具志堅用高や渡嘉敷勝男、鬼塚勝也、勇利アルバチャコフらボクシング史に輝く13人の世界王者を輩出した「協栄ボクシングジム」。亡き父の跡を継いだ2代目会長・金平桂一郎は、亀田興毅らのマッチメイクをはじめ、一時はボクシング界の中心にいた。しかし、自らのトラブルが原因で会長職を解かれると、そこから人生は波乱の一途を辿っていく。【NumberWebノンフィクション全4回の1回目/第2回、第3回、第4回に続く】

 100キロを優に超える巨体を揺らし西成の商店街を闊歩しながら、馴染みの魚屋でまだ不慣れだという関西弁で会話を交わす。

 港区・赤坂で生まれ育った男は、特性が大きく異なるこの街の中に必死に溶け込もうとしていた。

「東京とは勝手も、人付き合いの仕方も違う。でもそれが新鮮で、救われた面もあります」

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 目の下の大きなクマが特徴的な男の名は、金平桂一郎。現在の肩書きは亀田和毅らが所属する西成の「TMKボクシングジム」の“雇われ会長”である。

「ボクシングの品位を下げた人物だ」

 筆者は金平とは何度か酒席で会う機会があった。包み隠さずいえば、酒癖は決して褒められたものではなく、同伴者に咎められる場面にも遭遇した。サービス精神が旺盛で、求められれば必要以上に応えてしまう。ボクシングの興行師として生きてきた人生の軌跡が、垣間見える瞬間もあった。ただし、それゆえに転落を経験したであろう危うさも、同時に感じさせた。

 2007年10月。亀田大毅と内藤大助の世界戦で大毅は反則行為を繰り返し、日本中からバッシングを浴び、ワイドショーでは金平の一挙手一投足も連日お茶の間に流された。ヒールの亀田家と善玉の内藤という分かりやすい構図をメディアも報じ、世間も呼応した。

 大衆だけではなく、関係者の間でも当時の印象は色濃く残っている。ボクシング関係者やジムの会長と談笑している際、金平が話題に上がると露骨に表情を曇らせる者も少なくなかった。

「亀田家と一緒になりボクシングの品位を下げた人物だ」

 そんな表現すら使う者もいた。

 しかし、一方で時折見せる屈託ない表情から、どうしても“悪人”のように、拳闘界隈では腫れ物として扱われるような人物として見ることに違和感覚えたことも事実だった。

 日本有数のボクシングジムの2代目会長として何不自由無く暮らし、名声を得ていたであろう世界から一転、西成の地で再起を誓う金平のもとに足を運んだ――。

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