中日OBで1999年優勝メンバーの武田一浩がドラゴンズを語る。開幕連勝記録タイの「11」、そして11年ぶりのリーグ優勝を果たした、あの星野中日はなぜ強かったのか?【NumberWebインタビュー全3回の2回目/第1回、第3回も公開中】
1999年の中日ドラゴンズは、いまもファンの記憶に色濃く刻まれている。星野仙一監督の下、11年ぶりのリーグ優勝を果たしたこの年、チームにはどこか特別な空気が流れていた。その渦中にいた一人が、武田一浩だ。日本ハム、ダイエーを経て中日にFA移籍したベテラン右腕は、移籍初年度でリーグ制覇、そして古巣ダイエーと日本シリーズを戦うという劇的な経験をすることになる。
1998年、武田はダイエーで13勝をあげ、最多勝。FA移籍の権利を獲得し、オフの移籍の目玉となっていた。
「星野さんから『先発が1人足りない、生え抜きばかりのチームに刺激がほしい』と電話があってね。FAになってすぐだったよ」
前年98年のドラゴンズは2位。星野仙一監督2期目の3年目。大半の評論家が最下位予想をしていたなかで、中堅が活躍。広いナゴヤドームでの2年目は「大健闘」のシーズンだった。当然ファンの「来年こそはペナントを」との機運も高まっていたなかでの移籍だった。
「中日にFA移籍してまず感じたのは、『立浪(和義)のチーム』という印象だった。それでもオレは野手の守備位置のこととかに口出したりして。その当時は今の選手とは違って個性派の選手ばかり。山崎武司も物言うし、キャッチャーの中村武志、ゴメスも。いろんな連中がいて大型新人も入り、チームが活性化されたよね」
主張する選手たちの間に、ルーキーの福留孝介、岩瀬仁紀が入団。
「岩瀬は開幕から山田(久志)コーチが大事な場面で使ってさ。失敗しても、翌日また使った。あれは、落合英二→ソン・ドンヨル→岩瀬の“勝利の方程式”を作りたかったんだと思う」