそぐわないなどとお叱りのお声も頂き、落ち込んでいたりしていました。上司の牧里さんに報告したところ、「南ちゃん、それだけ反響があるということなのだから、有名税だと思って堂々としていなさい!」と一蹴(笑)。自分が思い悩んでいた事が馬鹿みたいと思うほどあっさりサポートして頂いたことは、その後の私のキャリアでも大変なことに直面した時に必ず思い出す、今は亡き偉大な上司への感謝モーメントです。
新木場の夢の島公園内で開催したメガイベント
「WWD JAPAN」2006年6月19日号 Vol.1369 から
「WWD JAPAN」2006年6月19日号 Vol.1369 から
「WWD JAPAN」2006年6月19日号 Vol.1369 から
そして06年6月には、マークが来日してファッションショーを行いました。「ルイ・ヴィトン」としてパリ以外で本格的なショーを行うことは初めてのことで、新木場の夢の島公園内に国内外から1800人規模を招待するという、まさにメガイベント。本場のパリのファッション・ウイークで実際に歩いていたモデルを来日させるというのです。モデルオタクの私としては想像しただけで大興奮。のちに、早朝の撮影に来日モデルが現れないというクレームを受けるなどの地獄絵図を見るのですが・・・。PRにとってイベントという名の“戦場”では、チーム全員が極限状態で動きます。3月から海外のプロダクションチームが来日し具体的な打ち合わせが始まり、初回の打ち合わせだけで7時間はありました。
同じ場所で朝昼晩ご飯の軟禁状態…。いくら高級ホテルで打ち合わせといったって、こちらはおにぎりとか味噌汁が食べたいし、一服だってしたいのですよ。そんな始まりで、状況は一刻一刻戦火が激しくなっていくのです。ショーだけでなく、来日モデルを起用してファッション撮影や取材、セレブリティーのケアやドレス着用まで、凄まじい仕事量を社内外のスタッフと協力してみんなでこなしていくしかないのです。以前にもお話しさせて頂きましたが、あの頃一緒に働いた人たちとは今も心のどこかでつながっていて、会えば昨日まで一緒に働いていたようになります。人生の宝ものですね。
ショー会場は、芝生の上の巨大ドームを特設するという前代未聞の試みで、毎日現場とやりとり。20年前って恐ろしくアナログ。Wi-FiもAirDropも存在していない中で、LANケーブルも距離制限があり、データが飛ばない。結局カメラマンの撮影データをUSBに落としてバイトさんたちが暗闇の中を臨時のメディアセンターまで走って運ぶというテレビのコントさながらの今では到底信じられない現場でした。
本番前に雨が降ってぬかるんでるし、時間も手間もかけられないから指示は「あの灯りに向かって走れ!」。なんじゃそれは?的なことが本当に起きていたのです。運搬する人たちはまさに泥んこプロレス状態(笑)。膨大な業務や次々と起こるトラブルに対応しながら、ショー当日を終えるまで睡眠もままならない中、数カ月を走り抜けました。前にも書きましたが、何事も「諦めたら、そこで試合終了」です。全員で諦めないで逃げなかった結果が必ずある。このビッグイベントがPRというキャリアのターニングポイントと言えるほど、今となってはその苦労すら私の愛しき糧となっています。高い山ほど登り切ったときの景色は格別で達成感は大きいし、一緒に登った仲間たちとの連帯感は強くなる。それこそがこの仕事の楽しさだし、辞められない理由なんですよね。